説    教       マラキ書31節  ルカ福音書72427

             「預言者以上の者」ルカ福音書講解(55)

             2021・02・07(説教21061894)

 

 今朝のルカ福音書724節以下の御言葉を、もういちど口語訳でお読みしましょう。「(24)ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。(25)では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。(26)では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。(27)『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」。

 

 私たちは既にこの7章を通して、バプテスマのヨハネ、つまり洗礼者ヨハネが主イエスのもとに2人の弟子を遣わして(19)『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせたことを読みました。その噂はたちまちのうちにガリラヤ湖畔に集まった群衆全体に広がって行ったのです。そこでは群衆は完全に傍観者(第三者)の立場になっています。つまり、彼らは主イエスの御言葉を聞いていながら、実は聴いておらず、ただ好奇心と興味をもって主イエスと洗礼者ヨハネとの関係の成り行きを見守っていた、第三者的な興味をもって冷静に観察していたわけです。

 

 私たちにも、同じようなことがないでしょうか?。たとえ信仰生活は何年、いや何十年の年月を経ていたとしても、未だかつて一度も骨身に徹して御言葉を聞いたことがない、御言葉によって打砕かれる経験をしたことがない、言い換えるなら、神の御前に悔改めたという経験がない、しかし経歴だけは一人前のキリスト者然としている、そういうことが私たちにもありうるのではないでしょうか?。もしもそうならば(そうでなくても)私たちは今朝の御言葉を、私たちへの救いの音信としてしっかりと聴き取らねばならないと思うのです。

 

 改めて24節の途中から読み返してみましょう。「(24) あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。(25)では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる」。実は今朝のこの一連の御言葉をギリシヤ語の原文で読みますと、主イエスが群衆を相手に対話をなさっておられる様子がよくわかるのです。どういうことかと申しますと、主イエスがまず群衆に大きな声でお尋ねになる。「(24) あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」。すると群衆から「いや違う!」という声が返ってくるのです。そこで主イエスはさらに25節で問い返されます。「(25)では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、贅沢に暮している人々なら、宮殿にいる」。すると群衆からまたもや返事があります。「いいや、それも違う!我々はそんなものを見に来たのではない」と。

 

 この群衆の返事を受けて、主イエスは核心的な御言葉をお告げになります。それが今朝の26節です。「(26)では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。(27)『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」。このあたりの遣り取りは非常に臨場感に満ちた表現です。主イエスは群衆との言葉の遣り取りを通して、彼らを救いの福音へと導いておられるのです。あなたたちが見ようとしているもの、見たいと心から願っているもの、それは風に揺らぐ葦でもなく、贅沢に暮らしている人々でもない「そうだ、それは預言者なのだ」と言われるのです。

 

 そればかりではありません。主イエスは更に26節に言葉を継いでおっしゃいます。「(26)あなたがたに言うが、それは預言者以上の者である」と。それは洗礼者ヨハネのことをさしています。預言者とは元々のヘブライ語では「ナービー」ですが、それは「神の御言葉を預かって(戴いて)それを正しく民衆に語るようにと召された者」という意味です。だから主イエスが洗礼者ヨハネのことを「預言者以上の者」と言われた意味は、文脈から申しますと、洗礼者ヨハネは「神の御言葉を預かって(戴いて)それを正しく民衆に語るようにと召された者」以上の存在であるという宣言なのです。旧約のモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセアなどの預言者たちより、もっと大きな存在、更に優れた「預言者以上の者」であると語っておられるのです。

 

 ではこの「預言者以上の者」とは、どのような意味なのでしょうか?。それは、洗礼者ヨハネはただ神の御言葉を人々に宣べ伝えるだけではなく、十字架と復活の主イエス・キリストを人々に直接さし示すために召された人であるという意味です。ただ御言葉を宣べ伝えるだけではなく、キリストを人々にさし示す者として、洗礼者ヨハネは「預言者以上の者」であると主イエスは語っておられるのです。預言者を通して神の御言葉を戴いた人々に主なる神が求めておられるものは従順です。しかし主なる神はそれ以上に、「預言者以上の者」である洗礼者ヨハネを通してさし示された主イエス・キリストに対する信仰を私たちに求めておられます。

 

 信仰とは「信じて仰ぐ」と書きます。この「仰ぐ」とは「見つめる」「凝視する」という意味もありますが、それ以上に「任せる」「委ねる」「帰依する」という意味です。ですからカール・バルトという神学者は「これはアーメンということと一つの事柄である」と語っています。つまり信仰とはバルトの言葉で言うなら「アーメンということ」なのです。そして「アーメン」という言葉は元々はヘブライ語の「エメト」すなわち「神の真実」という言葉に由来しています。ということは、信仰とは「神の真実に自分を委ねること」です。

 

 この最も大切なことを体現した人、つまり「神の真実」を全生涯を通じて世に証した人が洗礼者ヨハネでした。それは具体的には「来たるべきかた」つまり「全世界の唯一の救い主であられる主イエス・キリスト」をさし示す務めに生き抜いた生涯でした。このことを主イエスは「預言者以上の者」という言葉で私たちに教えておられるのです。

 

 あなたも、そのようなかけがえのない神の僕として、まさに「預言者以上の者」として、主が招いて下さっているその人ではないか。そのように主イエスは私たち一人びとりに語っておられるのです。それは「神の真実に自分を委ねて生きる人」のことです。神のエメト(キリストにおける無限の愛)に生きる僕とされることです。旧約の預言者たちはキリストを証した人々でしたけれども、いま私たちは御言葉と聖霊によって現臨しておられるキリストに出会う僕たちとならせて戴いているのです。

 

それならば私たちは、その神の真実に対して「アーメン」と告白せざるをえないではないか。キリストに出会い、キリストによって贖われ、キリストの弟子とされた私たちは、預言者たちよりももっと大きな祝福と幸いを与えられているではないか。そこにこそ私たちの信仰の歩みが作られてゆくではないか。いまそのことを親しく主より教えて頂いて、私たちは新しい一週間を生きる僕たちとされているのです。祈りましょう。