説    教       箴言3130節   ルカ福音書813

               「我ら仕え人たらん」ルカ福音書講解(60)

               2021・03・14(説教21111899)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝81節から3節の御言葉を、もういちど口語訳でお読みしたいと思います。「(1)そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。(2)また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、(3)ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した」。

 

 今日から私たちはルカ伝の第8章に入るわけでありますが、この8章の最初に記されている事柄は、いわば今までのルカ伝の既述の中でルカが書き洩らしてしまった事柄です。ここには大勢の女性たちが出てくるわけですが、特に1節にある「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ」というのは736節以下に出てくるナルドの香油を主イエスに献げた女性のことだと思われます。つまりここでルカは、主イエスと十二弟子の伝道のわざを陰になって支えた名もなき女性たちの奉仕のわざを感謝をもって回想しつつ、彼女たちの名前をできる限り丁寧に書き記しているわけです。

 

 そこで、改めて今朝の1節以下を見て参りますと、特に2節以下ですけれども、(1)悪霊を追い出され病気を癒された数名の婦人たち、(2)マグダラのマリア、(3) ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、(4)スザンナ、(5)そのほか多くの婦人たち、つまり、ざっと数えてみましても20人ぐらいの女性たちのことがここに書き記されていることがわかります。そしてルカ伝だけではなく、マタイ伝、マルコ伝、ヨハネ伝にも、このような多くの女性たちが主イエスと弟子たちの伝道のわざを陰になって支えていたことがわかるのです。また使徒行伝やローマ書やピリピ書などを見ますと、使徒パウロの伝道のわざを、やはり陰になって支えていた大勢の女性たちの働きがあったことがわかるのです。

 

 そこで、このような多くの女性たちの奉仕があったという事実は、どのような福音の音信を今日の私たちに示しているのでしょうか?。実は私はここで、去る128日に天に召された石塚康子姉妹のことを思い起しています。ここにいる多くの人たちの心の中にも同じ思いがあるのではないでしょうか?。私は石塚康子さんの葬儀の説教の中で、こういうことを申しました。石塚康子さんは本当に素晴らしい長老だった。忠実な主の仕え人だった。あのような長老はもういないだろう。あのような人はもう現れないだろう。あのような素晴らしい主の仕え人は不世出だろう。私たちはそのように言うことは簡単なのです。むしろ私たちは石塚康子さんの真似をしようではないか。みんなが彼女のようになることはできないかもしれない。しかし彼女の真似をすることは私たちにもできるのです。私はそういうことを葬儀の説教の中で語りました。

 

 そのように考えますならば、おのずから今朝の御言葉の読みかたが決まってくると思うのです。ああ2000年前にこんなに大勢の女性たちが尊い奉仕のわざをもって主イエスにお仕えしていた、それは素晴らしいことだ。そのように言うことは簡単なことです。しかし、それだけで良いのでしょうか?。いまここに集うている私たち一人びとりが、彼女たちのような忠実な主の仕え人になること、私たちが彼女たちの真似をすること、それが求められているのではないでしょうか。今朝の説教題を「我ら仕え人たらん」としましたけれども、まさしくそのような祈りと決意をもって信仰の道を歩んでゆくこと、それがいま私たち一人びとりに与えられている福音の音信なのではないでしょうか。

 

 今朝あわせてお読みした旧約聖書・箴言3130節に、このように書かれていました「(31)艶やかさは偽りであり、美しさは束の間である、しかし主を恐れる女はほめたたえられる」。皆さんはこの御言葉を読んで驚かれないでしょうか?。ここで言う「艶やかさ」とは女性的な魅力、特に美しさのことです。現代流に言うなら「女子力」というやつですね。私はいろいろな文学作品、特に太宰治の小説などを読んむとき、そこでは「艶やかさ」について「それは一時的なものだ」とか「それは過ぎゆくものだ」という表現がなされていることは知っています。しかし聖書は違うのですね。むしろ徹底しています。「艶やかさは偽りである」と断言するのが聖書なのです。だからこそ「美しさは束の間」なのです。

 

 つまり、聖書は私たちにこのように語っているのです。人間の本当の美しさがあるとすれば、それは外見や容貌の美や「艶やかさ」ではないはずだ。そうではなく「しかし主を恐れる女はほめたたえられる」のです。この「ほめたたえられる」とは「神に喜ばれる」という意味のヘブライ語です。表面的な美や艶やかさは神に喜ばれるものではない。「主を恐れること」こそ神に喜ばれることだと聖書ははっきりと私たちに告げているのです。そして大切なことは、ここで言う「主を恐れること」こそ「主の忠実な仕え人となること」です。キリストの御身体なる教会に奉仕することです。そこで私たちはいま改めて、この「奉仕」という言葉を厳密に考えてみる必要があります。

 

 教会は具体的に歴史の中に存在するキリスト者の共同体でありますから、そこで教会の唯一の主であられるイエス・キリストが私たちに求めておられ、また、私たちを召しておられる奉仕のわざもまた具体的なものです。たとえば、私たちの葉山教会で申しますならば、礼拝後の清掃もとても大切な奉仕のわざですし、坂道の清掃や整備もとても大切なことです。植木の手入れ、近隣3家庭への水道メーターの検針と料金計算も葉山教会が50年間してきました。昨日もかなりの雨が降りましたが、屋上の排水溝の定期的な清掃も大切です。新来会者のための配慮、週報ボックスの中の週報や月報、印刷物を長期欠席者に郵送することもとても大切なことです。献金のわざもとても大切な奉仕です。昔から私たちの教会では「時と力と宝を献げて」という言葉で奉仕のわざを現わしてきました。時間と、各自のタラント(能力)と、献金を献げることによって、私たちは主の教会にお仕えする「仕え人」とならせて戴くのです。

 

 そして、最も大切な最大の奉仕のわざ、それはなんと言っても礼拝なのです。その一つの大きな現われはドイツ語です。礼拝のことをドイツ語では“Gottesdienst”と言います。それは2つの意味を持っている言葉です。(1)「神に対する私たちの奉仕」。私たちは主日礼拝をできる限りにおいて厳守します。毎週日曜日の礼拝を忠実にささげること、それは特に私たち改革長老教会の伝統的な、最も美しい奉仕のわざなのです。(2)「私たちに対する神の御業」。それは十字架の主イエス・キリストによって成就した私たちの罪の贖いと救いの出来事です。私たちの教会はこの「神の奉仕」のみを唯一永遠の土台としている礼拝共同体なのです。

 

 この2つの事実は最終的に、なにを私たちに物語っているのでしょうか?。それは、私たち一人びとりが真の礼拝者となること、キリストの贖いの恵みに根差して成長してゆくこと、そこに私たちの全ての奉仕のわざの根拠と目的があるということです。改めて申します、今朝の説教の題を「我ら仕え人たらん」といたしました。それは同時に「私たちは真の礼拝者へと成長しよう」という祈りの課題を共有することであり、私たちが共に祈りをひとつにしてキリストの贖いの恵みにしっかりと根差した、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会へと成長してゆくことです。その主にある信仰の志をいま再確認し、共有し、祈りを深めて行く群れとして、最後にもう一度、今朝の御言葉を読んで終わりましょう。

 

 「(1)そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。(2)また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、(3)ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した」。祈りましょう。