説    教        箴言1025節  ルカ福音書64345

             「福音的因果応報」ルカ福音書講解(50)

             2021・01・03(説教21011889)

 

 今朝、この新しい主の年2021年最初の主日礼拝において、私たちは旧約聖書と新約聖書から2つの御言葉を与えられました。まず、旧約聖書・箴言1025節にはこのようにございました。「(25)あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる」。そして新約聖書・ルカ伝643節以下にはこのように告げられていました。「(43)悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。(44)木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。(45)善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」。

 

 私たち人間は自分の人生に何か理不尽な苦しみや悲しみが降りかかって来たとき、その理由を知ろうとしてますます苦しみ悩みに陥るものです。そしてその多くが因果応報論に答えを見出そうとします。特にその傾向は仏教の影響を受けた日本人には強いのではないでしょうか。因果応報論とはその名のごとく、私たちの人生において起こる全てのことには因果関係(正当な理由)があるのだという考えかたです。特に、昔から仏教では善因善果・悪因悪果と申しまして、善い行いは良い実を結び、悪い行いは悪い実を結ぶ、そういう法則のもとに世界は動いているのだという価値観・世界観が不文律のように人々の心を支配してきました。

 

 それは、決して間違いではないでしょう。何よりも、驚くべきことに、主イエス・キリストも同じようなことをおっしゃっているように見えるのです。それは今朝の御言葉の43節と44節にこうあることです。「(43)悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。(44)木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない」。なんだ、これを見れば主イエスも因果応報論を私たちに教えておられるのかと、そう読むことも決して無理からぬことのように見えます。キリスト教も仏教も共に因果応報を語っているかのように見えるのです。

 

 しかし、どうか気を付けて頂きたい。私は今朝の説教題を「福音的因果応報」としました。似ているように見えるけれども、その両者は全く違うということを示すためです。私は学生時代に東大印度哲学科の名誉教授でいらした仏教学の世界的権威である花山信勝先生から2年間仏教学とサンスクリット語を学んだことがございます。この花山先生があるとき私に言われますには「キリスト教にも因果応報論のようなものがある。たとえばそれはルカ伝643節以下に現れているけれども、それは仏教が説いている因果応報論とは全く違うものだ」。私はとても興味を持ちまして、花山先生に質問しました。「では、キリスト教の因果応報論は仏教のそれとどのように違うのですか?」すると花山先生は私に「君はキリスト者だろう。だったら君自身が最もよくそれをわかっていなければおかしいではないか」。花山先生というかたは時々そういう厳しいことをおっしゃって私に自戒と学びを促されました。

 

 そこで今日は、42年前に私が花山先生から戴いた宿題にも答える形で、私が聖書から読み解いた「福音的因果応報」について語ろうと思います。そのために箴言1025節を改めてご一緒に心に留めたいと思います。「(25)あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる」。2020年は「コロナに翻弄された年であった」と語った人がいました。本当にその通りだと思います。誰もがそう心から感じているのではないでしょうか。それならば新しい主の年2021年を私たちは「コロナを克服した年」としなければならない、そのような大きな課題を主の御手から宿題として与えられているのです。ここで大切なのは「正しい者は永久に堅く立てられる」と告げられていることです。

 

 この「正しい者」とは誰のことでしょうか?。私たちの中に、あるいはこの世界の中に、救いに値する「正しさ」があるのでしょうか?。答えは否です。私たち人間存在と自然的世界の中にはいかなる意味においても神の御心に適う「正しさ」は存在しません。では「正しい者」とは誰のことでしょうか?。それは、私たちの罪と滅びを一身に担って十字架への道を歩んで下さった神の永遠の御子イエス・キリストのことです。だから箴言の語る「正しい者」とは単数形なのです。この一人のかたに(十字架の主イエス・キリストに)全世界の救いがかかっているのだということを明らかにしているのです。

 

 同じ新約聖書のヨハネ伝91節以下に、主イエスと弟子たちが「道を通っておられた時」に一人の「生まれつきの盲人」に出会ったときのことが記されています。この盲人を見た弟子たちは主イエスに質問するのです。「(2)弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。これは典型的な因果応報論です。弟子たちは主イエスに、この人の目が生まれつき見えない理由は「本人またはその両親が罪を犯したからだ」と考えたわけです。しかしこの弟子たちの問いに主イエスは驚くべきお答えをなさいました。それが3節です。「(3)イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。そして主イエスはこの盲人の目を癒して見えるようにして下さったのです。

 

 これは、どういうことでしょうか?弟子たちはこの人の目が「生まれつき見えなかった」理由を過去に求めようとしました。因果関係を明らかにしようとしました。しかしそこからは何の解決も生まれません。過去を振り返って絶望に悲しみを加えるだけのことです。しかし、主イエスのお答えは全く違いました。言い換えるなら、主イエスの因果応報論は弟子たちのものとは全く違うものでした。主イエスはこの人を祝福されたのです。そして言われました「(3)本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。

 

 大切なことは「神の御業」が彼の人生に現れることです。過去のことに縛られるのではない、たとえそのような過去の因果関係があったとしても、それに打ち勝って、それを無力化して、それを打ち破って「ただ神の御業が彼の人生に現れる」ことを主イエスは明らかにして下さったのです。まさに主イエスはそのためにこの生まれつき目の見えなかった人のもとに来て下さった。そして私たち一人びとりのもとに来て下さった。私たちの罪を担って十字架への道を歩んで下さったのです。

 

 既にこの十字架の主イエス・キリストによって、私たちに驚くべき祝福された新しい因果応報が与えられています。それは第二コリント書517節です。「(17)誰でもキリストに在るならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。これこそ福音的因果応報です。この「キリストに在る」とは、キリストに結ばれて生きることです。さらに言うなら、キリストが私たちをしっかりと捕えていて下さることです。つまり、この17節の御言葉はこのように訳すことができます。「たとえいかなる人でも、キリストがその人を捕えていて下さるなら、キリストがその人のために十字架にかかって下さったのなら、その人は“新しく造られた者”とされています。あなたを縛り付ける全ての古い因果応報は主が十字架によって打ち滅ぼして下さいました。見よ、全てが新しくなったのです」。私たちはみな、この祝福のもとに、新しい主の年2021年を迎えたのです。祈りましょう。