説    教         箴言2925節  ルカ福音書7110

             「ただ御言を賜いて」ルカ福音書講解(52)

             2021・01・17(説教21031891)

 

 主イエス・キリストは、ガリラヤの各地から集まってきた大勢の群衆に対して福音の御言葉をお語りになり、それからカペナウムの村に戻ってこられました。つまり主イエスは伝道旅行に出かけられて熱心に御言葉をお語りになった後で、ようやくカペナウムに戻られて休憩をお取りになることができたわけです。ところが、主イエスがカペナウムの、おそらくそれはシモン・ペテロの家であったかと思われますが、その家に入って休まれる間もなく、とても慌ただしい出来事が起こるのです。

 

 それは何かと申しますと、今朝の御言葉である72節にありますように「(2)ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた」のです。そこでこのローマ人の百卒長は、続く3節にあるように「(3)…イエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした」のでした。つまり彼は、自分の僕の重い病気を主イエスに癒して欲しいと願ったのです。そのために彼は主イエスに、自分の家に来て欲しいとお願いしたわけです。

 

ここで注目すべきは、この百卒長はローマの軍人であったにもかかわらず3節にあるように「ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした」とあることです。これは当時のローマ帝国とユダヤの関係においては、とうてい考えられないことでした。その常識はずれのことが実際に起こったということは、このローマ人の百卒長がどんなにユダヤの人々信頼されていたか、愛されていたかを示しています。

 

そこで、これは想像なのですけれども、この百卒長は神を信じる人だったのではないでしょうか。そして、これは私のさらなる想像になるのですけれども、たぶん彼は洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた人だったのではないかと思われるのです。

 

 だからこそこの百卒長は、主イエスのもとに「ユダヤ人の長老たち」を遣わして「自分の僕を助けに来て下さるようにと、お願いした」のではないでしょうか。彼は主イエスだけが本当の「癒し」を与えて下さるかたであることを、つまり、主イエスのみがキリスト(救い主)であることを信じていたのです。ユダヤ人の長老たちも口添えして、主イエスにしきりに願って申しますには「(4)あの人はそうしていただくねうちがございます。(5)たしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。そこで主イエスは、たいへんお疲れになっていましたが、今朝の6節にありますように「(6) そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった」のです。

 

ところが、道の途中で思わぬことが起こります。6節の途中から見てみましょう。「(6)ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。(7)それですから、自分でお迎えにあがる値打ちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください」。

 

 この百卒長の伝言には、さらに続きがありました。8節です。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。

 

 これは、とても素晴らしい言葉です。この百卒長の信仰告白とも申すべき言葉です。彼は軍人ですから命令が絶対であることを知っています。そしてもちろん彼の下にも部下がいるわけですが、彼が出した命令には部下は絶対に従うわけです。つまり、どういうことを彼は語っているかと言いますと、主イエスがこの歴史的現実的世界における最高司令官であられる。つまり主イエスは真の神の永遠の独子であられる。それならば、主イエスの出される命令には全ての権威が従うはずだと言ったわけです。自分はそれを信じると告白しているのです。これはつまり「主イエス・キリストは神と本質を同じくしたもうかたである」という信仰告白です。ニカイア信条の告白を先取りしているのだと言えるでしょう。

 

 主イエスはこれをお聞きになって言われました。今朝の9節以下です。「(9)イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。(10)使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。

 

 百卒長が主イエスに対して願ったことはただ一つのことでした。それは今朝の7節にある「ただ、お言葉を下さい」です。文語訳の聖書では「ただ御言を賜いて」と訳されています。元々のギリシヤ語の文章を直訳しますなら「主よ、どうか私に御言葉のみを与えて下さい」です。さらに申しますなら「どうか私に命令して下さい」ということです。あなたの御言葉のみが、私たち全ての者を吸い、死から生命へと甦らせる唯一の福音ですと告白しているのです。だから、どうか私に命令して下さい。ただあなたの御言葉のみを私に下さい。そうすれば、万物の創造主なる神と本質を同じくしたもうあなたは、私の僕の病を必ず癒して下さいます。ただあなたのみが、私たちを罪から贖い、永遠の生命を与えて下さる唯一の救い主キリストです。そのように百卒長は告白しているのです。

 

 この百卒長の信仰告白にお応えになって、主は群衆のほうを振り向いて言われました。「(9) 「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と。最後の10節にはこのようにございました。「(10)使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた」。ただ主イエス・キリストのみが、私たちの全存在を罪から贖い、死から生命へと甦らせ、永遠の生命を与えて下さいます。ただ主イエス・キリストのみが、私たちを「死に至る病」から立ち上がらせ、根本的な癒しを与えて下さいます。ただ主イエス・キリストのみが、私たちに救いを与えて下さいます。

 

 私たちは新型コロナウイルス(COVID)の影響によって、もう一年間も礼拝の中で聖餐式を執行できないでいます。今後もこの状況はしばらくは変わらないでしょう。しかし、聖餐式ができない礼拝には祝福や恵みも少なくなるのでしょうか?。もちろんそうではありません。私たちは礼拝において今朝の百卒長の言葉に心と声を合わせるのです。「主よ、どうか私に御言葉のみを与えて下さい」と。なぜでしょうか?。主の御言葉のみが私たちに救いと生命を与えるからです。私たちを癒して下さるからです。私たちは「主よ、どうか私たちに、いつもパンと葡萄酒を与えて下さい」ではなく「主よ、どうか私に御言葉のみを与えて下さい」と祈り続けるのです。否、聖餐において私たちが受けるパンと葡萄酒もまた、主が与えて下さる生命の御言葉と同じものなのです。

 

 どうか新しいこの一週間、私たちは主と共に、主の愛と祝福の内を、心を高く上げて歩んで参りましょう。「主よ、どうか私に御言葉のみを与えて下さい」と祈りつつ。主は私たちが祈り願うより遥かに多くの御言葉の糧をもって、私たちの全存在を癒し、養い、ついには永遠の御国へと至らせて下さるのです。祈りましょう。