説    教        詩篇181節  ルカ福音書64649

             「岩の上に家をば」ルカ福音書講解(51)

             2021・01・10(説教21021890)

 

 「(46)わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。(47)わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。(48)それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。(49)しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。これが今朝、私たちに一人びとりに与えられた福音の御言葉です。

 

 そこで、まず私たちは、この御言葉の冒頭に驚かざるをえないのです。それは主イエスが「(46)わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃっておられることです。この御言葉は私たちに改めて、これらの御言葉が語られた当時の人々の様子を思い起こさせるのです。どうも古代イスラエルの人々、ガリラヤ湖畔に集まってきたユダヤの人々は、主イエスが語られた福音の御言葉を素直に正しく聞いた人々ばかりではなかったようです。否、むしろ人々は主イエスの御言葉を聞く素振りを見せながら、実はいい加減に聞き流していた、自己中心に御言葉を聞いていた、そのような様子であったことが今朝の46節からわかるのではないでしょうか。

 

 それは2000年前のイスラエルの人々の姿であって、今日の私たちとは何の関係もないものでしょうか?。いいえ、これこそまさしく今日の私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。福音の言葉は、人々が喜んで聞いて受け入れるから「福音」なのではないのです。それは時に全く逆に、人々から退けられ、疎まれ、憎まれ、蔑ろにされ、正しく聞かれないものなのです。昔から「良薬口に苦し」と申します。私たちは罪人ですから、せっかく与えられた福音という良薬を「なんだこんな苦いもの」と言って口から吐き出してしまうのです。

 

 そのような私たちに対してこそ、主イエスはこのようにお語りになります。「(47)わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。(48)それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである」。また、それと同時に主イエスは逆のことも言われます。49節です。「(49)しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

 

 私たちの葉山教会は21年前に新会堂を建築しましたが、その際に設計士の折田さんが最も心を注いだのは土台となる基礎の工事でした。皆さんは覚えておられるでしょうか?。実はこの礼拝堂の部分だけでも26本の柱が地下15メートルの硬い岩盤まで達しています。私たちの葉山教会は文字どおり「岩の上に建つ教会」なのです。だから工事が始まって最初の5カ月ぐらいは来る日も来る日も地味な基礎工事でした。それは、目に見えない基礎が、土台が、建物にはいちばん大切だからです。目に見えない部分をこそ大切にしなければならないのです。

 

 主イエスはそのことをよく知っておられました。そして主イエスは、私たちの信仰の生活が、更に言うなら、私たちに与えられた救いの恵みが、どこでこそ最も確かな基礎を持つものとなるのかを知っておられる唯一のかたなのです。私たちは目に見えるもの、自分の心を喜ばせるもの、自分にとって利益になると思われるもの、そういう目に見えるものだけを大切にしようとします。しかし主イエスはそのような私たちに言われるのです。それではいけないと。「(49)しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

 

 今朝の御言葉の説教の題を「岩の上に家をば」としました。これは多くのかたがご存じのように讃美歌304番の歌詞です。「真実なるみかみを、たのめるもののみ、岩の上に家をば、建てしひとのごと、なやみのときにも、動くことなからん」。私たちは今朝の福音を正しく聴く者たちであらねばなりません。私たちの救いは、いかなる意味においても、私たち自身の中にあるのではないのです。そうではなく、私たちの救いはただ「真実なる神にのみ」あるのです。ラテン語で言うなら“Solus Deus”です。スイスの神学者カール・バルトが「教義学要綱」で語っているように「私たちの救いはただこの“Solus”にかかっている」のです。

 

 同じ新約聖書のマタイ福音書1613節以下に、主イエスが弟子たちと共にピリポ・カイザリアに行かれたときの会話が記されています。ピリポ・カイザリアには巨大な岩山がありますが、その岩山の麓で主イエスは弟子たちにお尋ねになりました。「(13)人々は人の子をだれと言っているか」。弟子たちはいろいろな答えをしました。そこで主イエスは15節に「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」とお訊きになった。これにシモン・ペテロが弟子たちを代表して答えました。「(16)あなたこそ、生ける神の子キリストです」。そこで主イエスはペテロにこう言われました。「(17)バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。(18)そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。

 

 ここに告げられていることは、今朝のルカ伝の福音と完全にひとつのメッセージを私たちに語っています。それは、主イエス・キリストが私たちの完全な救いの唯一の根拠であられること、そしてその確かな証拠として主は全世界に御自身の御身体である教会を聖霊によってお建てになったことです。その教会とは何であるかと申しますと、主イエス・キリストに対する信仰告白のみを唯一の土台とする「恵みによって呼び集められた僕たちの群れ」であり「キリストのみを主とする礼拝共同体」です。そして主は「あなたは私の教会にいつもしっかりと繋がっているか?」と私たち一人びとりに問うておられるのです。

 

 「あなたは私の教会にいつもしっかりと繋がっているか?」もしそうならば、あなたは紛れもなく「岩の上に家を建てた人」である。世の中の嵐も、陰府の力も、死の力さえ、あなたを損なうことはできない。なぜなら、あなたは私の贖いの恵みの中にいるからだ。「子よ、安心しなさい、あなたの罪は私が贖った」と主ははっきりと語っていて下さるのです。「(17)あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。(18)そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ()である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。

 

 これこそ、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に繋がる私たち全ての者たちに主が告げておられる福音、この世界と歴史を救う生命の言葉なのです。祈りましょう。