説    教   出エジプト記43031節 ルカ福音書71117

            「葬列を止めたもう主」ルカ福音書講解(53)

             2021・01・24(説教21041892)

 

 それは、あまりにも驚くべきことでした。主イエスの弟子たちはもちろ

んのこと、その場に居合わせた人々はみな、一様に言葉を失ったことでした。それは、主イエスが葬列をお止めになったからです。それはナインというガリラヤの小さな村での出来事でした。改めて今朝の712節をご覧ください。「(12) 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた」。

 

 最近ではもう日本でも葬列というものをほとんど見る機会がなくなりましたけれども、昔は、特に田舎の葬式では、葬列が普通に見られました。いわゆる「野辺送り」と申しまして、亡くなった人の棺を親しい者たちが担いで墓地まで運ぶ風景が、日本のあちらこちらで見られたものであります。実は私も高校1年生の時に、友人の野辺送りの葬列に加わった経験がございます。それは急性白血病で急逝した友人の葬列でした。しかも彼が入れられていたのは棺ではなく「棺桶」つまり木の樽でした。その木の樽に押し込められた友人の亡骸を、私は級友たちと一緒に、彼の家から数百メートル離れた墓地まで運んで、墓穴にそれを下ろして、土をかけて、埋葬するという経験を致しました。

 

 その時の気持ちを、私は今でもはっきりと、昨日のことのように覚えています。この悲しくて残酷な葬列を止めてくれる人が、どこかにいないものだろうか。そういう祈りにも似た切実な思いでした。私は友人の棺桶に向かって小声で言いました。「おい小林、蓋をあけて出てこい」と。しかし彼は、小林君は、当然ですが、棺桶から出てくることはありませんでした。そして私たちの葬列は墓まで続いたのです。つまり墓が葬列の最終目的地なのでした。

 

 これこそ、人類がこの地球上に生を受けてからこのかた、数百万年も変わることなく続いてきた「葬列の法則」なのではないでしょうか。それは墓に着いてようやく終わるものなのです。この葬列を止めることのできる人は一人も存在しないのです。そこに私たち人間存在を支配してきた「葬列の法則」の恐ろしさがあるのです。

 

 それならば、主イエス・キリストは、主イエス・キリストだけが、この恐ろしい「葬列の法則」を止めて下さったかたなのです。今朝のルカ伝713節と14節をご覧ください。「(13)主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。(14)そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた」。主がこの婦人に言われた「泣かないでいなさい」とは、原文のギリシヤ語を直訳するなら「あなたはもう泣かなくてもよい」という意味の言葉です。そのようにお語りになってから、主は「(14) 近寄って棺に手をかけられた」のです。すると、そこに本当に驚くべきことが起こったのでした。

 

私たちは改めて、14節の途中から終わりまで読みましょう。「(14) かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。(15)すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。(16)人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。(17)イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった」。

 

 ここで注目すべきことは16節に「人々はみな恐れをいだき」とあることです。これは直訳するなら「村の人々はみな主なる神を讃美した」という意味です。ナインの村の人々は主なる神に感謝と讃美を献げたのです。それまでは悲しみの涙を流しながら棺を運んでいた人々でした。その葬列の行き着く先は墓であるはずでした。その同じ人々が、葬列を止めて下さった唯一の主イエス・キリストによって、主なる神に感謝と讃美を献げる人々に変えられたのです。これこそ、主イエスがナインの村里で現して下さった驚くべき奇跡の御業なのです。

 

 実は私は約30年前にイスラエルに参りましたとき、ちょうど近くを通りかかる機会があったものですから、このナインの村里を訪ねたことがございます。ナインは主イエスがお育ちになったナザレの南15キロの丘の麓にある小さな村里で、現在はNaimと呼ばれています。そこで感じましたのは、ナインは本当にガリラヤのどこにでもある普通の村だということです。つまり、主イエスはごく普通の私たちの生活のただ中に来て下さって、そこでこそ「葬列の法則」に終止符を打って下さるかただということを改めて強く感じました。

 

 スイスの神学者カール・バルトは、今朝の御言葉のこの出来事(この奇跡)について「それは復活の先取りとして現れた奇跡であった」と語っています。バルトが「復活の先取り」と言います意味は「復活こそ本当の奇跡である」ということです。つまり、ナインの村里において起こったこの出来事は「復活の喜びと幸いの、歴史における現われ」なのです。それは本当に私たちの日常のただ中に起こる主イエスによる救いの御業です。言い換えるなら、それは私たちの罪と死のただ中に表された主イエスによる救いの出来事です。まさにバルトが語るように「それは復活の先取りとして現れた奇跡」なのです。

 

 私たち人間は、当然ですが、キリストを信じれば死ななくなるわけではありません。永遠の生命は「不老不死」になることではありません。私たちは自分自身の死を必ず迎えるわけですし、葬列を作るかどうかは別として、私たちもまた、死んで墓に葬られることは事実として自分自身の身に必ず起こるわけです。しかし人間の死が罪の結果であるならば、まさにその死の根本原因である私たちの罪を、主イエス・キリストは十字架におかかりになって完全に贖って下さったかたです。主は私たちの救いのために十字架におかかりになり、そのようにして私たちに「復活の先取りとして現れた奇跡」を与えて下さるのです。まさに十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの葬列を止めて下さり、私たちの全存在を罪と死の支配から解放して、永遠の生命を与えて下さる救い主なのです。

 

 そのような意味で、今朝のこのナインの村における奇跡の出来事は同時に、私たちの日々の日常生活のただ中に起こる主イエスによる救いの出来事なのです。それは、私たちを支配する者はもはや罪と死の力などではない。私たちは生きている時にも、死ぬ時にも、いつも変わらずに、贖い主であられる主イエス・キリストのものだということ。そして主は私たちの罪を十字架において完全に贖い、私たちを何の値もなきままに御国の民として下さったということ、まさにそのような「主に贖われ、救われた民」として、私たちもまたナインの村里の人々と共に、主なる神に感謝と讃美をささげる僕たちとされていること、そこに私たちの変わらぬ喜びと幸い、平和と慰め、永遠に変わらぬ希望と生命があるのです。祈りましょう。