説    教       ヨブ記161819節   ルカ福音書81618

               「明歴々露堂々」ルカ福音書講解(62)

               2021・03・28(説教21131901)

 

 「(16)誰もあかりを灯して、それを何かの器で覆いかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、入って来る人たちに光が見えるようにするのである。(17)隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。(18)だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。これが、今朝、私たち一人びとりに与えられている福音の御言葉です。主イエス・キリスト御自身のお語りになった御教えであります。

 

 今日の説教題にもいたしましたが、禅語(禅の言葉)に「明歴々露堂々」というものがあります。これは「隠れているものなどなにもない」または「いつまでも隠されているものはありえない」という意味の言葉です。だから「明らかなことは常に歴々としており、露(あらわ)なことは常に堂々としている」のです。いつでしたか鎌倉の建長寺の方丈で、私はこの禅語の掛軸を見たことがありました。私はこの言葉(禅語)は、今朝の主イエスの御言葉にこそ相応しいと思っています。主イエス・キリストこそ「明歴々露堂々」であることの意味を私たち全ての者に教えて下さった唯一の主であられるからです。

 

 まず16節を改めて見てみましょう。「(16)もあかりを灯して、それを何かの器で覆いかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、入って来る人たちに光が見えるようにするのである」。これはとても単純な御言葉です。私たちにもよくわかることです。もし現代流に言うならば、部屋の明かりを点けて、わざわざ何かを覆い被せてそれを隠す人はいないわけです。部屋の中を明るくするのが目的なのですから。主イエスの時代には卓上に置くランプでした。ランプの灯を点けて、それに箱か何かを被せて隠す人はいないわけです。むしろ主イエスが言われたように「燭台の上に置いて、入って来る人たちに光が見えるようにする」のです。

 

 だから、と主イエスは続く17節でこのように言われます。「(17)(だから)隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」。そこで、この主イエスの御言葉は、私たちにとって大きな慰めであると同時に、大きな困惑と畏れの元でもあるのではないでしょうか。まず慰めという点からお話するなら、今日併せてお読みした旧約聖書・ヨブ記1618,19節にこのようにございました。「(18)地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。(19)見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある」。ここでヨブは3人の友人たちから「あなたの隠れた罪を告白せよ」と言い立てられ責められて、悲しみと怒りの中で自分はただ主なる神にのみ拠り頼む者だ、私が正しいことは神が知りたもう。神は必ず私が潔白であることを証明して下さると語っているわけです。「(19)見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある」。この事実こそ、どのような悲しみや困難や悩みの中にありましても、私たちを勇気づけ、慰めと力を与えるものであります。

 

 しかし、今朝の主イエスの御言葉は、それだけの意味ではないと思うのです。もう一つ大切な意味があると思うのです。それは何かと申しますと、私たち人間には誰しも、できれば他人に知られずに隠しておきたいこと、秘密にしておきたいことがあるのではないでしょうか。それがたくさんある人もいれば比較的少ない人もいるでしょう。しかし程度の差こそありましても、やはり私たち人間には「できれば永遠に隠しておきたいこと」があるのは事実なのではないでしょうか。いわゆる「人に言えない心の秘密」というやつですね。それを言い換えるなら、こういうことになると思うのです。私たち人間の心の中には、いわば「隠し部屋」のような場所があるのです。玄関に入られるのはもちろん構わない。次の間に入られてももちろん構わない。座敷にお通しするのは大事なお客さんだけ。居間に迎えるのは親しい人だけ。しかしたとえ相手が誰であろうとも、この部屋だけは絶対に入って欲しくない、否、この部屋には誰も入らせたくない、そのような心の中の「隠し部屋=秘密の部屋」が、私たち人間には存在するのではないでしょうか。

 

 しかし、私たちがどんなにその「秘密の部屋」を隠そうとしても、主なる神は全てを見ておられ、ご存じでおられるのです。そして、私たちはここでこそ大切な問いに直面します。それは私たちにとって困ることでしょうか?。畏れを抱かざるをえない事柄なのでしょうか。たしかに、私たちの心の中のいかなる秘密の部分と言えども神のまなざしから逃れることはできないという事実は、私たちに大きな畏れを抱かせるに違いありません。しかし、それは私たちを打ちのめし、倒れさせる「畏れ」ではなく、むしろ私たちが勇気と希望を持って立ち上がり、神と共に生きる者となるための「真の悔改め」へと私たちを導くのではないでしょうか。

 

 それは、先ほどお読みしたヨブ記1618,19節でも同じだと思うのです。ヨブはただ主なる神に対して「私の潔白を証明して下さるのはあなただけです」と叫んでいるだけではないのです。むしろヨブは主なる神に自分の身も心も、存在の全てを投げかけているのです。ロバート・ゴルディスというユダヤ教の神学者が、このヨブ記1618,19節について「ここではヨブは自分の隠れ部屋から外に出て、主なる神に自分を投げかけているのだ」と語っています。私たちにも、それと同じ幸いが与えられているのではないでしょうか?。私たちはもはや、自分の心の中の薄暗い「隠れ部屋」に固執する必要なんかないのです。主なる神が私たちの唯一永遠の贖い主であられるからです。神の恵みを知るとき、私たちはもはや「隠し部屋」を持ちません。それを捨ててしまいます。そんなものは私たちの人生に何の意味も持ちません。むしろ、私たちはヨブのように主なる神に自分自身を投げかけます。カール・バルトの言葉を借りて言うなら「私たちは神のもとに隠れる」のです。

 

 今日から教会暦における受難週が始まります。皆さんは受難週に飾られる花をご存じでしょうか?。オオイヌノフグリ(Veronica persica)がそれです。よくその辺の野原や道ばたに咲いている瑠璃色の小さな花です。どうしてこのVeronicaが受難週に飾られるようになったのでしょうか?。そこには一つの言い伝えがあるのです。

 

 主イエス・キリストが十字架を背負われてヴィア・ドロローサ、つまり「悲しみの道」をゴルゴタの丘へと登って行かれたとき、途中でヴェロニカという女性が主イエスの額に流れる血をハンカチで拭いて差し上げたのです。そのときキリストの額から滴り落ちた血がVeronica persicaになったという言い伝えがあるのです。私はエルサレムで「ここがまさにヴェロニカが主の額の血を拭いて差し上げた場所だ」という所を見てきました。それは大勢の人たちが行き来する賑やかな道路の途中でした。私はそのとき思いました、ヴェロニカという女性はなんと勇気のある人だったことか。どうか考えてみて下さい、この道には大勢の群衆がひしめき合っていて、拳を振り上げ、声の限りに、十字架を背負ってゴルゴタの丘に登られる主イエスを罵り嘲っていたのです。

 

 その群衆の中にあって、ヴェロニカただ一人が、自分のハンカチで主イエスの額に流れる血を拭いて差し上げた。たぶん群衆はキリストを罵るのと同じように彼女のことも罵ったに違いないのです。しかし彼女は主の御傍にいることをやめようとしなかった。主イエスから離れなかった。主イエスのもとに自分を委ねたのです。主イエスに固着したのです。オオイヌノフグリ(Veronica persica)はその物語にちなんで名づけられた花なのです。

 

 どうか、今日のこの受難週の始まりの日にあたりまして、私たち一人びとりもまた、主イエスに自分を委ねて歩む者として、新しい一週間を歩み始めようではありませんか。「明歴々露堂々」の人生はただキリストと共に歩む者にあるのです。御受難の主イエス・キリストは、今も、いつも、いつまでも、私たちと共にいて下さる贖い主であられるのです。祈りましょう。