説    教   サムエル記上122022節   ルカ福音書82225

               「汝の信仰いずこに在る」ルカ福音書講解(65)

               2021・04・18(説教21161904)

 

 「(22)ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。(23)渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。(24)そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。(25)イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。

 

 主イエス・キリストが一緒に船に乗っておられたのにもかかわらず、突如として「吹き下ろしてきた突風」に弟子たちは狼狽し、恐れをなし、慌てて、大混乱に陥ったのでした。ガリラヤ湖ではときどきこのように突風が生じて大きな波が立つことがあります。そこで、主イエスはと見ますと、主イエスは23節にあるように船の上で眠っておられた。弟子たちは慌てて主イエスの肩をゆすって起こそうとしました。「先生、先生、私たちは死にそうです」と叫んで、主イエスを起こしたのです。すると、主イエスは24節にあるように「イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった」のでした。

 

ここまでは一連の驚くべき奇跡の出来事のひとこまです。今朝の御言葉はそれだけで終わってはいません。さらに大切な主イエスの御言葉へと私たちを導くのです。それは25節です。「(25)イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。

 

 ここで、弟子たち一人びとりは私たちの人生の象徴であり、湖は世界であり、船は教会をあらわし、そして波風は人生における様々な苦しみや困難をあらわしています。私たちは人生という名の航路において、孤独な存在ではありません。教会は十字架と復活の主イエス・キリストの御身体であり、私たちはそのキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において、永遠の御国、神の家族に結ばれています。なによりも教会の唯一のかしらは主イエス・キリストです。主が私たちの人生行路のただ中で共にいましたもう、この事実にまさる慰めと喜びと力は無いのではないでしょうか。

 

 ところが、弟子たちは、否、私たちは、その教会という名の船に乗り合わせていながら、突如として私たちの人生を襲う波風(様々な苦しみや困難)を見て恐れてしまうのです。パニック状態になってしまうのです。われを失なってしまうのです。途方に暮れてしまうのです。そして、十字架と復活の主イエス・キリストが共にいましたもう事実を見失ってしまいます。それどころか「主は眠っておられるではないか!」と怒り、ますます慌てふためくのです。主イエスの肩を揺すってまでして起こそうとするのです。「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と。

 

 このことは、主イエスに対する私たちの信仰の無さを示しているのではないでしょうか?。自分たちと一緒になって慌てふためいてくれなければ嫌だ。自分たちと一緒になって騒いでくれなければ嫌だ。自分たちと同じようにパニックに陥ってくれなければ嫌だ。そのように弟子たちは主イエスに対して、自分たちのようになってくれることだけを望んでいるのです。いわば、主イエスを自分たちだけの人間の物差しで測ろうとしているのです。そこで弟子たちが求めているものは「同伴者イエス」であって「救い主キリスト」ではありません。言い換えるなら、弟子たちは教会という船に乗っていながら、唯一のかしらなる主イエス・キリストではなく、襲い来る波風だけを見て恐れ戸惑っているのです。そして主イエスに対して「そんなところで寝ていないで、私たちと一緒に騒いでください」と要求しているのです。

 

 そのような弟子たちに対して、否、不信仰に陥っている私たち一人びとりに対して、主イエス・キリストははっきりと語りたまいます。「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と。文語訳では「汝の信仰いずこに在る」です。欽定訳(KJV)では“Where is your faith?”ルター訳では“Wo ist euer Glaube ?”と訳されています。単純ですがとても含蓄に富んだ訳です。特にルター訳の“Wo ist euer Glaube ?”ですが、これは親しい友人が安否を問うときに用いる表現です。たとえば“Wo bist du ?(おまえはどこにいるんだ?=無事なのか?)というような表現が用いられます。旧約聖書の創世記39節において、罪を犯して身を隠してしまったアダムとエバに対して主なる神が「おまえたちはどこにいるのだ?=私から隠れて、どこに行ってしまったのだ?」と呼び掛けておられますが、それはドイツ語で言うなら“Wo seid ihr ?”です。

 

 主イエス・キリストは、弟子たち全てに、否、まさに今朝ここに集うた私たち一人びとりに訊ねておられるのです。「おまえたとはどこにいるのだ?」と。あなたがいま立っているその場所は、あなたの人生を祝福し、罪と死に打ち勝つ場所なのか?と問うておられるのです。同じルカ伝1619節以下に「金持ちと貧しいラザロ」の物語があります。一人の大金持ちがいて、毎日贅沢三昧に暮らしていました。その金持ちの門前に乞食同然の姿でラザロという人が住んでいました。やがてラザロが天に召され、金持ちも同じように死にました。すると神を信じていなかった金持ちは非常に苦しい場所から、ゲヘナから、はるかに天国にいる祝福されたラザロの姿が見えました。ルカ伝1622節以下を読みましょう。「(22)この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。(23)そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。(24)そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。(25)アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。(26)そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。(27)そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。(28)わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。(29)アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。(30)金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。(31)アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

 ここでこの金持ちは「もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう」と語っています。今朝のルカ伝825節の主イエスの御言葉「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」は、まさにそれをいま、歴史の中で私たち一人びとりのものとして求めておられるのです。言い換えるなら、私たちの現在の生活を永遠の御国から見直すことです。それが信仰に立つということです。そして、そこにこそ、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストによって罪と死から贖われ、救われた者として生きることにこそ、私たち人間の本当の自由と幸い、力と勇気があるのです。それゆえ、私たちは今朝の主イエスの問い「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」に対して、このようにお答えする僕であり続けたいと思います。「主よ、われ汝を信ず。信仰なき我を助けたまえ」。祈りましょう。