説    教           箴言1814節    ルカ福音書84048

               「救われしヴェロニカ」 ルカ福音書講解(68)

               2021・05・08(説教21191907)

 

 「(40)イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。(41)するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。(42)彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた」。今朝のルカ伝840節以下は、たいへん緊迫した慌ただしい状況を私たちに伝えています。

 

主イエスが弟子たちと一緒にゲラサから舟でカペナウムの村に戻られますと、そこにヤイロという名の会堂司が待ち構えていました。彼は主イエスが舟から下りるのも待ちきれない様子で「イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った」のでした。それは続く42節にありますように「彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた」からでした。そこで主イエスは、お休みになる暇もないまま、ヤイロと共に直ちに彼の家に出かけて行かれたのです。

 

42節を見ますと「ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた」と記されています。何百人、何千人もの群衆が、主イエスとヤイロと十二弟子たちを取り囲むようにして、一緒になって歩き始めた様子がわかります。するとそこに、今朝の43節以下ですが、もうひとつの新しい出来事が起こったのです。ようするにハプニングが生じたわけです。43節以下を見てみましょう。「(43)ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。(44)この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。(45)イエスは言われた、「私にさわったのは、誰か?」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。(46)しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 

 

 自分の娘を主イエスに11刻も早く癒してもらいたくて道を急いでいたヤイロにとっては、このハプニングはとんだ迷惑だったことでしょう。この女性の名はおそらくヴェロニカで、彼女は最初は群衆の中に紛れこんで後ろからそっと主イエスの「御衣のふさに触った」のでした。ユダヤの男性の衣服には四隅にふさがついているので、そのうちの一つに彼女はそっと触れたわけです。すると驚くべきことが起こりました。12年間も彼女を苦しめ続けていた病気が(長血という婦人病が)たちまち治ってしまったのです。その事実を自分の身体に感じたときのヴェロニカの驚きと喜びがどれほど大きなものだったか想像に難くありません。

 

 ところが、このヴェロニカの癒しの出来事は、ただそれだけで終わりませんでした。それは、主イエスが突然、群衆の中で立ち止まられて「(45) 「わたしにさわったのは、だれか」と言われて、ご自分の御衣のふさに触った人を探し始められたことでした。驚いたのはヤイロと十二弟子たちです。「先生いったい何を言っているんですか?私たちは一刻も早く行かなくてはならないんです。それなのに先生はこんな群衆の中で、ご自分の服に触ったのは誰かとおしゃるのですか?」

 

 子供の頃に「おしくらまんじゅう」という遊びをしたことのあるかたならわかると思います。あるいはむしろ、満員電車を経験した人なら誰でも実感できると思います。群衆が主イエスの周囲に押し迫り、ひしめき合っているのです。そうした状況の中で「私にさわったのは、誰か?」と訊ねることは、それ自体が愚かしい質問だと、弟子たち特にペテロは感じたことでした。改めて45節と46節を見てみましょう。「(45)イエスは言われた、「私にさわったのは誰か?」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。(46)しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 

 

 この緊迫した状況の中で、このヴェロニカは、もう自分がしたことを隠し通すことはできないと思いました。否、それよりももっと、彼女は主イエスの前に隠すべきことは何もないのだと確信したのです。どうか47節以下をご覧ください。「(47)女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。(48)そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

ここで私たちが改めて感じ入ることは、主イエスがここでヴェロニカのために少なからぬ時間を費やしておれることです。急いでいたヤイロや弟子たちは気が気ではなかったはずです。しかし主イエスはヴェロニカの話を丁寧にお聴きになった。ヴェロニカにとって12年間の病気との戦いと苦しみは、人から蔑まれ、医者にも見放され、家族も友人も失い、孤独の中で耐え忍んだ12年間でした。その彼女の苦しみと悲しみの全てを、主イエスは慈しみの御手に受け止めて下さったのです。主イエス・キリストに受け止めて頂けない苦しみや悲しみは何ひとつありません。私たちは讃美歌532番の歌詞を心に留めたいと思います。「主の受けぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、現世にあらじかし、何処にも御跡みゆ。昼となく夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき交わりよ」。

 

 主イエスは慈愛のまなざしでヴェロニカを見つめられ、そして彼女の手を取って起こされますと、彼女に言われました。今朝の48節です。「(48)そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。これはこういう意味です。「ヴェロニカよ、いまあなたに神の救いが訪れた。あなたはこれから後、どんなことがあっても、主なる神の愛の御手の内を歩む人になったのだ。だから、安心して行きなさい」。この最後の「安心して行きなさい」というのは、元々のギリシヤ語を直訳するなら「いつも慰められてありなさい。勇気をもって、私の平安の内を歩む人になりなさい」という意味の言葉です。だからこれはヴェロニカに対する救いの宣言そのものなのです。

 

 この出来事が起こってから後のヴェロニカの人生がどのようなものであったのか、私たちはヨーロッパの教会に古くから伝わるある物語によってその一面を知ることができます。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘に続く道を歩まれたとき、一人の女性が主イエスのもとに走り寄って、額に流れる血を自分のベールを取って拭いて差し上げました。その女性がヴェロニカだったと言われているのです。

 

 ヴェロニカは、おびただしい群衆が主イエスに向かって罵り、大声で「十字架につけろ」と叫び、石を投げ、唾を吐きかける状況の中で、主イエスの御頭から流れる血を、自分のベールを取って拭いて差し上げたのでした。それは、どんなに勇気を必要とする行為だったことでしょう。しかしヴェロニカにとって、それは当然の行為でした。それは信仰による主イエスへの従順の行為であり、彼女の信仰告白そのものでした。

 

 私たちもまた、ヴェロニカと同じように、主イエスによって救って戴いたのではないでしょうか。私たちの人生には、主イエスが御手に受け止めて下さらない苦しみや悲しみは無いのです。それを知るとき、私たちもまたヴェロニカのように歩み始めます。そして主が彼女に語って下さった御声を私たち自身に対するものとして聴くのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。祈りましょう。