説    教         アモス書378節   ルカ福音書9711

             「現臨したもうキリスト」 ルカ福音書講解(71)

               2021・05・30(説教21221910)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝97節以下の御言葉は2つの部分に分かれています。まず7節から9節までのところには、当時のユダヤの王ヘロデが主イエスの噂を聞いて、できるなら主イエスに合ってみたいと思っていた様子が描かれています。7節以下を改めて見てみましょう。

 

(7)さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、(8)またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。(9)そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた」。

 

 さらに、続く10節と11節には、伝道旅行に遣わされた弟子たちが主イエスのもとに帰ってきて報告をした様子とともに、主イエスを取り巻いていた群衆たちの姿が具体的に描かれています。どうぞ10節をご覧ください。「(10)使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。(11)ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた」。

 

 私たちはヘロデという人物について、どのようなイメージを抱いているでしょうか。正直に言って、あまり良いイメージとは言い難いのではないでしょうか。傲慢、残忍、暴虐、圧政、陰謀、計略、独裁、狡猾、これらすべての人間の悪徳がヘロデという人物に遺憾なく現れていたと言えるからです。その場合、私たちに生じる一つの危険は、私たちが自分自身と全く関係のない特殊な人物としてヘロデを見てしまうことです。言い換えるなら、今朝の御言葉と自分を切り離して考えてしまうことです。

 

 続く10節以下には主イエスによって伝道旅行へと遣わされた弟子たちが主イエスのもとに帰ってきて、その報告をする場面が描かれています。弟子たちはそれこそ喜びに満ちた様子で「(10)自分たちのしたことをすべてイエスに話した」のでした。この場合、私たちがこれらの弟子たちに抱くイメージはヘロデの場合とは正反対なのではないでしょうか。彼らは忠実なキリストの弟子たちであり、信仰者であり、礼拝者であり、村々町々を巡り歩いて人々に福音を語り伝えた伝道者のイメージです。それは間違いではないでしょう。

 

しかし、弟子たちの姿はただそれだけではないはずです。何よりも、これら十二弟子の中にはあのイスカリオテのユダがいました。ユダは銀貨30枚と引き換えに主イエスを裏切り、主イエスを十字架刑へと引き渡した人物です。では、他の弟子たちはどうだったのでしょうか?。私たちが福音書を読むとき、そこに示されている弟子たちの姿は、十字架を目前にして、主イエスを知らないと言い張り、主イエスを見捨てて、十字架のもとから逃げ去ってしまった卑怯者たちの姿なのではないでしょうか?。彼らの罪はユダと同じか、あるいはユダよりももっと重かったと言って良いのです。

 

 それでは、今朝の御言葉に出てくる3番目の人々、つまり「群衆たち」の姿はどうでしょうか?。10節を見ますと、主イエスは弟子たちを連れて「(10)ベツサイダという町へひそかに退かれた」と記されています。この「ひそかに退かれた」というのは英語で言うならリトリートです。静かな祈りの時を過ごすためにベツサイダという町に主イエスは弟子たちと共に行かれた、まさにその主イエスを「(11)群衆がそれと知って、ついてきた」のでした。これは要するに主イエスの邪魔をしたわけです。主イエスの御意志に反することを群衆たちは行ったわけです。リトリートをぶち壊したわけです。

 

 こうしたことを読んで参りますと、今朝の御言葉に登場してくる3種類の人々、それは、1)ユダヤの王ヘロデ、2)キリストの弟子たち、3)群衆たち、なのですけれども、これら3種類の人々はみな全て主イエスの御意志(すなわち神の御意志)に反することを行った人々であったと言えるのです。つまり、ヘロデ王は傲慢と残忍と暴虐と圧政によって神の御意志に背き、キリストの弟子たちは裏切りと否認と逃亡と不信仰によって神の御意志に背き、最後の群衆たちは自己中心主義と礼拝破壊と不敬虔と我儘によって神の御意志に背いたわけです。

 

 そこで、実はこれら3種類の人々の犯した罪の姿は、同時に、ここに集うている私たち自身の罪の姿でもあるのではないでしょうか。かつて私が神学校時代に指導して頂いた旧約神学の教授(仮にF先生としておきましょう)が、アメリカの神学大学で学んでいた頃に「旧約聖書における罪人」というテーマで論文を書きました。旧約聖書における罪人とはいったい誰のことなのか、詳しく調べてゆくうちにわかったことがあった。それは「聖書が語っている罪人とはこの私のことだ」ということでした。私たちはそのようにしか聖書を読むことができないのです。それが聖書を正しく読むということなのです。聖書が語っている罪人とは、まさに私たち一人びとりのことなのです。

 

 そこでこそ私たちは、今朝の御言葉の最後の11節に、改めて驚きつつ心を留めざるをえません。それは11節に「(11) ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、(主イエスは)これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた」と記されていることです。これは9節にあるヘロデ、彼は主イエスの噂を聞いて、主イエスに興味を抱き、会ってみたいと思うようになっていたのですが、もしその出会いが実現したなら、主イエスは彼に対しても同じように接したもうたのではないでしょうか。もちろん弟子たちに対しては言うまでもありません。すなわち11節に「神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた」とあることに、全ての人々に対する主イエスの御心が現わされているのです。

 

 私たちこそ、傲慢、残忍、暴虐、圧政、裏切り、否認、逃亡、不信仰、自己中心主義、礼拝破壊、不敬虔、我儘、これら全ての罪の姿の持主であるはずです。それならば、それら全ての罪人たちに対して、主イエス・キリストは「神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた」のです。私たちの測り知れない罪を担って、あのゴルゴタの丘へと続く「悲しみの道」を十字架を背負って歩いて下さり、群衆たちの怒号と叫びと嘲りと罵りの中を、黙って私たちの罪を背負って十字架において御自身の全てを献げ抜いて下さったのです。そして私たちの罪を贖って下さり、私たちを父なる神へと立ち帰らせ、悔改めの喜びを与え、救いと平安、永遠の生命と揺るがぬ希望と真の自由を与えて下さいました。

 

 私たちはいま、この十字架の主イエス・キリストの現臨のもとに一つの群れ、礼拝者の群れとして集められています。それは、このかたに信仰によって固着する人生を歩むためです。人間の悪徳は悪魔にとって私たちを神から引き離し、滅ぼすための手段であり、私たちはそれに対して全く無力な者たちにすぎません。しかしここでこそはっきりと銘記しましょう。私たちが悪魔に(罪の力に)打ち勝つことが求められているのではありません。そうではなく、神がいつも私たちに求めておられることは、悪魔と罪の力と人間のあらゆる悪徳に対する唯一の真の勝利者にいましたもう十字架の主イエス・キリストに固着する人生を歩むことです。

 

親と共にいる子供は、何か怖いことが目の前に現れると親の後ろに隠れます。それと同じように、私たちもまた、いつも主イエスの背後に隠れ、主イエスに固着し、主イエスに堅く信頼する者として、つまり、主の僕たち、主の弟子たちとして、新しい一週間を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。