説   教      哀歌32223   ルカ福音書53639

            「祝福された新しさ」 ルカ福音書講解 (36)

            2020・09・13(説教20371873)

 

 今朝お読みしたルカ伝536節以下の御言葉をもう一度、口語訳で読みたいと思います。「(36)それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。(37)まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。(38)新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(39)まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

 

 もうずいぶん以前のことですが、あるとき私は電車に乗っていて、何気なく車内広告を見ていましたら、このルカ伝538節の御言葉が書いてあるのに驚いたことがあります。「(38)新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」。なんの宣伝であったかは忘れましたけれども、聖書の言葉が思いがけないところに書いてあったものですから、それは文字どおり「新しいこと」のように感じました。主イエスがこの御言葉をお語りになったのはパリサイ人や律法学者たちとの対話の中でです。パリサイ人らは主イエスに対して、主イエスの弟子たちが飲んだり食べたりして騒いでいるのを見て、それを非難したのです。あなたの弟子たちのあの行状を、あなたは恥ずかしいと思わないのですかと訊ねたわけです。

 

 これに対して主イエスは、もしあなたがたが親しい友人の婚礼の祝宴に招かれたとしたなら、そこで暗い顔をして断食などしないであろう。むしろ喜んで飲み、かつ食べて、婚礼の喜びを共に祝うではないか。それと同じように、いま私の弟子たちは、私の弟子とされた喜び(救われた喜び)をここにいる全ての人々と共に祝っているのだ。しかし、やがて花婿が奪い去られる日が来る。死が花嫁から花婿を奪う日が来る。その日には全ての人たちが断食をするであろう。そのようにお答えになったわけです。それが先週の635節までの御言葉です。

 

 そこで、問題はこの「(35)花婿が奪い去られる日」とは何を意味しているのかということです。私たちは先週既に学びましたけれども、それは主イエスの十字架の出来事をさしているのです。言い換えるならば、主イエスの十字架によって、この現実の罪の世界のただ中に、主なる神による決定的な救いの御意志が現れる時が来る。その時には、すなわち「花婿が奪い去られる日」には、主イエスの十字架の出来事を自分の救いの出来事として信じ告白する全ての人が「断食」すなわち「霊とまこととによる真の礼拝」を献げるであろう。主イエスがパリサイ人らにお答えになった「断食」という言葉の意味はそういうことです。ですから改めて私たちは、それが真の礼拝の問題であるということを心に留めたいと思うのです。

 

 そのようにして、主イエスは更に今朝の36節以下の御言葉をパリサイ人らに、否、なによりも私たち一人びとりにお語りになるのです。「(36)だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。(37)まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。(38)新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」。

 

 この御言葉の意味は、今朝の38節に主イエスみずから解説しておられるとおりです。すなわち「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」ということです。そこで、この「新しいぶどう酒」とは何を意味しているかと申しますと、まことの神による真の救いを意味しているのです。パリサイ人らはたしかに神の言葉を民衆に教えていましたが、それは「神について」語っていたに過ぎないのです。つまり、彼らにとって神はここにモノがあるというのと同じような意味で、対象化されるものにすぎませんでした。さらに言えば、それはギブ&テイクの関係に過ぎなかったのです。英語で言いますならば神が“God”ではなく、単なる“It”になっていたわけです。さらに言うなら“One of those things(何か神のようなもの)になっていたのです。

 

 私たちもその名をよく知っているスイスの神学者カール・バルトは、このパリサイ人らの罪を、実は教会もまた犯してきたのではないかと語っています。その結果としてあの第二次世界大戦が起こったのだとさえ語っているのです。神が神として崇められず、真の礼拝が失われ、神の言葉を正しく聴かず、むしろ人間が自分たちを神に祭り上げようとした、その結果があの二度にわたる悲惨な戦争として現れたのだと語っているのです。どういうことかと言いますと、教会の説教壇の上から語られる言葉が「僕は語る、主よ聴きたまえ」になっていたということです。もちろんこれはサムエルの言葉の裏返しです。正しくは「僕は聴く、主よ語りたまえ」でなくてはならない。それなのに根本的な本末転倒が起こったのです。

 

 実は、この「根本的な本末転倒」こそ、私たちの罪の姿にほかならないのではないでしょうか。そして意外なことに、この本末転倒は私たちにとって心地良いことが多いのです。今朝の御言葉の最後の39節がそれを見事に言い表しています。「(39)まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。私たち人間の罪はとても強情なのです。保守的で頑ななのです。それはちょうど「この古い酒(ぶどう酒)のほうが良いんだ」と言って新しい酒(ぶどう酒)を頑なに拒む人の姿に似ていると主イエスは言われるのです。もちろん、なんでも新しいものが良いのだというのは間違っています。大切なことは、今朝の御言葉で言うところの「新しい革袋」とはいったい何かと言うことです。

 

 「(38)新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」この「新しい革袋」とは何かと言いますと。それは真の礼拝のことなのです。ヨハネ伝424節に記された「霊とまこととによる真の礼拝」です。この「霊」とはもちろん聖霊のことです。そして「まこと」とはヘブライ語のHesedすなわち私たち全ての者に対する神の救いの恵みです。そうするとこの38節の意味はこのようになります。「神の御言葉のみがあなたを救い、あなたに真の自由と永遠の生命を与える。それが主なる神の永遠の御心である。この“新しいぶどう酒”を受けるために、私たちは“聖霊と神の真実に基づく真の礼拝”を献げようではないか。

 

 ここにこそ、つまり「霊とまこととによる真の礼拝」にこそ、祝福された本当の新しさがあるのです。その新しさは、いつかは古びてしまうようなものではありません。それは新しい創造の御業にさえ準えられるのです。主なる神は御子イエス・キリストの十字架によって、私たちの測り知れない罪を贖い、聖霊によって私たちを真の礼拝者となし、主の御身体なる教会に連なる者たちとして下さいます。そこでこそ私たちは永遠の生命、復活の朽ちぬ生命を主の御手から戴いて、真の礼拝を献げる僕とならせて戴けるのです。旧約聖書・哀歌322,23節をお読みして終わりましょう。「(22)主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。(23)これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。祈りましょう。