説    教      エレミヤ書331416節   ルカ福音書84956

               「懼るな、ただ信ぜよ」 ルカ福音書講解(69)

               2021・05・16(説教21201908)

 

(49)イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った」。今朝、私たちに与えられたルカ伝849節以下の御言葉は、考えられる限り最悪の出だしで始まっているのです。主イエスが長血のために苦しんでした一人の女性(ヴェロニカ)の病を癒しておられる間に、会堂司ヤイロの12歳になる一人娘は死んでしまったのでした。

 

その知らせがまだ群衆取り囲まれている主エスとヤイロもとにもたらされたとき、群衆の間からはおそらく失望のため息と嘲笑の声が上がったことでした。群衆は自分たちが主イエスの邪魔をしたという自覚さえなく、ただ主イエスが長血の女の癒しに手間取ったためにヤイロの一人娘を死なせてしまったことに対して非難と嘲笑を投げかけたのでした。使いの者はヤイロにこう言いました。「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」。

 

この言葉に誰よりも大きな衝撃を受けたのは、もちろんヤイロ自身だったに違いありません。ヤイロは愛娘の死を知るや否や茫然自失し、弟子たちは群衆たちと共に主イエスを非難して言ったことでした。「先生、だから言ったではありませんか。あなたは一刻も早くヤイロの家に行くべきだったのに、途中で思わぬ道草を食ったためにこんな結果になったのです。ヤイロの娘はもう死んでしまいました。今さら行ったところで全ては虚しいのです」。

 

 どうか私たちは続く50節以下を読みましょう。「しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。この50節の御言葉は文語訳聖書では「懼るな、ただ信ぜよ」と訳されています。この「懼るな」という言葉の響きは口語訳の「恐れることはない」とは似ているようでいて、実はだいぶ違うのではないでしょうか。私たちは「恐れることはない」と聞きますと、自分が恐れや不安の中で「慰められている」と感じますが、それ以上の特別な感想は抱かないと思うのです。しかし「懼るな」と聞きますと、それは命令形です。「あなたは恐れてはならない」という意味の言葉なのです。つまり、主イエスはヤイロに対して命じておられる。「ヤイロよ、あなたは恐れてはならない。ただ神のみを信じなさい」と。

 

 ここで私たちは改めて、ヤイロが会堂司であったことを思い起こすのではないでしょうか。これを私たちの教会に当てはめてみますなら、ヤイロは長老であった。先週、私たちは礼拝において一人の新任長老の任職式を行いました。私は昔の連合長老会の文語の式文で司式をいたしましたが、それを読んでいて改めてハッとすることがありました。それは任職の辞の中にこういう文言があったことです。「汝は主イエス・キリストの召しを受けてこの職務に任ぜられたるものなれば、その責任は極めて重大なりといえども、主はこれと共に必ず汝に必要なる恵みと知恵とをたもうべし」。

 

 これは新任の執事に任命された姉妹に対しても私が個人的に申し上げたことですが、長老にしても、執事にしても、その他教会のあらゆる大切な職務を担うに際して、最も大切なことは、それは少しも私たち自身の知恵や力に基づくものではないという事実です。そうではなく、ただ召したもう主イエス・キリストが「必要なる恵みと知恵とを汝に賜る」のです。それをひたすらに信じてのみ長老・執事の務めは成り立つのではないでしょうか。そしてそれは長老・執事に限ったことではないので、牧師の職務についても全く同じことが言えますし、教会員一人びとりの職務についても同じことが言えるのです。「汝は主イエス・キリストの召しを受けてこの職務に任ぜられたるものなれば、その責任は極めて重大なりといえども、主はこれと共に必ず汝に必要なる恵みと知恵とをたもうべし」。

 

 この大切なことを忘れますと、私たちの信仰生活(教会生活)はいつの間にか人間中心のものになってしまいます。福音に基づく新しい生活が、いつの間にか律法に基づく古い生活に逆戻りしてしまうのです。そして教会生活に喜びと感謝か無くなっていきます。いつしか礼拝から足が遠のき、いろいろな言い訳を作って教会から離れようとします。その原因の最も根本にあるものは、召したもう主イエス・キリストを見失って、ただ自分だけを見つめる、律法に基づく古い生活への逆戻りなのです。

 

 主イエスは会堂司ヤイロに命じたもうのです。「汝は恐れてはならない。ただ神を信ぜよ」と!。自分自身の知恵や力を頼みとしてはならない、ただあなたを召して下さった主なる神を信じなさいと。これは信仰生活への新たな招きです。そしてヤイロに力強く約束してくださいます。「娘は助かるのだ」と。

 

 どうか私たちは続く5156節までをご一緒に読みましょう。「(51)それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。(52)人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。(53)人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。(54)イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。(55)するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。(56)両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた」。

 

 ヤイロの家にお入りになった主イエスは、ただペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そして死んだ子の両親(つまりヤイロとその妻)だけがご自分と一緒に死んだ子の部屋に入ることをお許しになりました。なぜなら他の人々は「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた主イエスの御言葉を聞いて「イエスを嘲笑った」からです。思い起こして下さい、主イエスは私たちに信仰による応答だけをお求めになるのです。主を「嘲笑った」人々はまだ自分の知恵と力を頼みとしているのです。神の恵みの御力に自分の存在と生活を明け渡すことのできる人を主イエスは求めておられます。

 

 「(54)イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。(55)するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。(56)両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた」。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書エレミヤ書3316節に、このようにございました。「(16)その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。私たちは何よりもまず、この御言葉の主語を正しく理解する必要があります。ここで「ユダ」または「エルサレム」とあるのはこの全世界のことを意味しています。つまり、世界に神の御業が現わされ、全世界が救いに与かることの約束がなされているわけです。そして続いて「その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」と記されていますが、これは、世界が救われるから、だから神が正義と呼ばれるという意味ではないのです。そうではなく、神は正義であられるゆえにこの現実世界をお救いになるのです。

 

 今朝のルカ伝の御言葉でも同じです。主イエス・キリストがこの12歳の少女を生き返らせて下さったから、だから私たちは主イエスを救い主と呼ぶのではないのです。そうではなく、主は永遠に救い主であられるからこそ、この驚くべき救いの御業を私たちのただ中に現わして下さったのです。だから、ヘブライ語では「正義」とは「神は救い主である」と同義語です。今、ここに集う私たち一人びとりが「主はわれわれの正義=神は私の救い主である」と讃美し告白する主の僕たちとならせて戴いているのです。祈りましょう。