説    教      エゼキエル書2032節  ルカ福音書379

                「洗礼者ヨハネの宣教」 ルカ福音書講解 (10)

                2020・03・08(説教20101846)

 

 「(7)さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」。この、まことに厳しく激しい言葉によって、今朝の御言葉は始まっています。洗礼者ヨハネの宣教の言葉です。ヨハネは来たるべき主イエス・キリストのために道備えをする預言者として、荒野のヨルダン川の岸辺で集まってきた人々に福音を宣べ伝え、そして人々に「悔改めのバプテスマ」を授けていたのでした。今朝の御言葉であるルカ伝37節から9節には、そのヨハネの宣教の言葉、つまりヨハネの説教の言葉が書き留められているのです。

 

 そこでこそ、私はあえて皆さんにお訊きしたいと思います。もし私がいまこの説教壇から、この洗礼者ヨハネと同じ言葉で説教を始めたら、皆さんはどのように感じるでしょうか?。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」。もう「まむしの子らよ」と言った時点で、皆さんびっくり仰天なさると思うのです。「こんな説教は聴いていられない」と思うかもしれない。怒って席を立って帰る人もあるかもしれない。「いやいや中村牧師がこんな激烈な言葉を使うのにはきっと意味がある、ここはひとつ忍耐して最後まで聴こうではないか」そのように思う人もいるかもしれません。

 

 いずれにしても、この時の洗礼者ヨハネの説教は、それを聴いた人々がみな、心の底から驚きと戸惑いを感じるものだったのです。それこそ私は想像します。「こんなひどい説教は聴いておれない」と、怒って帰ってしまった人たちもいたと思います。少なくとも、みんなが素直にこの説教を聴いたのではないと思うのです。そこで私が思い起こすのは19世紀イギリスの大衆説教家C.H.スパージョン(Charles Haddon Spurgeon)の説教です。このスパージョンという人はバプテスト教会の牧師の家庭に生まれ、16歳の時にイザヤ書4522節の御言葉の説教を聴いたことによって回心(コンバージョン)を経験します。そのとき彼は何をしたかと言いますと直ちに説教を始めたのです。16歳の青年がロンドンの街角で、道行く人々に悔改めを呼びかける説教をしたのです。だからスパージョンは自らを語るある文章の中で「私が伝道を始めたのは16歳の時だった」と語っています。

 

 私は高校生の時に、洗礼を受けてまだ間もない頃ですが、このスパージョンの説教を読んで大きな感動を与えられました。いま私のパソコンにはスパージョンの全ての説教が原文で納められています。それらの説教を読んでいつも感じさせられることは、そこには「愛に溢れた激しさ」があるということです。晩年のスパージョンの写真が遺っているのですが、それを見ますと、スパージョンは説教壇から降りて、たぶんそこはメソジスト教会か聖公会の礼拝堂だったのでしょう、コミュニオン・サークルに両手を置いて、会衆席に向かって身を乗り出すようにして説教しています。そこに集まっていた人たちはみな、心を刺し貫かれるような思いでスパージョンの説教を聴いたのではないでしょうか。

 

 洗礼者ヨハネの説教もまた、まさに「愛に溢れた激しさ」のある説教でした。今朝の御言葉の8節以下を改めて辿りましょう。「(8)だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。(9)斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。

 

 私はここを読むたびに、自分は果たしてこのような説教の言葉を語りえているであろうかと、いつも自問自答せざるをえません。私たちの葉山教会をかつて30年間牧会して下さった宮ア豊文先生は、まさしくこの洗礼者ヨハネのような「愛に溢れた激しさ」を持つ説教者でした。宮ア先生の前の杉田虎獅狼先生も同じように「愛に溢れた激しさ」で説教をなさるかたでした。普段は柔和で物静かなかたでしたが、ひとたび説教壇に上るや否や「火を噴くような激しい説教」をなさる先生でした。そのような先生がたが葉山教会の霊的な基礎を作って下さったのです。それらの諸先輩の牧師先生がたに較べて、いまの私はどのような説教をしているのかと、自問自答せざるをえないのです。忸怩たる思いがあるのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書のエゼキエル書2032節に、このようにありました。「あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない」。これはバビロン捕囚の悲劇の中にあった同胞イスラエルの民に対して、預言者エゼキエルが宣べ伝えた説教の一節です。エゼキエルはここで「私たち人間は罪によって自分が勝手に作り上げた偶像を拝み、偶像に仕えようとしているけれども、その考えは絶対に人間を救うことはできない」と言っているのです。これもまた「愛に溢れた激しさ」を持つ説教の言葉です。人間は自然性によって救われるのではないのです。人間が本来持つ自然性は「癒し」ではありえても「救い」とはなりえないからです。私たち人間を救うものは超自然的な恵みのみです。すなわち生ける神の御言葉のみが私たちに真の自由と平和を与え、私たちを罪から贖うのです。

 

 このエゼキエルの激しい宣教の言葉、火を噴くような説教の言葉と、今朝の洗礼者ヨハネは轍を一つにしています。このヨハネの説教の中心は8節の「だから、悔改めにふさわしい実を結べ」という勧めにありました。しかしこの「実を結べ」というのは私たちに道徳的なわざを求めているのではありません。なぜなら道徳はいかに純粋なものであっても人間の自然性に過ぎないからです。わかりやすく申しますなら「悪いことはするな、良いことをしなさい」はキリスト教の福音の内容ではないのです。それならばキリスト教でなくてもどんな宗教でも言っていることです。そうではなく、今朝の御言葉にしめされている洗礼者ヨハネの宣教の中心は「来たるべきかた、神の御子イエス・キリストを信じなさい」ということにありました。ですから「悔改めにふさわしい実」とは「神の御子イエス・キリストを救い主と信じ告白すること」です。言い変えるなら、このキリスト告白、キリスト信仰以外に「悔改めにふさわしい実」はありえないのです。道徳ではなく信仰の問題なのです。世界の唯一まことの救い主イエス・キリストを信じ告白して、主の御身体なる教会に連なることです。

 

 どうか私たちはここでこそ、主イエスが語られたヨハネ伝154節の御言葉を思い起こしましょう。「(4)わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」。ここで主はただ単に「わたしにつながっていなさい」とだけ言われたのではありません。なによりも主は「そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と語っていて下さいます。しかもそれは、私たちに対する条件ではないのです。むしろこの154節はこういう意味なのです。「あなたは自分自身を私に明け渡してしまいなさい。そうすれば、あなたはわかるであろう。私が既にあなたをしっかりと捕えていることが」。

 

 「あなたは自分自身を私に明け渡してしまいなさい。そうすれば、あなたはわかるであろう。私が既にあなたをしっかりと捕えていることが」。私たちはいつもこの恵みの事実に招かれています。だからこれは道徳などではなありません。行為を条件としている言葉などではないのです。これは信仰の言葉であり、私たち全ての者に対する確かな救いの宣言であり、神による一方的な祝福の告知なのです。たしかに洗礼者ヨハネの説教は厳しく、激しいものでした。しかしその厳しさ、その激しさは、私たち人間が自分で自分を救おうとする欲求、すなわちエゼキエルが言うところの偶像崇拝から私たちを解放し、真にして唯一なる救い主イエス・キリストを信じ告白する者とならせて下さる厳しさ、激しさなのです。

 

 洗礼者ヨハネはまさに、そのような説教を荒野において語り続けた預言者でした。エゼキエルもそうでした。スパージョンも、杉田虎獅狼先生も、宮ア豊文先生もそうでした。そのような「愛に溢れた激しさ」の説教によって養われ続けてきた私たちであることを、主なる神に感謝しつつ、私たちはいまここに「悔改めにふさわしい実」を結ぶ者たちとして、すなわち、十字架と復活の主イエス・キリストに堅く拠り頼む僕たちとして、立ち続けて参りたいと思います。その私たちを、主イエス・キリストみずからしっかりと捕えていて下さいます。そして豊かな実りを与えて下さるのです。祈りましょう。