説    教        詩篇3734節  ルカ福音書63236

            「汝らの天父の慈悲なる如く」 ルカ福音書 (47)

             2020・11・29(説教20481884)

 

 「(32)自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。(33)自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。(34)また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。(35)しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。(36)あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」。

 

 今朝のこのルカ伝632節以下の御言葉を聴いて、まず私たちはどのような感想を抱くでしょうか。それよりもまず、私たちは普段どのような思いでこの御言葉を聴いているのでしょうか?。このこと自体が一つの大きな問いであることは間違いありません。ここに記されていることはキリストによる御教えの数々であり、日ごろ私たちが「これぐらいのことを行っていれば、まあまあ私はキリスト者らしい人生を歩んでいると言えるだろう」と考えている事柄に対して「そのようなことは異邦人や罪人でもしているではないか」と、厳しく喝を入れられているように感じるからです。例えて言うなら、ある仕事を任されて一生懸命にそれを果たした。ところがその仕事を見た人からこう言われるのです。「なんだ、これぐらいのことだったら誰でもできる」。そこで私たちはどう感じるでしょうか?。正直に言って、気落ちしてしまうのではないでしょうか。

 

 改めて今朝の御言葉を正しく受け止め直さなければなりません。主イエスはここで私たちが気落ちして、立ち直れなくなってしまうような厳しいことを語っておられるのでしょうか?。そうではないと思います。そもそも今朝の御言葉の中心はどこにあるのでしょうか?。逆に言うならば、ここで主イエスは「あなたは駄目な人だ」と一言でもおっしゃっておられるでしょうか?。むしろ私たちは今朝の主イエスの御言葉の中心が36(35節後半以降)にあることを見落としてはなりません。「(35)いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。(36)あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」。

 

 ここでも、今までのルカ伝6章の御言葉のように、主語はキリストご自身であり、更に言うならば神ご自身です。私たちが主語なのではなく、主なる神が唯一の主語であられるのです。もっと言うならば、私たち人間はいかなる意味においても福音の主語ではありえないのです。私たちが主語となった瞬間に、それは福音ではなく単なる道徳訓になってしまうのです。ところが私たちはえてしてそのような聖書の読みかたをしてしまう。私たちは聖書を「福音の音信」ではなく「道徳の教科書」として読んでしまうのです。そこに私たちが陥る大きな間違いがあります。

 

 聖書は創世記11節から最後のヨハネ黙示録2221節に至るまで、徹頭徹尾「福音の音信」によって貫かれています。だからそれが単なる道徳訓になってしまうなら、それは聖書のせいではなく私たちの読みかたが間違っているのです。そこでこそ、私たちは改めて今朝のルカ伝635節後半以降に心を留めましょう。「(35)いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。(36)あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」。ここに宣べ伝えられている福音は何でしょうか?。それは「主なる神は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深い」という音信です。この「なさけ深い」と訳されている元々のギリシヤ語は「私たちを分け隔てることなく、最高の恵みを与えて下さる」という意味の言葉です。それならば、既にここに聖書の福音の本質が余すところなく宣べ伝えられているのではないでしょうか。

 

 それは、私たちは主なる神の御前にみな例外なく「恩を知らぬ者」であり「悪人」なのですけれども、そのような、主の御前に立ちえざる私たちに神は「分け隔てることなく、最高の恵みを与えて下さる」かただという音信です。だから使徒パウロはローマ書321節以下にこのように語っています。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。

 

 ここで使徒パウロが語っている「神の義」こそ私たちに与えられた救いの御業であり、神は「私たちを分け隔てることなく、最高の恵みを与えて下さる」かたなのです。そしてパウロはローマ書323節以下でこのように語っています。「(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。ここでパウロが語っていることは、今朝の御言葉で申しますなら、私たちは全て神に対して「恩を知らぬ者」であり「悪人」であるのですけれども、まさにそのような私たちに「分け隔てることなく、最高の恵みを与えて下さる」ために、主イエス・キリストは十字架への道を歩んで下さったという事実です。だからパウロは24節にこう語っています。「(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。この「キリスト・イエスによる贖い」こそ、主が私たちを罪から救い、永遠の生命を与えて下さるために、十字架にかかって下さったことにほかなりません。そこに福音の本質があるのです。

 

 さて、今朝の御言葉には不思議な言葉が示されています。それは最後の36節に「(36)あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」とあることです。もちろん、この御言葉も道徳訓ではなく福音の音信です。もしこれが道徳訓ならば「あなたがたは神のように完全な者になりなさい」という教えになるからです。それならば、私たちはこれを福音の音信としてどのように理解すれば良いのでしょうか。その最も大きな答えは、同じ新約聖書のマタイ伝548節に示されています。すなわち「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあることです。これは今朝のルカ伝636節の並行記事です。それはどういうことなのでしょうか?。「あなたは神のように完全な存在になりなさい」という意味なのでしょうか?。もちろんそうではありません。

 

 そうではなくて、このマタイ伝548節は「完全であられる神(すなわち「「私たちを分け隔てることなく、最高の恵みを与えて下さる」神)にいつもしっかりと繋がっているあなたであり続けなさい」という意味なのです。しかも、大切なことは先ほど示されたローマ書324節に告げられていたように「(私たちはみな全て)価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」という事実です。つまり、主イエス・キリストのみが私たちの救いを完成して下さった唯一の「救い主」なのです。私たちが主語なのではない。ただキリストのみが主語なのです。そしてキリストのみが「恩を知らぬ者」であり「悪人」でしかありえなかった私たち全ての者のために、十字架への道を歩んで下さったのです。

 

主は十字架において、私たちの罪の唯一完全な贖いを成遂げて下さったのです。そこに、私たちの救いがあります。そこに、私たちの新しい生活があります。そこに、私たちのアドヴェントの歩みがあります。心を高く上げて、この新しい一週間も、信仰の歩みを続けて参りたいと思います。祈りましょう。