説    教     詩篇681920節  ルカ福音書71823

            「我に躓かぬ者は幸福なり」ルカ福音書講解(54)

             2021・01・31(説教21051893)

 

 今朝与えられたルカ伝718節以下の御言葉を、もう一度口語訳でお読みしましょう。「(18)ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、(19)主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。(20)そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。(21)そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、(22)答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(23)わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

 

 主イエスがガリラヤにおいて目覚ましい奇跡の御業をなさっておられるとの噂が、洗礼者ヨハネの弟子たちによってヨハネのもとにもたらされたのです。そこでヨハネは弟子たちのうちから2人の者を主イエスのもとに遣わして言わせました。19節です。「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。ここには、主イエスに対する洗礼者ヨハネの懐疑心が現れています。本当にこの人は「来たるべきかた」なのだろうか?。本当にこの人はメシア(キリスト)なのだろうか?。つまり洗礼者ヨハネは主イエスのことを疑ったのです。主イエスに対して不安を抱いたのです。だから2人の弟子を遣わして、あなたは本当に「来たるべき救い主、キリストなのですか?」と訊ねさせたのです。

 

 そこで、この洗礼者ヨハネの言葉には、彼が主イエスに対する一種の対抗心(ライバル意識)が現れているのではないでしょうか。つまり、洗礼者ヨハネは主イエスを自分と同等同格の人間として見て、ライバル視していたと考えられるのです。もとはと言えばガリラヤの人々、いや、ユダヤ中の人々が洗礼者ヨハネのもとに集まってきていたのです。そしてヨハネは、集まってきたおびただしい群衆にヨルダン川で悔改めの洗礼を授けたのでした。ところが、いまや民衆の関心はヨハネから主イエスへと移り、もっとおびただしい群衆が主イエスのもとに集まるようになりました。その噂を聞いて、洗礼者ヨハネは主イエスに対して対抗意識を燃やしたとしても不思議なことではありません。

 

 しかしながら、そこはさすがは洗礼者ヨハネでして、彼は主イエスに対する対抗意識を神への信仰によって隠し、表にあらわすことをしませんでした。むしろ彼はただ一つだけ、2人の弟子を通して主イエスに質問をしました。それが19節にある「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」です。この「来たるべきかた」とはもちろん神の永遠の御子であられるキリストのことをさしています。つまりヨハネは主イエスに対して「あなたは本当に神の御子キリストなのですか?」と訊ねているわけです。

 

 この洗礼者ヨハネの質問に対して、主イエスはお答えになって言われたのが今朝の21節以下です。「(21)そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、(22)答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(23)わたしに躓かない者は、幸いである」。

 

 昔から「百聞は一見に如かず」または「論より証拠」と申します。どんな噂話よりも、実際に自分で見たこと、自分が経験したこと、自分の手で触れたこと、それがいちばん説得力を持つのは当然のことです。この当然のことを主イエスは大切になさった。だからヨハネの弟子たちに言われたのです。「(22)行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(23)わたしに躓かない者は、幸いである」と。

 

 今朝の御言葉の中で、私たちは特に主イエスがお語りになったこの最後の23節に御一緒に心を留めたいのです。「(23)わたしに躓かない者は、幸いである」。これはどのような意味なのでしょうか?。どうして主イエスはこのようにおっしゃったのでしょうか?。なによりも、この「躓く」とは「信仰を失う」という意味の言葉です。英語のスキャンダルという言葉の語源にもなったギリシヤ語が用いられています。さらに言うならば、この語源になったスカンドロンというギリシヤ語は「滑りやすい石を足元に置く」という意味です。

 

私はかつて東京の青山教会におりましたとき、ある雪の降った日に、ちょうど青山学院大学の正門の前の歩道で、そのとき荷物を両手に持っていたのですが、踏み固められた雪に滑って見事に転んだことがあります。漫画などでよくツルッと滑って背中から転ぶ人の姿が描かれますが、まさにあのような滑りかた、転びかたをしました。そのとき咄嗟に思いましたのは、「ああ、これこそスカンドロンだな」ということでした。自分では全く予期していない、もちろんわざとではない、自分の意志からではない、望んでしたことではない、それにもかかわらず、ものの見事に滑って転んでしまう、そういう経験を、実は私たちは主イエスに対してこそするのではないでしょうか。

 

 それはどういうことかと申しますと、主イエスが私たちを招いていて下さっているにもかかわらず、私たちはその御招きに応じようとはせず、冷静な第三者であり続けようとすることです。主イエスに対して傍観者・観察者であり続けようとすることです。そのとき、私たちは御言葉を聴いているようでいて実は聴いてはいないのです。主イエスを信じているようでいて実は信じていないのです。むしろ自分が中心になり、自分が「主」になっているのです。

 

 昔、私たちの教会にとっても信仰の大先達である植村正久牧師は、よく地方への伝道旅行をなさったことで知られています。あるとき、ある街の教会で植村牧師は伝道礼拝の説教をしておられた。そのとき、窓の外からわざと聞こえるような大きな声がした。「あー、何を言ってるんだかちっともわかんねえや!」すると植村牧師はその窓の外にいる男をキッとにらみつけて大声で言ったそうです。「わからんのだったら、そんなところに立っておらんで、中に入って座って聴け!」。実際にこの男が中に入って座って聴いたかどうかは知りませんけれども、このようなことが私たちにも大切なのではないでしょうか。

 

 主イエスはヨハネの弟子たちを通して、洗礼者ヨハネに一喝なさったのです。「わからんのだったら、そんなところに立っておらんで、中に入って座って聴け!」と。あなたは私に躓いてはならない。私はここで、全ての人々の中で、罪の赦しによる救いの御業を現わしているのだ。あなたもここに来て、私のわざに与かる人になりなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。そのように主イエスは、洗礼者ヨハネに語っておられるのです。それは同時に、ここに集う私たち全ての者たちに主がいま、今朝のこの御言葉を通して語っておられることです。主イエスは私たち一人びとりに対してこそ大きな声で言われます。「(23)わたしに躓かない者は、幸いである」と。どうか私たちは、いつも健やかな信仰をもって主イエスを神の御子・救い主なるキリストと信じ、主に従って歩む僕になりたいと思います。祈りましょう。