説    教       伝道の書74節  ルカ福音書73135

            「彼らは何に似たるか」ルカ福音書講解(57)

             2021・02・21(説教21081896)

 

 今朝私たちに与えられたルカ福音書731節以下の御言葉を、もういちど口語訳でお読みしましょう。「(31)だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。(32)それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。(33)なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊に憑かれているのだ、と言い、(34)また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。(35)しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。

 

 ここには当時のユダヤ、特にガリラヤ地方の人々の間で歌われていた、ある流行歌の歌詞が記されています。今朝の32節です。『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』。これが当時どんなメロディーで歌われていたのかわかりませんが、どうもこれは子供たちの間で盛んに歌われたものだったようです。子供たちの群れが2手に分かれて、互いに歌を歌い合うのです。歌を言葉代わりにしたわけです。わが国の万葉集にも「相聞歌」と言いまして似たような習慣があったことがわかります。

 

ただし、万葉集の相聞歌はそのほとんどが恋愛歌であったのに対しまして、今朝の32節の歌は当時のガリラヤの民衆の不平不満を表したものです。「笛吹けども踊らず」という格言はまさに聖書のここに由来しているのですが、当時のガリラヤの民衆の願いは、ガリラヤからユダヤ全土を支配する新しい王が現れることでした。当時のユダヤは(もちろんガリラヤも含めて)ローマ帝国の支配下に置かれていました。特にガリラヤには熱心党(ゼーロータイ)などの過激な愛国主義者たちの地下組織が数多くありましたから、鬱屈する思いが洗礼者ヨハネに、ひいては主イエスに対して向けられるようになったのです。

 

どういうことかと申しますと、ガリラヤの民衆の願いはただ一つ、洗礼者ヨハネに新しいユダヤの王になって欲しいということでした。しかしどうも洗礼者ヨハネはラクダの皮衣を着てヨルダン川で悔改めの洗礼を人々に授けるだけで、いっこうに自分たちの願いを叶えてくれそうにもない。そこで次に民衆が期待を寄せたのが主イエスでした。主イエスは洗礼者ヨハネとは比較にならぬほど数多くの奇跡や癒しを行い、言葉にも話にも力があり、非常に多くの人々を集めているではないか。ところが、なんとこの主イエスも自分たちが願っているようには動いて下さらない。ユダヤの王として旗揚げして欲しいのだけれど、主イエスはエルサレムに行こうとはなさらず、毎日人々に神の国の福音だけを語っておられる。そこでついにガリラヤの民衆は業を煮やしまして、そこで歌われたのが今朝の32節の流行歌だったわけです。

 

 そういたしますと、この32節の歌というものは、ようするにガリラヤの人々のわがままの現われなのです。洗礼者ヨハネも、ナザレのイエスも、自分たちが願っているようには動いてくれないじゃないか。民衆の願いを実現してはくれないじゃないか。いくら笛を吹いたって踊ってくれないじゃないか。そのような民衆の自己中心的な思いがこの歌にはよく現れているわけです。洗礼者ヨハネが謹厳実直に断食して禁酒していますと、民衆は「あれは悪霊に憑かれているのだ」と言って批判し、逆に主イエスが食べたり飲んだりしていますと「あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と言って批判したのです。いずれにしても民衆は自分たちにこそ真理の基準があるのだと思いこんでいた。だから自分たちの願うように洗礼者ヨハネや主イエスが動いてくれないと、掌を反すように批判をはじめ、不平不満を投げつけたのです。

 

 そこで、実はこの2000年前のガリラヤの民衆の自己中心的な思いは、ただ単に昔のユダヤの事柄ではなく、現代の私たち自身の中にもあるのではないでしょうか?。キリスト中心ではなく自己中心的な信仰生活、神中心ではなく人間中心の生き方は、まさに現代の私たち自身の問題なのではないでしょうか。そして、私たちのその自己中心的な歩みの行き着く先に、あのゴルゴタの十字架が立っているのではないでしょうか。事実、今朝の御言葉の場面からわずか1年後に、主イエスの周りに喜んで集まっていたのと同じ群衆が、十字架を背負って「悲しみの道」をゴルゴタの丘まで歩みたもう主イエスに向かって唾を吐きかけ、悪口を言い、拳を振り上げて「十字架につけろ」と罵ったのです。

 

 まさに、そのような罪人のかしらなる存在である私たち一人びとりに、主イエス・キリストは言われます。今朝の御言葉の31節です。(31)だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか」。この最後の「彼らは何に似ているか」とは、原文のギリシヤ語を直訳するなら「この人々は何に自分を委ねているのか」です。そうです、ここにこそ私たち全ての者に対する主イエスからの問いかけがあります。「この人々は(あなたは)何に自分を委ねているのか」と主イエスは私たち一人びとりに問うておられるのです。あなたが自分を委ねて「ああこれで安心だ」と言っているものは、果たしてあなたを救い、永遠の御国に導くものなのか?。むしろそれは、あなたの罪を助長し、あなたを誘惑し、あなたを死と滅びへと引き込むものではないのか?。もしもそうならば、主イエスは私たちを絶対にそこでお見捨てになりません。「ああこの人はもう駄目だ」と言いたまわないのです。

 

 むしろ主イエスは、そのような私たちの罪に基づく自己中心性のただ中でこそ、あの重い十字架を背負って、ゴルゴタへの道を歩んで下さるかたのてす。もう10年ほど前に天に召されましたが、私が洗礼を授けた一人の男性がおられました。東京の下町のある金属会社の社長をしていらして、とても真面目で素晴らしい人格のかたでした。この人があるとき(まだ洗礼を受けなかった時のことです)私に質問をなさいました。「先生、主イエスは私たちの罪のために十字架にかかられたと言われますが、私は生まれてから今までただの一度も、人様から後ろ指をさされるようなことをしたことがありません」。そしてこうも言われました「主イエスは勝手に十字架にかかったのですよね?。私は彼に頼んだ覚えはありません」。

 

 私は咄嗟にこう答えました。まず最初の質問に対しては「その人様から、というところを、神様から、に置き換えて、同じことが言えますか?」そして次の質問に対してはこう申しました。「頼まれもしないのに勝手に十字架にかかって下さったから有難いんじゃありませんか?」。このかたはしばらく黙って考えていましたが、突然「わかりました!私は洗礼を受けます」と言いました。

 

 どうか改めて心に留めましょう。私たちはたとえ「人様に後ろ指をさされるようなことを一度たりともしたことがない」立派な人であっても、神の御前では「測り知れない罪人のかしら」なのです。まさにそのような私たちのために、主イエス・キリストは「勝手に」十字架にかかて下さったかたなのです。それほどまでして、私たちの滅びを身に引き受けて下さり、私たちを救い、永遠の生命を与え、御国の席を備えて下さり、私たちを御国の民となして下さったのです。祈りましょう。