説    教     申命記7章6〜8節   ヨハネ福音書15章16〜17節

「われ汝を選べり」
2018・12・02(説教18481778)

 今朝の御言葉であるヨハネ福音書15章16節は、新約聖書の中でも特によく知られた有名な御言葉のひ
とつです。この御言葉が“愛唱聖句”であるという人も多いのではないでしょうか。すなわち、主イエス
はこのように言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだので
ある。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残る
ためである」。

 そこで、この御言葉は一見したところ、私たちには「当然のこと」のように思えるのです。私たちが自
分で主イエスを選んだのではない。そうではなく、主イエスが私たちを選んで下さったのだ。むしろ改め
て聴くまでもなく、私たちは「当然のこと」だと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか。本当
に私たちは、今朝のこの御言葉を自分にとって「当然のこと」として聴けるのでしょうか。

 まず、主イエスはここに「あなたがたがわたしを選んだのではない」と言われたことですが、これは元々
のギリシヤ語で申しますと「何々ではない」という、英語で言うときの「ノット」にあたる否定の言葉が
最初に出てきます。そしてその次に「あなたがた」という意味の“ヒュメイス”という言葉が続きます。
それに対して、ここが重要な点なのですが、主イエスが「わたしがあなたがたを選んだのである」と言わ
れる場合には、まず最初に「わたしである」という意味の“エゴー”という言葉が出てきて、そのすぐ後
に「わたしが選んだのだ」という意味の“エケレカメン”という言葉が続いているのです。

 これは、どういうことかと申しますと、口語の聖書では句読点で区切ってありますが、本来これはひと
つの文章であったのです。実際に文語訳では、ひとつの纏まった文章として訳されています。つまりこの
文章の中心はどこにあるかと申しますと「あなたがたではなく、わたしである。わたしが、あなたがたを
選んだのだ」。この点にこそ文章の中心があるのです。つまり、単なる〈選びの方向〉の問題ではなく、主
イエス・キリストが私たちをお選び下さったのだという「選びの恵み」にのみ、今朝の御言葉の中心があ
るわけです。言葉の方向や前後関係ではなく、キリストによる「選びの恵み」のみが今朝の御言葉の中心
なのです。

 もしも今朝のこの御言葉が、単なる選びの方向や前後の違いの問題であったのなら、私たちが主イエス・
キリストを選ぶ場合の「選び」も、キリストが私たちをお選びになる場合の「選び」も、共に同じ「選び」
であるということになります。ただ選びの方向と前後関係だけが違うという問題になるのです。そうする
と、私たちにはむしろ「わかりやすい」のですね。自分が主イエス・キリストを“選んだ”というなら、
その選びは不確かであるけれども、主イエス・キリストが私たちを“選んで下さった”というなら、その
選びこそ確かなものである。私たちはそのように、ごく「当然のこと」としてとらえることができます。
私たちの常識で判断できるわけです。主体と客体の相対的問題だからです。

 今朝の御言葉が告げているのは、その程度の事実ではないのです。私たちが簡単に「ああわかった」と
言って読み捨てることができる程度の御言葉ではないのです。それが先ほど申しました「あなたがたでは
なく、わたしである」という明確な中心点です。主イエスははっきりと言われます。「あなたがたではなく、
わたしである。わたしが、あなたがたを選んだのだ」と!。ここには、明確に中心に立っておられるかた
がおられるのです。それこそ〈十字架の主イエス・キリスト〉です。この〈十字架の主〉が、ただこの〈十
字架の主〉のみが、私たちをお選びになったのです。それは、私たちの持つ「選び」とは根本的に違う「キ
リストによる恵みの選び」です。単なる与え手と受け手の問題などではないのです。

 そのことを明確に示すのが、続く16節の後半にある「そして、あなたがたを立てた」という主イエス
の御言葉です。実はこの「立てた」と訳された元々の言葉は「任命する」とか「指名する」という意味の
ギリシヤ語です。ですから英語の聖書では「アポインテド」と訳されています。「ある人を、ある務めのた
めに指名する」という意味の言葉です。ですから、主イエスが「そして、あなたがたを建てた」と言われ
るとき、それは「あなたこそ、わたしが選んだその人である」という指名なのです。主は私たちを指名な
さっておられるのです。「あなたでなければならないのだ」と明確に宣言しておられるのです。指名とはそ
ういうことです。

 私が神学校を卒業しましたとき、卒業礼拝の来賓として、当時富士見町教会の牧師であった島村亀鶴と
いう先生が来られました。粛々として式が進行してゆく中で、島村先生は講壇に立っていきなり、土佐の
よさこい節でこう歌われたのです。「誰が何のかんの言うたかて、イエス様は“お前やのうてはあかんのや”
言うてはる。よさこいよさこい」。いささか度肝を抜かれましたが、この言葉は心に沁みました。今でもは
っきりと覚えています。私たちにも主はまさに「お前やのうてはあかんのや」と告げていて下さるのでは
ないでしょうか。私たちは主の御前に「かけがえのない汝」とされているのではないでしょうか。

 現代社会は、高度に発達し、生活が便利になった反面、多くの大切なものを失いました。その中でも、
現代社会が失った最大のものは、人間一人びとりの“かけがえのなさ”であると思うのです。人間の価値
と物質の価値が逆転してしまった。人格とモノの本末転倒が起こった、これが現代社会の最大の問題だと
思います。ある意味で現代社会は徹底的な唯物論の上に成り立っているのです。たとえば学校教育の話で
すが、成績のつけかたにも2つの方法があるのです。相対的評価と絶対的評価です。相対的評価というの
は、決まりきったテストの答え、それ以外は認めない評価です。そして点数によって上下関係を作る評価
です。それに対して絶対的評価というのは、決まりきったテストの答えではない、その生徒、その人でな
ければ出しえない答えを大切にする評価です。たとえば「氷が溶けたら、何になりますか?」という質問
に対して「水になります」と答えるのが相対的評価。「春になります」と答えるのが絶対的評価です。大切
なことは、主イエス・キリストは私たちに対して、また全ての人に対して、絶対的評価しかなさらないか
たなのです。言い換えるなら、主イエスは私たちを誰かと比較して評価なさらないのです。そうではなく、
どの人をも“かけがえのない”人格として絶対的に評価して下さるのが主イエスのなさりかたなのです。
それこそ「誰が何のかんの言うたかて、イエス様は“お前やのうてはあかんのや”言うてはる。よさこい
よさこい」なのです。

 もともと、キリストの十二弟子たちも、どうして主イエスの弟子になどなれたのか、人間的な常識で考
えるなら、これほど不思議なことはありません。優れた能力や才能を持っていたわけではない。学問に秀
でた者がいたわけでもない。特別な人格者であったというわけでもない。主イエスに対する絶対的な忠誠
心があったということもできない。集団として纏まりがあったということもない。いわば烏合の衆のごと
き輩にすぎませんでした。それどころか、十二弟子の中には、もと取税人であったマタイのような人間が
いたかと思えば、その取税人を不倶戴天の敵とする熱心党のシモンのような人間もいたのです。今日に譬
えて言うなら、ISのテロリストとイスラエルの民族主義者が同じバスに乗り合わせているようなもので
す。既に内部において分裂を抱えていた集団、それが主イエスの十二弟子でした。何よりも、主イエスが
十字架におかかりになった時、最後まで主と共にいた弟子は一人もおらず、みな主を見捨てて逃げてしま
ったのです。主を裏切った弟子たちなのです。

 そのような弟子たちを、主はなぜ、お選びになったのでしょうか?。これは本当に不思議なことです。
たった一つだけ、確かに言えることは、「選び」の理由は彼らの中にではなく、ただ主イエスの恵みにのみ
あったということです。そして、まぎれもなく主の恵みによって選ばれた十二弟子たちが、やがて最初の
教会を建設し、キリストの愛と恵みと祝福の証人として、全世界に遣わされて行ったことです。それがあ
のペンテコステの出来事でした。聖霊を受けた弟子たちは新たなる力を受け、御言葉によって立ち上がり、
生涯変わることなき主の証し人、主の御業の仕え人となったのです。もしキリストによる「恵みの選び」
がなければ、そのような弟子たちの生涯はありえず、またこの世界に教会はありえなかったのです。

 それは、私たち一人びとりにとっても同じなのです。私たちもまた、キリストの「恵みの選び」がなけ
れば、救われえず、贖われえなかった僕たちなのです。主に選ばれることなしに、教会の枝となることは
ありえなかったのです。私たちが主を選んだのではないのです。いろいろな宗教、さまざまな神の中から、
イエス・キリストを私たちが選んだというのではないのです。ただ〈十字架の主イエス・キリスト〉のみ
が、私たちを限りない愛と恵みによって選んで下さったのです。そこに私たちの救いと喜び、生命と祝福
の全ての根拠があるのです。それは「主イエスの恵みの選び」なのです。それこそが、測り知れない神の
絶対的評価なのです。

 ジョン・オーマンというイギリスの神学者が、このように語っています。「神はこの世界における最も
小さな者を、すなわち私たちを、ただ恵みによってお選びになった。そこに私たちは、神が創造された世
界の逆説を見いだす。そしてこの逆説(The Paradox of the World)なしに、私たちは世界の真の意味を
理解しえない」。ここでオーマンが言う意味は、私たちが世界を神の世界、神の御心の実現する世界として
認識するのは、ただ神が御子イエス・キリストによって、私たちを選んで下さったその「選びの恵み」に
よるのだということです。これはパスカルが語る「選びの恵み」に通じるものです。すなわち、私たちは
イエス・キリストを通してのみ、自分自身を知り、また世界を知るのです。イエス・キリストを知らない
ことは、自分自身と世界に対して無知であり続けることなのです。

 だから使徒パウロは、第一コリント書1章26節以下で、このように語りました。「兄弟たちよ。あなた
がたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も
多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚か
な者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」。
パウロは続いてこうも語っています。「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたち
の知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとお
りである」。

 私たちは日々の信仰生活において、何を本当に「誇り」としているのでしょうか。自分の知恵や力や身
分であるか。そのようなものではなく、ただ十字架につけられ給いし主イエス・キリストのみが、私たち
の真の「誇り」(喜び)なのです。それ以外に私たちの存在の根拠はありえないのです。それは、主イエス・
キリストがまず、測り知れない十字架の贖いによって、私たちを選んで下さったからです。そして、何の
価もなきままに、私たちを“かけがえのない”ご自身の弟子として、御業の仕え人として、指名して下さ
ったからです。それ以外に理由はありません。主が私たちをお立て下さった。指名して下さった。その恵
み以外に、私たちが主の仕え人として生かされてゆく理由はないのです。

 そして、ただ十字架の主の恵みのみが、私たちの生命の根拠であるゆえに、その恵みの選びは私たちの
「義と聖とあがない」そのものであるのです。「義」とは、罪人にして滅びの子であった私たちが、キリス
トの義を装う者とならせて戴いたことです。「聖」とは、私たちが教会を通して、礼拝者として、いつも神
の神性すなわち復活の生命にあずかる者とされていることです。そして「あがない」とは、私たちの全て
の罪がキリストによって赦され、私たちが御国の民とされていることです。この地上の生活は、私たちが
神の「義と聖とあがない」とにあずからせて戴いている“かけがえのない”生活であり、この世界は、私
たちがあらゆる境遇と経験において、真の神の子へと成長さらて戴けるところの、神の御心の成就する世
界であるということ。それゆえに、私たちは何も恐れることはないのだということ。それを、今朝の御言
葉を通してはっきりと教えられているのです。使徒パウロがローマ書8章33節に語っていることを心に
留めましょう。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、
どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるの
か。神は彼らを義とされるのである」。祈りましょう。