説    教            詩篇799節    ルカ福音書82634

               「レギオンの救い」 ルカ福音書講解(66)

               2021・04・25(説教21171905)

 

 「(26)それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。(27)陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた」。今朝の御言葉であるルカ福音書826節以下はこのような御言葉で始まっています。この出だしからして異常事態だということがわかります。ゲラサというのはガリラヤ湖の北側にある荒れ果てた土地で、湖の沿岸は崖のように切り立った岩山になっています。その崖の中腹には洞窟がたくさんありまして、それらは全て古い時代の墓の跡なのです。そのような古い洞窟()の一つに「(27)悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人」が住み着いていました。主イエスと弟子たちはその人に「出会われた」のでした。

 

 それは決して、偶然の出会いなどではありませんでした。主イエスはまさにこの人に会って救いを与えるために、敢えて誰も行きたがらない「ゲラサ人の地」に行かれたのです。続く28節以下を見てみましょう。「(28)この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。(29)それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである」。

 

 これはなんと凄まじい状態でしょうか。この人は悪霊に取り憑かれていたのです。そして悪霊は、主イエスによってこの人から追い出されるのを嫌がって、この人の口を借りて主イエスに向かって叫ばせたのです。「(28)いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」と。この人のみじめな状態は更に29節にこう記された通りでした。「悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである」。

 

 どうぞ続けて30節以下をご覧ください。「(30)イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。(31)悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。(32)ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。(33)そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった」。なんとこの人(レギオン)に取り憑いていた悪霊は一人や二人ではありませんでした。それは「レギオン」つまり千人の軍団のような大勢であったのです。

 

 そこで、私たちは改めて今朝のこれらの御言葉を、自分自身と関わりのある御言葉として聞き直さなくてはなりません。このレギオンの姿は、実は私たち自身の生身の人間としての偽らざる姿を現しているのです。と申しますのは、実は私たち人間は、いつも何物かによって支配されている存在なのです。禅の言葉に「随所作主」(随所に主となる)というものがありますが、それは人間としての悟りの最高の境地を示すものです。普通の人はとてもそうはいかないのです。むしろ「随所作他」なのが私たち人間なのではないでしょうか。自分が人生の主人公のようでいながら、実はそうではない。私たちの生活のただ中にはいつのまにか数多くの悪霊()が入りこんで、めいめいが勝手に自己主張を始めるのではないでしょうか。

 

 そのような悪霊()の支配の目的は、私たちを神から引き離して、永遠の滅びに投げ込むことです。そうです、このレギオンに対する悪霊の支配はほとんど確定したと言って良いでしょう。彼を誰も近寄れない墓の中に住まわせたのですから。あとはもう一押しすれば、レギオンを永遠の滅びに投げ込むことができるはずです。ところが、そこに主イエスが来られたのです。そして悪霊どもに対して「この人から出て行け」とお命じになったのです。だから悪霊どもは驚き慌てました。神の永遠の御子のお命じになることは絶対だからです。いかなる悪霊の支配といえども、神の御子イエス・キリストに逆らいうるものではないからです。

 

 そこで悪霊は、悪知恵を巡らして主イエスに答えました。答えというよりも、主イエスに哀願したのです。それが今朝の御言葉の31節以下です。「(31)悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。(32)ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。(33)そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった」。

 

 ああ、神の御子イエスよ、どうか私たちを滅ぼさないで下さい、どうか私たちを地獄に落とさないで下さい。そうだ、あの山の斜面に豚の群れがいます。どうか私たちをあの豚の群れの中に入らせて下さい。そのように悪霊どもは主イエスに哀訴したわけですね。それを主イエスはお許しになりました。「宜しい、あの豚の群れの中に入れ、そしてもう二度とこの人を苦しめてはならない」と言われたのです。悪霊どもはもう「それは幸い」とばかりに大喜びで豚の群れの中に入りますと、「するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった」のでした。そのようにして、このレギオンという名の人は救われたのです。主イエスによって悪霊の支配から解放して頂き、聖霊なる神の恵みの御支配のもとに新しく生きる人にならせて戴いたのです。

 

 今日のこの御言葉は、私たちにとても大切な福音の真理を語り伝えています。それは「救い無き者にこそ救いがある」ということです。聖書が語っている、主イエス・キリストによる救いとは、私たちの中にある程度の「救いの可能性」があって、それを手掛かりにして主が私たちを救いたもうというのではないのです。そうではなく、レギオン(千人の軍団)のような悪霊の支配を受けている私たちです。罪によって「奴隷的意思」のもとにある私たちです。そのような、いわば「救われえない私たち」「救いの可能性の全くない私たち」を、主イエス・キリストは救うためにゲラサの地に来て下さったかたなのです。絶望しかありえない場所に、救いの可能性の全くない私たちを救うために、神の御子イエス・キリストは来て下さったのです。それが福音の本質なのです。

 

ユンゲル(Eberhart Jungel 1934-)というドイツの神学者、この人はカール・バルトの弟子にあたる人ですが、驚くべきタイトルの本を書きました。それは「キリスト教信仰の中心としての神無き者の義認の福音」(Das Evangelium Von Der Rechtfertigung Des Gottlosen Als Zentrum Des Christlichen Glaubens)というのです。ユンゲルによれば、福音の中心は「神無き者の神」(Gott der Gottlosen)にあり、それは十字架と復活の主イエス・キリストのことなのです。神は御子イエス・キリストによって、神無き私たちの救いのために、みずから神無き死としての十字架上の死を遂げて下さったかたなのです。言い換えるなら、神の外に出てしまった私たち、ゲラサの地に住んでいる私たちを救うために、神みずからが御子イエス・キリストによって、神の外に出て下さったのです。ゲラサの地に来て下さったのです。

 

そこに、十字架と復活の主イエス・キリストにこそ、救い無き者の救いがあります。そこに、私たちの救いがあります。そこに、私たちの新しい希望の人生が作られていきます。そこに「随所作主」の新しい人生があります。主はいまも、後も、いつまでも、私たちと共にいて下さり、私たちの全存在の贖い主であり続けたもうのです。祈りましょう。