説    教    詩篇34篇18〜20節  ヨハネ福音書19章31〜37節

「十字架の主」

2017・07・30(説教17311707)  主イエスが十字架の上で息をひきとられたのは、安息日の「準備の日」すなわち金 曜日の午後3時頃のことでした。古代イスラエルの、ユダヤ人の習慣では(現代のイ スラエルでも同じですが)安息日は金曜日の日没に始まります。特に主イエスが十字 架にかかられた日は、年に一度の過越の祭の「準備の日」つまり、イスラエルの民全 体の罪の赦しのために、大祭司がエルサレム神殿の至聖所で犠牲を献げる大贖罪日の 前日にあたっていました。  そこで、この大贖罪日は、イスラエルで最も神聖な日とされていましたから、十字 架で処刑された犯罪人の死体は、前日の「準備の日」つまり金曜日の日没までに取り 下ろして処理する必要がありました。旧約聖書の申命記21章23節に「木(すなわち 十字架)にかけられた者は神に呪われた者である」という規定があったからです。神 に呪われた者の死体を、安息日にも放置しておくことは許されなかったのです。それ ゆえ、主イエスの死体を日没までの間に一刻も早く、十字架から降ろして葬る必要が あったのです。  実はそうした事柄が、さきほどお読みしたヨハネ伝19章31節に反映されているわ けです。そこにはこう記されています。「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であ ったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な 日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした」。  十字架にかけられた犯罪人が死に至るまでには、一日か、長い場合には数日かかり ました。そこで、安息日が差し迫っているような場合には、まだ息のある犯罪人の足 の骨を折って、いわば「とどめを刺す」場合がしばしばあったようです。たいへん残 酷なことですが、それが当時の処刑方法でした。ところが今朝の32節と33節を見て わかりますように、兵卒たちは主イエスと共に十字架につけられた2人の犯罪人たち に対しては、ピラトに願い出てそのような処置をしたのですが、主イエスについては、 既に息をひきとっておられたのを見て、足を折る必要はないと判断し、そのまま十字 架から降ろすことにしたのです。すなわち33節に「しかし、彼らがイエスのところ にきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった」 とあるとおりです。  その代わり、兵卒たちは別の方法で主イエスの死を確認することにしました。それ は長い槍でもって、主イエスのわき腹を突き刺したことです。34節に「しかし、ひと りの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た」とあることです。 そして35節以下を見ますと「それを見た者があかしをした」とあるように、弟子の 一人(おそらくヨハネ自身)がその様子をつぶさに見ていたのです。そして36節に は「これらのことが起ったのは、『その骨はくだかれないであろう』との聖書の言葉が、 成就するためである」と記され、その一連の出来事が旧約聖書の詩篇34篇18〜20節 の御言葉の成就であったことが、私たちに示されているのであります。  さて、以上の御言葉から、私たちはどのような福音を聴き取るのでしょうか。まず、 第一に私たちは、兵卒たちが主イエスの足を「折らなかった」とある事実に改めて着 目したいのです。それはどういうことかと申しますと、それは主イエス・キリストが なによりもご自分を“過越の祭”の永遠のいけにえ(まことの犠牲)として、私たち 全ての者のためにお献げになった事実を示しているのです。  先ほども申しましたが「過越の祭」においては、全ての人々の罪の贖いのために、 大祭司が小羊を犠牲として献げました。そしてその小羊は、決して足を折って殺して はならない決まりになっていました。それは民数記9章12節に「その骨は一本たり とも折られてはならない」とある律法の規定によります。それと同じように、私たち 全ての者の唯一かつ完全な「罪の贖い」として献げられる主イエスの十字架の死にお いても、主イエスの御足は折られることはなかったのです。言い換えるなら、主イエ スはご自分を私たちの罪の贖いのための完全無欠な犠牲としてお献げになった。しか もそれは旧約の御言葉の成就であった。それは全く父なる神の御業であったというこ とです。ヨハネ伝3章16節に「神はその独り子をお与えになったほど、この世を愛 して下さった」とある、その救いの出来事が、主イエスの十字架において成就したの です。植村正久牧師の言葉で言うなら、神はまことに「痛ましき手続き」をもって、 全人類の罪の贖いを成し遂げられたのです。  神が全人類の罪の贖いのために、ご自身の最愛の独子を世にお与えになったという 事実、私たちはこの事実のうちに、真の神の私たちに対する極みまでの愛を知らしめ られるのです。十字架は本来、最も恐ろしい呪いの道具でした。十字架に架けられて 死ぬことは、神から全く遺棄されることを意味しました。主イエスの時代「おまえな ど十字架にかかってしまえ」という呪いの言葉は冗談にさえならない忌まわしい言葉 でした。それならば、その忌まわしき呪いの全てを、私たちの罪のために、主イエス は一身に担って下さったのです。ご自分が呪いの十字架に架けられることによって、 私たちの罪を赦し、私たちを存在の深みから贖い取って下さったのです。  三浦綾子さんの著書に「生きること思うこと」という題の随筆集があります。私た ちのこの礼拝堂のステンドグラスが表紙になっている本です。その中にこういう文章 があります。あるとき三浦さんは、見知らぬ一人の婦人から手紙を戴いた。それは、 ヤクザの世界に入っている自分の息子が、パウロのように回心できるように、どうか 祈って下さいという手紙でした。受け取った三浦さんは正直言って戸惑ってしまわれ た。それは、自分がその青年のために祈っても、もしその息子がヤクザから足を洗え なかったら、このご婦人に対して申し訳ない結果になるのではないかという戸惑いで した。しかし、その手紙を通して三浦さんは、自分が本当にキリスト者として祈りの 生活を重んじてきたか否かを改めて問われる思いがしたのです。有体に申すなら、自 分が祈ることによって、暴力団に入っている青年が回心するとは信じていない自分の 不信仰を示されたのでした。もしかしたら、私たちは神様を、人間よりも少し優れた かたぐらいにしか思っていないのではないか。そう思い直して、ともかくも三浦さん はその青年の救いのために真剣に祈った。毎日祈り続けたのです。するとやがて驚く べきことが起ったのでした。  それはある日、その青年自身から手紙が届いたのです。それによると、彼は病気で 入院したことがきっかけとなって聖書を読むようになり、自分がどんなに間違った道 を歩んできたか、そして、こんなに罪深い自分をさえ、神はどんなに愛して招いてい て下さったか、十字架の主の愛を示され、悔改めに導かれたのでした。そして、今は ヤクザの世界から綺麗に足を洗い、教会の礼拝に毎週熱心に通っているというのです。 そして三浦さんに対して、自分のような人間の救いのために祈って下さり、本当にあ りがとうございますと、礼状を書いてきたのでした。「これからの僕を見ていて下さい。 最後まで忠実な主の僕、真のキリスト者になれるように頑張ります」と書かれてあっ た。そして「下手な字ですみません。ありがとうございました。ありがとうございま した。本当にありがとうございました」と、手紙は結ばれていたそうです。  神にとって、主イエス・キリストにとって、どうでもよい人間は一人もいません。 もし私たちがどうでもよい存在なら、どうして主イエスは私たちのために、呪いの十 字架におかかり下さったでしょうか。私たちは十字架の主の恵みの事実から、自分の 存在も、また他者の存在をも、またこの世界の意味と目的をも、はじめて正しく新し く知らしめられるのです。私たちは“この私のために十字架に架かって下さった神の 子”なるイエス・キリストを通して、はじめて自分をも他者をも、正しく見つめ、関 わる者とされてゆくのです。主は私たちの罪のために、私たちを救うために、十字架 において、完全な贖いを成し遂げて下さったのです。  第二の事柄も大切です。私たちは、兵卒が主イエスの脇腹を槍で刺したとき、そこ から「血と水とが流れ出た」という事実を読みました。それは単に、主イエスの心臓 が停止していたという死の事実を告げる以上に、霊的な真理を象徴しているものなの です。何よりも私たちは、この「血と水が流れ出た」という事実から、そこに聖餐と 洗礼という「2つの聖礼典」を思い起こさしめられるのです。すなわち「血」は聖餐 のぶどう酒であり、「水」は洗礼の水であります。しかし、それだけでさえないのです。 何よりも私たちは、この「血」こそ、私たちの罪の贖いのための御子イエスの御血で あり、またこの「水」こそ、私たちを魂の深みから潤す「永遠の生命の水」であると 理解できるのではないでしょうか。  大切なことは、それは共に、主イエスの御身体から「流れ出た」ものだということ です。その主イエスの御身体とは何でしょうか?。それはまさしく、私たちのこの教 会であります。私たちは教会生活を大切にすることによって、礼拝者として忠実に生 きることによって、主日ごとに新しく、主の十字架の贖いの御血の恵みに生かしめら れ、また、私たちを永遠に潤してやまない「永遠の生命の水」を、御言葉と御霊によ って豊かに戴きつつ、主の恵みのもとを歩む者とされているのです。  この「血と水が流れ出た」事実こそ、主イエスの十字架のゆえに、私たち全ての者 に与えられている神の限りない赦しと、永遠の生命の確かさをあらわすものです。私 たちはただ十字架の主に贖いによってのみ、まことの神のもとに立ち帰り、神の子と され、神の民として新しい歩みを始めてゆくのです。その幸いと喜びを知る者として、 感謝と勇気と讃美をもって、新しい一週間の信仰の旅路へと遣わされて参りましょう。 いつも御言葉に親しみ、祈りをなし、聖日厳守の生活に励んで参りたいと思います。 まことに「十字架の主」こそ、私たちの罪の唯一永遠の贖い主にいましたもうのです。 祈りましょう。