説    教      士師記823節  ルカ福音書72730

           「神の国にて最も小さき者も」ルカ福音書講解(56)

             2021・02・14(説教21071895)

 

 今朝わたしたちに与えられたルカ伝727節以下の御言葉を、もう一度口語訳でお読みしましょう。「(27)『見よ、わたしは使者をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。(28)あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(29)(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。(30)しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした)」。

 

 主イエスはここで、とても不思議なことをおっしゃいます。今朝の28節です。「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。まずここで主イエスは、洗礼者ヨハネは「女の産んだ者」つまり人間の中で最も偉大な人物であったと言われます。それは洗礼者ヨハネがキリストを証する者として「預言者以上の者」であったことを示しています。しかしそれと同時に主イエスは「しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われるのです。これはとても不思議な言葉です。私たちはこれをどのように理解したら良いのでしょうか?。

 

 そのために、まず私たちは「神の国」という言葉を正しく理解しなければなりません。新約聖書の元々の言葉であるギリシヤ語で「神の国」とは「神の恵みの永遠の御支配」という意味です。つまり「神の国」とは主なる神が常に私たちと共におられ、恵みによって永遠の御支配を行っておられる状態を意味します。ですからそれは私たちが思い描く「国」よりもはるかに大きな、そして実体のあるもので、むしろ「神の御支配」と訳されるべき言葉なのです。そこで大切なことは、それはなによりも「神の恵みの永遠の御支配」を意味するということです。

 

 そこで、実はこのことは、私たちが自分の「救い」をどこでどのように理解しているか、という大切な信仰生活上の問いに直結しています。私たちがよく陥る間違いは、自分の体験の中に自分の「救い」を限定してしまうことです。言い換えるなら「キリストによる救い」という無条件の恵みでしかない出来事を、私たちは自分の努力の結果として理解してしまうことが多いのではないでしょうか。つまり、いつのまにか救いの主体がキリストではなく自分になってしまうのです。救いの人間化、ヒューマニズム化が起こるのです。特に日本のキリスト者にはこの傾向が強いように思えます。これは単純なように見えますが、実はとても複雑で難しい問題です。私たちの心の持ちかた次第で変えられる問題ではないのです。

 

 今から504年前の15171031日の朝9時のことでした。ドイツのヴィッテンベルク城教会の入口の木の扉に、マルティン・ルターによって起草されたラテン語の「95箇条の提題」が掲げられました。それはローマ教皇庁に対する公開質問状です。その第一はこのような言葉で始まります。「私たちの主であり、また教師である主イエス・キリストが『汝ら悔改めよ』と宣したもうたとき、それは信じる者たちの全生涯が絶えざる悔改めの連続であることを求めたもうたのである」。これは、とても大切なことを言っています。この「絶えざる悔改めの連続を求めたもうた」とは「日々新しくあなた自身を主なる神の御手に明け渡しなさい」という勧めです。なぜでしょうか?。救いはいかなる意味においても私たち自身の中には無いからです。救いはただ私たちの主イエス・キリストの御手の中にあるのです。

 

 ところが、この同じルターの提題の言葉をヒューマニズム的に読んでしまうと、全然意味が違ってくるのです。「あなたが救われるためにはもっと努力精進しなければならない。それが『絶えざる悔改めの連続』ということだ」。そういう意味に捉えますと、それは私たちに自助努力を促す道徳の言葉に変化してしまいます。それはもはや福音ではなく道徳律であり、救いではなく自己変革であり、神に身を委ねることではなく自分が努力して強くなることです。そのようにしてごく僅かな一部の人々だけが天国に迎えられるのだとする教えになってしまいます。それはもはやキリスト教ではありません。「人間努力教」であります。

 

 私たちはどうでしょうか?。人間努力教の信者になっていることはないでしょうか?。いつもルターが明らかにした『絶えざる悔改めの連続』としての歩みをしているでしょうか?。日々新しく主なる神の御手に自分を明け渡す僕になっているでしょうか?。

 

 主イエスは言われました。今朝の28節です。「(28)あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。洗礼者ヨハネは最後の預言者でした。つまり、旧約の時代は洗礼者ヨハネで終わったのです。主イエス・キリストは新約、つまり「新しい救いの約束」として世に来て下さった神の御子なのです。このことを最もよく語っている御言葉はローマ書32122節と104節です。まず32122節にはこうあります。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。そして104節にはこうあります。(4)キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。

 

 これはどういうことかと申しますと、私たち最も罪ある者たちを救って下さるために、キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪の全てを贖って下さったのだということ、そしてその十字架の恵みによってキリストは「律法の終わり」になって下さったのだということです。この「終わり」(Teros)とは「成就」または「目的」という意味を持っています。つまり、キリストは私たちのために、私たちの身代わりとなられて、律法の求める「神の義」を満たして下さったかたであるということです。だから、私たちはキリストを信ずることによって、無条件で、あるがままで、天国(神の国)に入らせて戴いた者たちである。

 

 つまり、私たちは無条件で、ただキリストの十字架による恵みによって、完全に救われた者たちである。「神の恵みの永遠の御支配」の中に入らせて戴いた者たちである。そのことが力強く今朝の御言葉に宣べ伝えられているのです。だからこそ「神の国で最も小さい者も、彼(洗礼者ヨハネ)よりは大きい」のです。私たちが十字架と復活の主イエス・キリストによって戴いている救いの恵みは、それほどまでに確かなものであるということ。そりことを私たち全ての者たちに宣べ伝え、だからこそ、あなたは安心しなさい。慰められてありなさい。あなたこそ救われたその人である。あなたこそ御国の民とされたその人である。あなたこそ永遠に私のものとされた人である。そのように主ははっきりと語っていて下さるのです。

 

 最後にルカ伝1232節を読んで終わりましょう。「(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父の御心なのである」。祈りましょう。