説    教         詩篇3015節   ルカ福音書24112

               「彼は此処に在さず」ルカ福音書講解(63)

               2021・04・04(説教21141902)

 

 今日、私たちは復活日主日(イースター)の礼拝に共に集まっています。この日、私たちにルカ福音書241節以下の御言葉が与えられました。この御言葉はいきなり、主イエスを埋葬した墓の場面から始まっています。どうぞ1節をご覧ください。「(1)週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った」。主イエス・キリストは十字架にかけられて死なれたのです。それはつい3日前の金曜日のことでした。「女たち」すなわち2355節にある「(55)イエスと一緒にガリラヤからきた女たち」は、ユダヤ教の安息日である土曜日が終わる日曜日の夜明けを待ちかねたように、香料と香油を携えて主イエスの墓にやって来たのです。

 

 ところが、なんということでしょうか。この女性たちが主イエスの墓に来てみますと、大きな石で封印をしてあったはずの墓の入り口が開かれていたのです。2節にはこう記されています「(2)ところが、石が墓からころがしてあるので、(3)中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった」。つまり墓が空虚なものになっていて、そこにあるはずの主イエスの遺体が無かったというのです。当然のことながら、彼女たちは驚き、戸惑い、悲しみ、この空虚な墓がなにを意味するのかを知ろうとしました。しかしもちろん答えは見つかりません。だから、彼女たちは主イエスの御身体に塗るはずだった香料と香油を持ったまま、空虚な墓の中に立ちすくんでいたのです。

 

 すると突然、2人の天使が現れて、彼女たちに声をかけました。今朝の御言葉の4節以下です。「(4)そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着た二人の者が、彼女たちに現れた。(5)女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、この二人の者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。甦られたのだ。まだガリラヤにおられたとき、(主が)あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。(7)すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目に甦る、と仰せられたではないか」。

 

 新約聖書の原文はギリシヤ語なのですが、その原文を読みますと、この「二人の」天使の言葉は本当に喜びに満ちたものだということがよくわかる表現になっています。特にここで私たちが心打たれるのは5節と6節の御言葉ではないでしょうか。「(5)あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。甦られたのだ」。つまり、天使たちは女性たちにこのように告げたのです。「主イエスは復活されたので、もうこの墓の中にはおられない」と!。そうです、彼女たちが目撃した「空虚な墓」の現実こそは主イエス・キリストの復活を告げる最初の徴だったのです。「(5)あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。甦られたのだ」。

 

 私事になりますが、私にはこの56節の御言葉について、一つの印象ぶかい思い出があります。それは約30年前、私がイスラエルのエルサレムにある聖墳墓教会を訪れたときのことです。聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)はイタリアのフィレンツェのドームに次ぐ世界第二番目の大きさのドームを持つ非常に大きな教会です。しかもその構造は2000年の間に増築に次ぐ増築,改修に次ぐ改修が繰返された結果、非常に複雑なものになって、中で道に迷うと一日ぐらい出て来れないのではないかと思うほどです。それはさておき、この聖墳墓教会の中心はなんと申しましても主イエスを葬ったとされる墓なのです。言い換えるなら、聖墳墓教会とは、主イエスの墓を覆うように巨大なドームが作られた教会だと言えるわけです。

 

 その墓の前には、世界中から集まってきた観光客や巡礼者たちが長い行列を作っていました。私は少し躊躇ったのですが、せっかくここまで来たのだからと思ってその行列の最後尾に並びました。私のすぐ前にはドイツのミュンヘンから来たという4人の修道女がいました。私は彼女たちといろいろな話をしながら30分ぐらい順番を待っていました。墓の中には3分間隔で5人ずつ交代で入るようになっていました。やがて私の順番が来て、私はその4人のドイツ人修道女たちと一緒に墓の中に入りました。古代イスラエルの墓は洞窟のような構造になっています。入口から5メートルほど先に遺体を納める部屋があり、そこにはかつて主イエスのご遺体をお納めしたと言われる石の台と申しますか、石の窪みがありました。

 

 私が感動したのは、その石の台の上の壁に長さ30センチほどの真鍮のプレートがあって、そこにギリシヤ語で今朝のルカ伝2456節の御言葉が書かれていたことでした。「(5)あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。甦られたのだ」。私が感動しながらその文字を見ておりますと、たちまち4人の修道女たちから質問攻めにあいました。「これはなんて書いてあるの?あなたは読めるんでしょう?私たちのためにドイツ語に翻訳してください」。私はもちろん彼女たちのためにそのギリシヤ語をドイツ語に翻訳しました。そしてそれがルカ伝2456節の御言葉であることを告げました。

 

 聖墳墓教会も神学的な説明をしたものだと思って私は感動したのです。本当にその通りだと思いました。30分行列に並んで、主イエスの墓に入って、そこで出会った文字は「彼は此処に在さず」というものでした。この事実を、すなわち「キリストは甦りたもうた」という事実を知るためにこそ「聖墳墓」は存在するのです。もっと言うなら、それは無くてもかまわないものなのです。私たちにとって大切な事実はただ一つだけだからです。すなわち「そのかた(主イエス・キリスト)は、ここにはおられない。甦られたのだ」という事実だけが大切なのです。

 

 キリストはまことに甦られたのです。何のためにでしょうか?。私たちの罪を贖うための十字架の御業を成就されて、私たちと全世界とを祝福し、これを救い、これに真の生命を与えるためです。だからキリストの復活はただ2000年前にそのような素晴らしい出来事があったという過去の事柄ではありません。そうではなくて、まさにいま、復活の主イエス・キリストは、御言葉と聖霊によってここに現臨しておられる。そして聖なる公同の使徒的なる、御自身の御身体である教会を通して、私たち一人びとりに、そして全世界に救いの御業を行っておられるのです。どうか今日の御言葉を通してはっきりと心に銘記しましょう。キリストの復活は私たち一人びとりの復活の初穂なのです。私たちの救いのためにこそ、主は死人の中から、墓から、甦りたもうたのです。墓を空虚なものとなさったのです。

 

 先日、ある方からこのような質問を戴きました。「イースターの季節というのはいつからいつまでなのでしょうか?」。そのかたはどれだけ意識してその質問をなさったのかわかりませんが、私はこれはとても良い質問だと思いました。皆さんならどのようにお答えになるでしょうか?。私はこのように答えました。「実は一年の全てがイースターの季節なのです。なぜなら、キリストの復活は全ての礼拝の基礎であり、私たちの救いそのものだからです」。「彼は此処に在さず」この驚くべき「空虚な墓」の事実こそ、私たちの救いのたしかな根拠であり保証なのです。それは、主が十字架と復活によって、私たちを墓のような罪の支配から贖い出して下さったことの徴だからです。

 

 それゆえいま、私たちは全世界の主にある兄弟姉妹たちと共に、心からなる喜びと畏れと感謝をもって「イースターおめでとう」と祝福の挨拶を交わします。キリストはまことに十字架において私たちの罪を贖われ、墓を空虚なものとなさって甦り、私たちに永遠の生命を与え、たしかな救いの保証となって下さったのです。祈りましょう。