説    教           詩篇10015節    ルカ福音書83439

               「主こそ神なるを知れ」 ルカ福音書講解(67)

               2021・05・02(説教21181906)

 

 今朝のルカ福音書834節のひとつ手前、33節以下の御言葉を改めて口語訳でお読みしたいと思います。「(33)そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。(34)飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった」。

 

 レギオンという一人の男に取り憑いていた数多くの悪霊たちは、主イエスの許可を得て「その人から出て豚の中へはいり込んだ」のでした。すると驚くべきことが起こりました。33節にあるように「するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった」のです。ゲラサ付近のガリラヤ湖沿岸は崖のような急斜面になっています。どうか想像してみて下さい、千匹もの豚の群れが雪崩をうつように崖の上から湖に駆け下って、全て溺れ死んでしまったというのです。驚くべき光景です。レギオンという一人の人が救われるためには、このような大きな犠牲が必要だったのです。

 

 私はかつて農学校で学んでいたとき、豚の群れの世話をした経験がございます。あるとき豚舎の掃除をしておりますとき、ランドレースというデンマーク原産の大きな豚(たぶん重さは300キロ以上あったでしょう)に後ろから足の踝を噛まれたことがありました。長靴の上からですがゴリッという嫌な音がして激痛が走りました。しばらく松葉杖で登校する羽目になりました。それ以来私は決して豚に後姿を見せないように気を付けるようになったのですが、そのような経験をしても豚は本当に可愛いものでした。ゲラサの地で1000匹もの豚を飼っていた人にとっても、それは同じだったのではないでしょうか。そしてさらに大切なことは、その1000匹の豚の群れは大変な財産だった、とても価値のあるものだったという事実です。

 

 主イエス・キリストにとって、主なる神にとって、最も大切なことは私たちが救われて神の国の民となることです。さらに言うならば、主なる神にとって最も価値あるものは私たち一人びとりなのです。一人びとりが「かけがえのないあなた」です。その私たちを救うためには、いかなる犠牲をも厭いたまわないのが神の聖なる御心なのです。1000匹の豚の群れを湖に沈めてまでも、レギオンというたった一人を救いたもうのです。それは実は、十字架の主イエス・キリストに繋がっています。主イエス・キリストは私たちを「かけがえのないあなた」を救うために、あのベツレヘムの馬小屋に人となられ、御自身の全てを十字架において献げきって下さったかたなのです。1000匹の豚の群れどころの話ではありません。神の永遠の御子が、死ぬはずのないかたが、私たちの救いのために十字架上に死んで下さったのです。そのようにしてまで「かけがえのないあなた」を救って下さったのです。

 

 さて、今朝の御言葉の続き、ルカ伝835節以下を読みましょう。「(35)人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。(36)それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。(37)それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。(38)悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。(39)「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」。

 

 いつの時代にも民衆は物見高く、噂話やゴシップを好むものです。しかしこのとき「この出来事を見に出てきた」ゲラサの人たちは、想像を遥かに超えた驚くべきことを見聞きしたのでした。それは、あの墓場を住みかとしていたレギオン、鎖さえも引きちぎって手が付けられなかったレギオンが「着物を着て、正気になってイエスの足もとに座っている」のを見たことです。それでゲラサの人たちは、村にとって重要な財産であるあの1000匹もの豚の群れが湖に駆け下って溺れ死んだ理由を理解したのでした。ああそうだったのか、このナザレのイエスは本当にキリスト(救い主)なのだ。そして、この可哀想なレギオンを救うために1000匹の豚の群れを犠牲にして下さったのだと。

 

 この大切なことを理解した人たちは、あとから物見高くやって来た全ての人々にこの出来事を宣べ伝えたのです。すなわち36節に「(36)それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた」とあることです。ところが、人間はまことに身勝手な、道理をわきまえない存在でありまして、この救いの出来事を見ても、なお納得しない人たちが大勢いたことがわかります。彼らは主イエスに言ったのです。とんでもない!いったい誰に断ってあの1000匹の豚の群れを溺れさせたのだ。あれは我々の大切な財産だったのだ。あなたがあの豚の群れを溺れさせたというのなら、今すぐここから立ち去ってもらいたい。そのように言って、主イエスと弟子たちに向かって「(37) 自分たちの所から立ち去ってくださるように」迫ったのでした。

 

 主イエスの弟子たちはたぶん怒ったことでしょう。お前たち、何を言うのだ、お前たちが匙を投げていたレギオンをイエス様が救って下さったことがわからないのか?。お前たちにとっては1000匹の豚の群れのほうがレギオンの救いよりも大事なのか?。ここに主イエスの弟子たちとゲラサの村人たちとの一触即発の緊張が生じたわけでありますが、主イエスは柔和なかたです。むしろ弟子たちをお叱りになった。これこれ、お前たちこそ言葉を謹みなさい。この村人たちは恐怖に怯えているのがわからないのか?。私がここを立ち去ればそれで済むことではないか。なによりもレギオンは既に救われたのだ。我々は目的を達成できたのだ。そうおっしゃって37節にあるように、舟に乗って帰ろうとされたのです。

 

 ところが、その主イエスをレギオンが必死になって追いかけてきました。そして主イエスに申しますには「ぜひ先生のお供をさせて戴きたい」としきりに願いました。主イエスの弟子にならせて下さいと願ったのです。しかし主イエスは39節にございますように、いや、それはいけない。むしろあなたは、あなたのことを心配していた家族のもとに帰りなさい。そして「(39)「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」」とおおせになりました。レギオンはそれを聴いて理解したのです。そうだ、私がなすべきことは、自分の周囲にいる愛する人々に神の御業を宣べ伝えることだ。「(39)そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇1001節以下にこうございました。「(1)全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。(2)喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。(3)主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」。この御言葉は、神を知ることが救いそのものだということを私たちに物語っています。そして、神を知るということは、実は、神によって知られている自分を知ることなのです。神に限りなく愛されている自分を知ることです。それが神を知ることです。その時、私たちの心は真の礼拝へと向かって行きます。「(1) 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。(2)喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ」。

 

 大切なのは、日常生活の中にある礼拝です。礼拝において始まる日常の生活です。主なる神は私たちを条件付きの愛で愛したもうのではありません。神の愛は常に絶対無条件の愛です。そればかりではなく、それは1000匹の豚の群れをも惜しげもなく献下て下さる真実なる愛です。私たちのために十字架を担って下さった御子イエス・キリストの愛です。その神の愛を知ることそれ自体が私たちの救いなのです。私たちは日常生活のただ中でキリストの弟子になることができます。それはすなわち、キリストの御身体なる教会に結ばれて、礼拝者として歩むことです。まさにその喜びと幸いを、今朝の御言葉は私たち一人びとりにはっきりと語り告げているのです。祈りましょう。