説    教     出エジプト記418節   ルカ福音書74440

              「安らかに往け」ルカ福音書講解(59)

               2021・03・07(説教21101898)

 

 私たちは先週に引き続いて、主イエスにナルドの香油を献げた女性の物語を通して福音を聴いて参りたいと思います。まず御一緒に今朝のルカ伝744節以下を口語訳でお読みしましょう。「(44)それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。(45)あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。(46)あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。(47)それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。(48)そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。(49)すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。(50)しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

 まず私たちは今朝のこの44節の主イエスの御言葉に驚かざるをえません。それは主イエスがパリサイ人シモンに向かって「(あなたは)この女を見ないか」とおっしゃったことです。シモンはずっとこの女性を見ていたはずです。しかし主イエスはシモンに向かって「あなたはこの女を少しも見ていないではないか」と言われるのです。あなたが見ているのは「この女性はこの町で罪の女と言われている女だ」というレッテルだけではないか。あなたはこの女性の悲しみも辛さも救われた喜びも感謝も、何ひとつ見ようとしてはいないではないか。そのように主イエスは言われるのです。だから、これはとても厳しい御言葉です。主はパリサイ人シモンに対して悔改めを求めておられるのです。

 

 そして主は続けてシモンに言われます。「(44) わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。(45)あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。(46)あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた」。そうです、パリサイ人シモンが主イエスを自宅に招いた理由は、主イエスの言葉尻を捕らえて主イエスを陥れるためでした。最初から悪い目的で主イエスを自宅に招いたのです。だからもちろん、足を洗うための水も出されませんでした。来客の足を水で洗って手拭いで拭くことはその家の主人の務めでした。それは最高の歓迎の徴です。しかしもちろんシモンはそれを主イエスに対してしなかった。主イエスを失脚させることが目的だったからです。

 

 しかし「その町で罪の女と言われていたこの女性」は違いました。彼女は涙で主イエスの御足を濡らし、自分の髪の毛でそれを拭ったのでした。それだけではありません。彼女はさらに驚くべき行動に出たのです。それは今朝の46節に「あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた」と主イエスが語っておられることです。その香油はおそらくナルドの香油であり、それはたぶん彼女にとって全財産にも等しい高価なものでした。おそらくそれは、彼女が自分自身の葬儀の費用のためにとっておいたものだったと思われるのです。実際にそれは300デナリ以上の価値があったからです。

 

 まさにその、彼女にとって全財産にも等しいナルドの香油を、この女性は全部主イエスの御足に注いだのでした。それは主イエスの葬りの備えをするためでした。そうです、彼女は知っていたのです。このナザレのイエスこそ、全人類の罪をお一人で担ってゴルゴタの十字架への道を歩んで下さる救い主だということを。つまり、彼女はこのナルドの香油を全部主イエスにささげる行為を通して、主イエスが十字架の主であられること、罪の贖い主であられること、永遠に変わらぬ唯一の救い主であられること、そして神の御子なるキリストであられることを告白しているわけです。このナルドの香油はこの女性の信仰告白そのものなのです。

 

 この信仰告白をお受けになって、主イエスは、今度はパリサイ人シモンのほうに御顔を向けて言われました。今朝の御言葉の47節です。「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。これはよくわかる御言葉ではないでしょうか。大きな罪を許された人は、献げる感謝も大きいのです。逆に言うなら、自分は罪人ではなくて正しい人間だと思っている人は、たとえ許されたとしても感謝などしないし、したとしてもそれはほんの少しなのです。それこそパリサイ人シモンのことです。シモンは自分を罪人ではなく正しい人間だと思っていましたから、主イエスを愛するどころか、逆に憎んで、陥れようとしたのでした。

 

 しかしこの女性は違います。彼女は主イエスによって自分の大きな測り知れない罪を赦して戴いたことを感謝し、その大きな感謝をあらわすために、生命がけでパリサイ人シモンの家に入り、全財産にも等しい大切なナルドの香油を全部主イエスの御足に注いだのでした。だから47節の御言葉は元々のギリシヤ語を直訳するとこのようになります。「この女がどんなに大きな罪を赦されたか、それは彼女が私に示した感謝の大きさによってわかる」。私たちはどうでしょうか?。私たちもまた「あなたがどんなに大きな罪を赦されたか、それはあなたが私に示した感謝の大きさによってわかる」と主イエスに言って戴ける信仰生活をしているでしょうか?。私たちは逆に、パリサイ人シモンのように、自分は正しい人間であるから神によって罪を赦して戴く必要などないと思っていることはないでしょうか。

 

 最後に、主イエスは再びこの女性のほうの御顔を向けて言われました。今朝の御言葉の48節以下です。「(48)そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。(49)すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。(50)しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。私たちは実は自分自身が何者であるか全く分かっていない存在なのです。この48節で主イエスが言われた「あなたの罪はゆるされた」という御言葉こそ、私たちにとって最も大切な、最も必要な、なくてはならぬ生命の御言葉なのです。それが私たちによくわかっているでしょうか?。

 

 この女性は身に浸みてそれをよくわかっていました。自分は主イエスによる罪の赦し、罪の贖いがなければ生きえない存在であることがよくわかっていました。だから限りない感謝をささげたのです。この彼女に対して主イエスは最後にこう言われます。「(50)あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。この「安心して行きなさい」とは文語訳では「安らかに往け」です。元々のギリシヤ語を直訳するなら「私の平安のうちを勇気をもって歩み続けなさい」です。これこそ、主が今朝の御言葉を通して私たち一人びとりに語り告げておられる生命の御言葉なのです。「私の平安のうちを勇気をもって歩み続けなさい」。

 

最後に、同じ新約聖書のヨハネ伝1427節を読んで終わりましょう。「(27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。これこそ主イエス・キリストが、私たち全ての者にいま語っておられる救いの御言葉なのです。祈りましょう。