説    教         詩篇14113節    ルカ福音書916

                「使徒たちの派遣」 ルカ福音書講解(70)

               2021・05・23(説教21211909)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝91節から6節の御言葉を、もういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(1)それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。(2)また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして(3)言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。(4)また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。(5)だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。(6)弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした」。

 

 今日のペンテコステ(聖霊降臨日)の主日礼拝にあたり、私たちに与えられたのは、主イエスが十二弟子をお選びになり、御言葉による権威をお与えになり、伝道へとお遣わしになったことを示す御言葉です。今日の御言葉の中には聖霊という言葉は一度も出てきませんけれども、キリストの弟子たちが選ばれ遣わされるところ、そこにはかならず聖霊なる神の御業が現われていることは言うまでもありません。今日の説教題を「使徒たちの派遣」といたしましたけれども、まさに使徒たちの選びと派遣は主イエスが聖霊によってなしたもう御業なのです。そして大切なことは、それが聖霊なる神の御業であるならば、それはまさに今ここにおいて私たち一人びとりのただ中に現されている救いの御業でもあるのです。

 

 もし聖霊をひと言で定義する、と申しますよりも、ひと言で説明するとすれば、それは「キリストの現在形」であると言うことができるのです。キリストがおられ、御業をなしたまい、十字架におかかりになったのは2000年前のことですけれども、ではキリストによる救いの御業は過去のものなのか、2000年前の出来事なのかと申しますと、そうではないのです。それはキリストの現在形でありたもう聖霊によって、いまここにおいて、私たち一人びとりに現実の救いとして現わされている出来事なのです。

 

言い換えるならば、ただ聖霊によってのみ、私たちは今ここにおいて「イエスは主なり」と告白することができるのです。第一コリント書121節以下をお読みしたいと思います。「(1)兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。(2)あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。(3)そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」。

 

 私たちの教会は、主イエスが聖霊によってお建てになった群であり、ただキリストのみを頭とするキリスト告白の共同体、礼拝者の群れです。そして同時に教会は神の家であり、ここに集う私たちはみな「聖霊の宮」とされている主の弟子たちです。なぜそのことが確かに言えるのでしょうか。それは今の第一コリント書123節にありましたように「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」からです。教会は聖霊なる神の恵みの御支配を受けている群れでありますゆえに、ここに集う私たちはみなキリストを主と告白する「聖霊の宮」とされているのです。そのことが教会が教会であることの最も確かな徴なのです。

 

 キリストの弟子たちに主イエスは「使徒」という名をお与えになりました。使徒とは元々のギリシヤ語で「遣わされた者」または「遣わされて生きる」という意味の言葉です。今日のこのペンテコステ礼拝において、私たちに与えられている限りない恵みは、私たちはみな、聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストによって「遣わされた者」なのであり「遣わされて生きる」使徒たちとされていることです。

 

私たちの人生には確かな唯一の主がおられるのです。このかたは私たちを窮みまでも愛して下さり、私たちの罪を贖い、私たちを救い、私たちに永遠の生命を与えるために、十字架におかかりになって、御自身の全てを献げきって下さったかたなのです。このかた、十字架と復活の主イエス。キリストの現在形こそが聖霊です。十字架と復活の主イエス・キリストは聖霊によって私たちと共にいて下さり、私たちを励まし、力と勇気を与え、希望へと導いて、ついには御国を受け継ぐ幸いを与えて下さるのです。祈りましょう。