説    教       創世記261213節   ルカ福音書8415

               「種蒔きの譬え」ルカ福音書講解(61)

               2021・03・21(説教21121900)

 

 主イエス・キリストはいつもたとえ話をお用いになって、全ての人々にわかりやすく福音をお語りになりました。この日も主は同じように、今朝の4節にありますように「(4)大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた」のでした。それは畑に種をまく人の譬えでした。いわゆる「種蒔きの譬え」であります。

 

 すなわち、主イエスは集まった大勢の人々に、このようにお語りになりました。今朝の御言葉の5節以下です。「(5)種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。(6)ほかの種は岩の上に落ち、生えはしたが水気がないので枯れてしまった。(7)ほかの種は、茨の間に落ちたので、茨も一緒に茂ってきて、それを塞いでしまった。(8)ところが、他の種は良い地に落ちたので、生え育って百倍もの実を結んだ」。

 

 これは、聖書の中でも最もよく知られている有名な譬え話のひとつでありまして、その意味では敢えて説明をする必要さえないように考えられているものです。一人の農夫が麦の種を畑に蒔いたのです。私事ですが、私も農学校で学んでいた17歳の頃に畑に麦の種を蒔く経験をしました。私が行っていた農学校には広大な農場がありました。その畑に麦の種を蒔くのですが、その方法はフランスの画家ミレーが描いた「種蒔く人」の姿とほとんど同じなのです。まず麦の種がたくさん入っている袋を肩から下げて、右手で麦の種を掬って、思いっきり放り投げるようにして蒔くのです。要するに麦の種を畑に散布するわけです。しかしこれは意外に難しい作業でした。なぜなら、畑に均一になるように撒かなければならないからです。後で芽が出ると上手に蒔いたかどうかがひと目でわかります。

 

 さて、この農夫が蒔いた麦の種は、実はいろいろな場所に落ちたということが主イエスのお話によってわかります。まず「道ばたに落ちた種」がありました。その種はたちまちのうちに「踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった」のでした。次に「岩の上に落ちた種」がありました。これはすぐに芽を出したのですが「水気がないので枯れてしまった」のでした。その次に「茨の間に落ちた種」がありました。これは芽を出して、もうすぐ穂が出るかというところまで成長したのですが「茨も一緒に茂ってきて、それを塞いでしまった」ので、ついに穂を実らせることができませんでした。最後に、主イエスがお示しになったのは「良い地に落ちた種」です。この「良い地」とはもちろん耕作された良い畑のことです。柔らかく耕された良い畑の上に落ちた麦の種は、他の種とは違って「生え育って百倍もの実を結んだ」のでした。

 

 そこで、いま私たちは改めて問わねばなりません。私たちは本当にこの主イエスがなさった「種蒔きの譬え」意味をよく理解していると言えるのでしょうか?。私たちがときどき、否、いつもしてしまう大きな間違った読みかたは、この「種蒔きの譬え」は4種類の人間の姿を現しているのだと解釈してしまうことです。どういうことかと申しますと、私たちはこの御言葉を読んで「人間には4つの種類があるのだ」という間違った理解をしてしまうのです。それはこういう理解です。「道ばたのような人間」がいる。そのような人は最初から御言葉を聞く姿勢を持たず、すぐに教会から離れて行ってしまう。次に「石地」のような人がいる。そのような人は最初は熱心に御言葉を聞くけれども、数週間で教会に来なくなってしまう。次に「茨の中」のような人がいる。そのような人は熱心に御言葉を聞き、もうすぐ洗礼を受けるかと思われるところまで成長するのだけれど、茨が穂を塞いでしまうので、結局は教会から離れて行ってしまう。

 

 本当に、そのような読みかたで良いのでしょうか?。いや、そういう読みかたしかできないではないかと反論する人があるかもしれません。事実、今朝の御言葉の11節以下には主イエス御自身の御教えとしてこのように告げられています。「(11)この譬はこういう意味である。種は神の言である。(12)道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。(13)岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。(14)いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。(15)良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」。

 

 どうか私たちは、これらの御言葉を正しく理解するために、いま新たに一つのことを心に留めましょう。この11節以下の主イエスの御言葉において最も大切なことは、「良い地」に蒔かれた種は必ず「耐え忍んで実を結ぶに至る人たち」であると告げられていることです。つまり「良い地」であることこそが重要なのです。つまり、この「種蒔きの譬え」が意味していることは、この世界には4種類の人間が存在するということではなく、あなたは、あなたこそは「良い地なのだ」そして「あなたは良い地とされている」という、主イエスによる一方的な恵みの宣言なのです。さらに申しますなら、私たち一人びとりの中に、私たち自身の中に、同時に3つの地が存在するのです。私たち自身の中にこそ「道ばた」「石地」「茨の中」が存在するのです。しかし、もしあなたが主イエス・キリストの十字架の恵みに身も心も委ねて歩むならば、あなたは「良い地」に変えられるのだ。あなたこそは「良い地」なのだという恵みの宣言が、ここではっきりとなされているのです。

 

 それは、なぜでしょうか?。どうか考えてみて下さい。最初の3つの地である「道ばた」「石地」「茨の中」それらはどれも、麦の種が蒔かれるべき本来の地ではありません。もちろんそれらの地は手入れもされていないし、耕されてもいないのです。それは、私たち自身の内側にある自然性を意味しているのです。そしてその自然性とは何かと言いますなら、それは私たち人間の罪の姿を現しているのです。ルターが語っているように、私たち人間は神に背いている存在ですから、自由意志だと自分で頑なに思っている「意志の自由」も、結局は「奴隷的意思」にすぎないのです。だからこそ3つの地は私たち全ての者の中に必ず存在するのです。

 

 しかし、主なる神は御子イエス・キリストを、私たちの罪の現実のただ中に遣わして下さいました。神は最も大切な独子なるキリストを、私たちの罪の現実のただ中にお与え下さったかたなのです。それは何のためにでしょうか?。それこそまさしく、私たち全ての者が主イエス・キリストを信じて、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いに呼応して、信仰の生涯を歩む者になるためです。私たちが主イエス・キリストを着た者として歩み始めることです。キリストによって自然性を覆われた者として生き始めることです。罪の衣をかなぐり捨ててキリストの恵みを着る者になることです。そのとき、私たちはもはや「道ばた」でも「石地」でも「茨の中」でもなく、主なる神が蒔いて下さった福音の種が「百倍もの実を結ぶようなる良い地」に変えられるのです。

 

 それが、今朝の御言葉を通して私たち全ての者たちにいま与えられている救いの喜びです。主は私たちにはっきりと語りかけていて下さるのです。あなたはもはや罪の奴隷などではない。「道ばた」「石地」「茨の中」などではない。私があなたと共にいて、あなたの全存在を担って十字架にかかったのだ。あなたは私のものだ。あなたは私の恵みによって、いま「百倍の実を結ぶ良い地」に変えられたのだ。だから、勇気を出しなさい。だから、喜んで歩み続けなさい。私はあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを祝福し、あなたに永遠の生命を与え、あなたのために天国の席を設ける。そのように主は明確に私たち一人びとりに告げていて下さるのです。祈りましょう。