説    教    詩篇99篇1〜3節  ルカ福音書2章1〜7節

「クリスマスの喜び」
2017・12・24(説教17521728)

 クリスマスは「大きな喜びの時」です。それは永遠なる神の御子・主イエス・キリストが、私たちと
全世界の救いのために人となり、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった日だからです。この日、私た
ちは全世界の人々と共に心から主のご降誕を喜び祝います。この喜びを現わすために、街の商店街にさ
えクリスマス・ツリーが飾られ、住宅街のそこしこに光きらめく飾りがあしらわれます。道ゆく人々の
心もまた、暫しこの季節ばかりは浮き立つごとくに見えるのです。クリスマスはまことに、私たちにと
って「大きな喜びの時」です。

 しかし私たちは、この喜びに輝くソプラノの響きの中にこそ、底知れぬ厳粛な通奏低音が、神の永遠
の御心から響く低き歌声が、同時に聴こえていることを忘れてはなりません。ゲーテの叙事詩ファウス
トの中で、グレートヒェンの罪を暴きたて「彼女は審かれた」と告げる悪魔メフィストフェーレスの企
みのただ中で、神の大きな通奏低音が厳かに響き渡りました。それは「彼女は救われた」という御声で
す。ゲーテがファウストを書いたのは、まさにこの通奏低音を(神からの救いの福音を)告げるためで
あったと言って良いのです。

 それならば、このクリスマスにおいて私たちが聴く音信は、それにも遥かにまさる喜びの「救いの福
音」ではないでしょうか。私たち人間の罪が、容赦なくこの世界の全てを審き、混乱と分裂へと導き、
虚無に陥れようとする現実の中で、このクリスマスの日にこそ、私たちは神からの厳かな通奏低音を、
救いの福音の喜びの調べを、新しく聴くのです。だからクリスマスの歌声は、高らかではあっても軽い
ものではありません。それは「神からの救いの福音」という通奏低音に唱和する調べだからです。まさ
に永遠に変わることのない、主イエス・キリストによる真の救いの喜びが、全世界の全ての人々に告げ
られているのです。それがクリスマス(キリスト礼拝)の喜びです。

 それでは、その私たちが聴くべき“神からの通奏低音”とは何でしょうか?。クリスマスの出来事は、
私たちから見るなら、神の独子イエス・キリストがお生まれになった喜びの祝いの日です。しかし、私
たちのまなざしを天に向けるなら、神の御心を顧みるなら、そこにはいかに重い「父子永訣」の厳粛な
悲しみが存在していることか。私たちが思い顧みたいのはその出来事です。「永訣」という日本語は今で
は殆ど用いられなくなりましたが「永遠の別れ」を意味する言葉です。今ここで別れたなら二度と再び
相見ることはできない、そのような最後の別れの時を「永訣」と呼ぶのです。父なる神が私たちの救い
のために、最愛の独子イエスを世にお遣わしになったクリスマスの出来事こそ、父なる神にとって御子
イエスとの「永訣」の出来事でした。父なる神は御子イエスをベツレヘムの馬小屋に、人として生まれ
しめたもうたのです。永遠の昔から御父と共にありたもうた御子イエスが、死すべき人とおなりになり、
十字架への道を歩まれたのです。永遠が時間の中に突入したのです。罪によって神の外に出てしまった
私たちを救うために、神みずから神の外に出て下さったのです。それがクリスマスの出来事なのです。

 どうか想像してみて下さい。親たる者にとって最大の悲しみは、最愛のわが子を、死出の旅に遣わさ
ねばならないことではないでしょうか。ヨーロッパの、特にドイツの教会では、昔から“クリッペ”と
申しまして、キリスト御降誕の様子をミニチュアで再現した飾りを教会の前に飾る習慣があります。そ
れは安らぎと美しさに満ちた平安な光景です。クリッペとは飼葉桶のことですが、飼葉桶の中に安らか
に眠りたもうキリスト、優しく見守るマリアとヨセフ、そして東方の三博士たち、牛や馬やロバや山羊
やニワトリなどが、その様子を一心に見つめている。そのような飾りを皆さんも、ご覧になったことが
あると思います。

 しかしその、平和で美しい馬小屋の聖家族の光景は、繰り返して申しますが、父なる神と御子イエス
との厳粛な「永訣」の出来事に裏付けられているのです。私たちの救いのために、この罪なる世界の救
いのために、主なる神はご自身の最愛の独子を死出の旅にお遣わしになったのです。それは神が神の外
に出て下さった出来事です。神が神でない者になって下さった出来事です。言い換えるなら、神ご自身
が私たちに与えられた出来事です。それがクリスマスなのです。

 スイスの神学者カール・バルトが、ある年のクリスマス説教の中で、このようなことを語っています。
「私たちはベツレヘムの馬小屋の飼葉桶の中に、神の御子イエス・キリストをお迎えした。しかしその
御子をお迎えした飼葉桶を作った木を切り出した同じ森から、あの十字架を作った木もまた伐り出され
たのではなかろうか」。エルサレム周辺にはほとんど森らしい森はなく、いちばん近い森はベツレへム近
郊にありました。ですから、主イエスの揺籠となった飼葉桶が作られたのと同じ森の木から、十字架も
また作られた可能性は非常に大きいのです。否、それ以上にここでバルトが明らかにしていることは、
御子の御降誕を喜び祝うその同じ私たちが、まさに御子を十字架にかける者となったのではないか、と
いうことです。クリッペを美しいと思うその同じ私たちの心が、美しからざる全てのものをも生み出し
ているのではないか。クリスマスを祝う私たちの歌声が、「十字架にかけよ」との絶叫ともなったのでは
なかったか。

 それならば、まさにそのような、手のつけようもない私たちの暗黒の現実のただ中にこそ、御父なる
神は最愛の独子をお与え下さったのです。私たちの罪が頑なであり、この世界を覆う暗黒が深い故にこ
そ、御父なる神はその相応しからざるこの世界のただ中に、場所のない所に、余地なきところに、最愛
の御子イエスをお与えになったのです。ヨハネ福音書3章16節に記されているとおりです。「神はその
ひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである」。

 今朝の先ほどのルカ福音書2章7節には「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と告げら
れていました。御子イエス・キリストは「余地なき所」にこそお生まれ下さった救い主なのです。この
世界の、そして私たちの、まさにあなたの、「余地なき」現実のただ中にこそ、インマヌエル(神われら
と共にいます)という喜びの通奏低音を響かせるために、このかたは、世界の最も暗く、貧しく、悲惨
なところに、お生まれ下さったのです。御父なる神は、最愛の御子イエスを、余地なき私たちの罪のた
だ中に与えたもうたのです。

 親鸞聖人は歎異抄の中で、この世界のことを「とても地獄は一定住処ぞかし」と言いました。それは
本当でしょう。地獄は「そこかしこにある対象化される現実」ではなく、実は私たちのただ中にこそ地
獄があるのです。それを聖書は「罪」と呼ぶのです。しかし、そこでこそ、私たちは神からの「救いの
福音」という通奏低音に唱和するのです。それがクリスマスを祝うことです。なぜなら御子イエス・キ
リストは「地獄は一定住処」でしかない「余地なき」私たちの現実の中にこそお生まれ下さった救い主
だからです。だからこそ、私たちの教会には十字架が高く掲げられているのです。クリスマスと十字架
は別の出来事ではなく、まさにクリスマスの喜びのソプラノの中に、十字架の通奏低音が響き渡ってい
るのです。

 だからこそ、クリスマスの喜びは、決して失われることのない、奪われることのない喜びであります。
それを天使ガブリエルは「インマヌエル」(神われらと共にいます)という言葉で言い表しました。キリ
ストは「インマヌエル」の喜びを私たち全ての者に与えて下さるために、余地なきところに、私たちの
罪のただ中にお生まれになり、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。そこではもはや「地
獄は一定住処」ではなく「神われらと共にいます」喜びが私たちの「一定住処」とされているのです。

 だから私たちは共々に「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶をかわします。それは「インマヌエル
の恵みがあなたと共に」という祝福です。神なき私たちの救いのために、キリストみずから神なき者と
なって下さった。神の外に出てしまった私たちの救いのために、キリストみずから神の外に出て下さっ
た。余地なき私たちの救いのために、キリストみずから「余地なきところ」にお生まれ下さった。それ
がクリスマスの喜びです。クリスマスおめでとうございます。まことに主は、あなたの救いのためにお
生まれ下さいました。あなたの「余地なき」現実のただ中に、いま「救い主」(キリスト)が来て下さっ
たのです!。