説    教        詩篇4315節   ルカ福音書81921

               「主イエスの家族」ルカ福音書講解(64)

               2021・04・11(説教21151903)

 

 「(19)さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。(20)それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。(21)するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。今朝、私たちに与えられたこの福音の御言葉は、誰もが一読して「よくわかる」というものではないと思います。むしろこれは「わかりづらい言葉」かもしれません。

 

ガリラヤにおいて大勢の群衆を集めて神の国の福音を語っておられた主イエスのもとに、ある日のこと、主イエスの家族(肉親たち)がやって来たというのです。しかも彼らは「群衆のためそば近くに行くことができなかった」ので、それを知った一人の人が、たぶんそれは十二弟子の誰かであったと思うのですが、20節にございますように「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と主イエスに告げたのでした。ところがそれをお聞きになった主イエスは21節に、このようにお答えになったのです。「(21) するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。

 

 昨年の一月に天に召された石塚安彦さんが、あるとき私にこうおっしゃった言葉を思い起こしています。「牧師先生というものは親の死に目にさえ会えないものなのです」そして続けて、ある一人の旧日本基督教会時代の先輩の牧師先生の事例を教えて下さいました。石塚さんによれば、その牧師先生は神学校に入るために上京なさる日の朝、ご自分のご両親の前に深々と手をついてお辞儀をして、このようにおっしゃったのだそうです。「私はこれから親不孝を致します。なにとぞお許し下さい」。私はその言葉をとても印象深く覚えています。そして心から「そのとおりだ」と思わされたことでした。

 

 もちろん、その旧日本基督教会時代の牧師先生も、好んで親不孝をなさるために神学校に入ったのではないと思います。そうではなくて、たとえ親孝行をしたいと思っても、それができない世界に私は入っていきます、神学校に入るとは、牧師になるとは、そういうことなのです。そのことをどうぞお許しください、という意味でおっしゃった言葉なのだと思います。そしてそれは、私にもよく理解できる言葉です。牧師になるということは、ある意味において、とても大きな親不孝をすることです。親不孝をせざるを得ない世界(領域)に入って行くということなのです。

 

 ところが、そのような信仰の論理、否むしろ「献身の論理」が、日本人にはなかなか容易に理解してもらえないのも事実なのです。特に日本においては儒教の影響から「親には孝行するものだ」という社会的価値観が潜在的に沁みついていますから、牧師としての職務を行うことと親孝行の要求との間で非常に大きな葛藤を経験せざるを得ないということが往々にして起こりうるし、現実問題として起こるわけです。

 

 私は約30年前にイスラエルのギリラヤのナザレを訪れたことがあります。ナザレはご存じのように主イエスがお育ちになった街です。小高い丘の上にある、静かな美しい町でした。なぜかわかりませんが、花屋がとても多かったことが印象に残っています。ナザレの住民は花が好きなんだなと思わされたことでした。そのナザレのほぼ中心部には主イエスがお育ちになった家の跡に建てられたと言われる教会がありまして、その名もずばり「聖家族教会」です。スペインのバルセロナに「サグラダ・ファミリア」というアントニオ・ガウディが設計した大聖堂がありますが、あれもスペイン語で「聖家族教会」という意味です。この場合の「聖家族」とは幼子主イエスと母マリアと父ヨセフの3人をあらわします。

 

 父ヨセフは主イエスがまだ少年時代に亡くなったと言われています。そして主イエスのいわゆる歴史における「肉親」としては、母マリア、そして聖書の御言葉から推察すると、兄弟姉妹が3人から5人ぐらいいたと想像できるのですけれども、だいたい当時のユダヤの生活習慣として、人々は生まれ故郷の街からほとんど離れずに生活していましたから、それらの主イエスの肉親たちもナザレに住んでいたものと思われます。ともあれ、その主イエスの家族(肉親たち)が、ある日、大勢の群衆に囲まれて福音を語っておられる主イエスのもとを訪ねてきたわけです。そして大群衆のために主イエスに近づくことができなかったので、人に言付けを頼んで主イエスに伝えました。「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と。この言いかたには「せっかくナザレからあなたの母上と兄弟たちが来てくれたのですから、あなたはすぐに説教を止めて、面会しなければなりません」という家族中心主義的道徳訓の香りが漂っています。

 

 そのとき、主イエスはどうなさったのでしょうか?。主イエスは今朝の21節においてこうおっしゃったのです。「(21)するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。ここに「人々に向かって言われた」とあることは、主イエスが説教をお止めにならなかったことを示しています。どうぞ具体的な状況を想像してみて下さい。私も今ここで礼拝において説教を宣べ伝えています。そこに、誰か私の肉親が乗りこんて来て「いますぐ説教を止めて、私たちと一緒に家に帰りましょう」と言ったと仮定して、皆さんはそのような場面に直面したらどのように思われるでしょうか。私は「ああそうか、それなら家族が来たのだから、すぐに説教を止めて一緒に家に行きましょう」と言うでしょうか?。そういうことは絶対に言わないのです。

 

 これは絶対のことです。献身するとはそういうことです。牧師になるとはそういうことです。たとえいかなることがあろうとも、牧師であり続けることが最優先課題です。人にではなく神に従うこと、人に対してではなく神に対して従順であること、それが最も大切なことです。だから主イエスははっきりとお答えになりました。「(21)神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」と。内村鑑三は「求安録」という著書の中でこう語っています「われは地上の家族を失いて天の家族を得るなり」と。そして実は、地上の家族、歴史における家族もまた、天の家族(聖家族=サグラダ・ファミリア)にしっかりと結ばれてこそ、本当の意味で幸いなものになるのではないでしょうか。それは地上における肉親の関係にとどまらず、天において永遠の絆を持つものになるからです。

 

 最後に「天に一人を増しぬ」と題する、セラ・ゲラルディン・ストック(Sarah geraldine Stock)の詩を植村正久の訳で紹介して終わります。この詩は今日の御言葉に対する最良の解釈を私たちに示すものだからです。

 

「家には一人を減じたり。楽しき団欒は破れたり。愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき。さはれ天に一人を増しぬ。清められ、救はれ、全うせられしもの一人を。家には一人を減じたり。帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ。行くを送る言葉一つ消え失せぬ。別るることの絶えてなき浜辺に一つの霊魂は上陸せり。天に一人を増しぬ。家には一人を減じたり。門を入るにも死別の哀れにたえず。内に入れば空きし席を見るも涙なり。さはれ、はるか彼方に我らの行くを待ちつつ、天に一人を増しぬ。家には一人を減じたり。弱く浅ましき人情の霧立ち蔽いて、歩みもしどろに目も暗し。さはれ、みくらよりの日の輝き出でぬ天に一人を増しぬ。げに天に一人を増しぬ。土の型にねじこまれてキリストを見るの眼暗く、愛の冷ややかなる此処、いかで我らの家なるべき。顔を合はせて吾が君を見たてまつらん。かしここそ家なれまた天なれ。地には一人を減じたり。その苦痛、悲哀、労働を分つべき一人を減じたり。旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり。さはれ、あがなはれし霊の冠をいただくべきもの一人を天の家に増しぬ。天に一人を増しぬ。曇りし日もこの一念に輝かん。感謝、讃美の題目更に加はれり。吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐる鎖の環、さらに一つの環を加へられしなり。家に一人を増しぬ。分るることのたえてなき家に。一人も失はるることなかるべき家に。主イエスよ、天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与えたまえ」。

 

 

One less at Home    Sarah geraldine Stock  (1838–1898)

 

One less at Home

One voice of welcome hushed, and evermore.

One farewell word unspoken; on the shore.

Where parting comes not, one soul landed more—

One more in heaven

 

One less at home

Chill as the earth-born mist the thought would rise,

And wrap our footsteps round and dim our eyes;

But the bright sunbeam darteth from the skies—

One more in heaven

 

One more at home

This is not home, where cramped in earthly mould,

Our sight of Christ is dim, our love is cold;

But there, where face to face we shall behold,

Is home and heaven

 

One less on earth

Its pain, its sorrow and its toil to share;

One less the pilgrims daily cross to bear;

One more the crown os ransomed souls to wear.

At home in heaven

 

One more in heaven

Another thought to brighten cloudy days,

Another theme for thankfulness and praise,

Another link on high our souls to raise

To home and heaven

 

One more at home

That home where separatoin cannot be,

That home where none are missed eternally.

Lord Jesus, grant us all a place with Thee.

At home in heaven