説    教        雅歌410節   ルカ福音書73643

              「主に献げたる香油」ルカ福音書講解(58)

              2021・02・28(説教21091897)

 

 主イエスに香油を献げた一人の女性の物語を、今日と来週の2度に分けてご一緒に読んで参りたいと思います。今日はその第一回目です。私たちは今朝の福音の御言葉としてルカ伝736節から43節の御言葉を与えられました。まず最初の36節を見ますとこのようにございました。「(36)あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」。主イエスは招かれた家の客となられることに何の屈託もないおかたです。その家が取税人の家であろうと、逆にパリサイ人の家であろうと、主イエスの中には何らの差別もないのです。しかしこのとき主イエスを招いたパリサイ人シモンには、ある心積もりがありました。

 

 それは何かと申しますと、主イエスの話とやらをひとつじっくりと聞いてやろう。そして言葉尻を捕らえて反論しよう。そのためにはまず御馳走やお酒を出して油断させることだ。打解けた席になれば主イエスといえども必ずぼろを出すに違いない。うっかり口を滑らすことがあるに違いない。その言葉尻を捕らえて、できるなら主イエスを失脚させてやろう。主イエスに対する民衆の信頼を失墜させてやろう。主イエスを精神的に葬り去ってやろう。そういういわば良からぬ算段をもって、パリサイ人シモンは主イエスを自宅に招いたわけであります。

 

 するとそこに、まさにお誂え向きの事件が起こるのです。今朝の御言葉の37節です。「(37)するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、(38)泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。いま日本では総理大臣の息子が関連企業の社員から食事を奢ってもらっただけで野党が「それはけしからん、贈収賄にあたる!」とあたかも蜂の巣を突いたように大騒ぎしておりますが、これはそれどころの話ではない。

 

「その町で罪の女」というレッテルを貼られていた一人の女性が、つまりパリサイ人の目から見るならいかがわしい穢れた女性が、主イエスの背後から足元に近づいて「(38)泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」わけです。おお、これは大スキャンダルだ!。由々しき事態だ!。許しがたいことだ!。けしからんことだ!。そもそもこの「罪の女」はいったいどこから、誰に断って私の家に入ってきたんだ?。パリサイ人シモンは今にも叫びたくなるのをじっと堪えて、事の成り行きを冷静に見守っていたわけです。もちろん彼は内心凱歌を挙げていたことでした。これで主イエスを葬り去ることができると確信したからです。彼は勝利者の余裕を感じていたのです。

 

 事実シモンは心の中でこう言ったことでした。今朝の39節です。「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「(39)もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。つまりシモンはこう思ったのです「なんだ、ナザレのイエスというのはたいした男ではないな。自分に触っている女がどんなに穢れた女であるか気がつかないのだから。少なくとも彼は預言者ではないことがこれではっきりした」と。

 

 主イエスはといえば、主イエスは優しいまなざしでこの女性のすることをじっと見ておられました。彼女は自分の涙で主イエスの御足を濡らし、そして自分の髪の毛で主イエスの御足を拭い、携えてきたナルドの香油が入った石膏の壺の蓋を割って、その中身を全て主イエスの御足に注いで、救われた感謝と喜びをあらわしたのでした。ここで気を付けて頂きたいのは、この香油には2つの意味があるということです。まず第一に、彼女はこの香油を全て献げることによって、主イエスがキリストであられることを明確に告白しているのです。なぜなら旧約聖書においてキリストとはメシヤすなわち「油注がれた者」を意味しているからです。

 

 第二に、彼女はこの香油を主イエスに献げた行為によって、主イエスが私たち全ての者の罪の贖いのために十字架への道を歩んで下さる救い主てあることを言い表しているのです。なぜなら、ナルドの香油は葬りの時に用いられたものだからです。言い換えるなら、この女性はこの行為を通して主イエスの「葬りの備え」をしているわけです。これはとても大きな出来事ではないでしょうか。主イエスのもとに集まった何千何万の群衆の中で、誰か一人でも主イエスを「十字架の主・救い主」として告白した人がいたでしょうか?。答えは「否」です。それならば、その、誰もなしえなかったキリスト告白を、この名もなき一人の貧しい女性が、しかも「その町で罪の女」というレッテルを貼られた女性がしているのです。つまり彼女はこの行為を通して「ナザレのイエスこそ、全人類の罪の贖いのために十字架におかかり下さる救い主である」と告白しているわけです。

 

 この2つの意味を合わせて表すならこういうことになります。「ナザレのイエスは永遠の神の独子であられ、御父なる神と本質を同じくしたもうおかたである。そしてこのかたこそ、私たち全ての者の罪の贖いのために十字架に御自身をささげて下さる救い主である」。つまりこの女性はこの信仰告白をナルドの香油を通して現わしているわけです。

 

さて、今朝の御言葉の終わりの40節以下で、主イエスはパリサイ人シモンに一つのたとえ話を通して大切な問いかけをしておられます。「そこでイエスは彼にむかって言われた、「(40)シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。(41)イエスが言われた、「ある金貸しに金を借りた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。(42)ところが、返すことができなかったので、彼はふたりとも許してやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。(43)シモンが答えて言った、「多く許してもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。

 

 これは読んだそのままの譬え話です。二人の人がある金貸しからお金を借りていた。一人は500デナリ、もう一人は50デナリ。ところが二人とも返済能力がなかったので、可哀想に思ったこの金貸しは「ふたりとも許してやった」のです。そこで主イエスはパリサイ人シモンに、否、私たち一人びとりに問いかけておられます。「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と。シモンは答えました。「多く許してもらったほうだと思います」と。最後に主イエスはシモンに言われました。「あなたの判断は正しい」。

 

 この譬え話が意味する事柄は何でしょうか?。それは「あなたはどちらに立っているのか?。あなたはいま、多く許してもらった人たちの側に立っているか?」という問いかけなのです。主イエスはいま、私たち一人びとりの名を呼んで問いかけておられます。あなたはいつも、どこにいても、私の十字架による贖いの恵みの中を歩く人であり続けなさい。あなたはいつも、どこにいても、多く許された人々の側に生きる人であり続けなさい。そしてこの女性が自分にとって全財産にも等しいナルドの香油を惜しみなくささげたように、あなたも自分の全生涯を通して、神の栄光を現す人生を歩み続けなさい。そのようにいま主イエス・キリストは、私たち全ての者に語り掛けていて下さるのです。祈りましょう。