説    教    詩篇17篇15節  ヨハネ伝福音書11章5〜16節

「汝ら目覚めよ」

2017・03・19(説教17121688)  ラザロは重い病気に冒され、死に直面した苦しみの中にありました。それゆえマルタとマリ ヤは、急いで愛する兄弟ラザロの癒しのために、主イエスをお迎えしようとしたのです。彼女 たちは当然、主イエスがすぐに来て下さるものと期待していました。「主よ、ただ今、あなたが 愛しておられる者が病気をしています」。マルタとマリヤが人づてに主イエスに伝えたこのメッ セージは「主よ、どうか一刻も早く来て、ラザロを癒して下さい」という切なる願いでした。 ところが、全く意外なことが起こるのです。それは、すぐに駆けつけて下さるものと期待して いた主イエスが「ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在 された」というのです。今朝の6節です。これはマルタとマリヤにとって信じられない出来事 でした。  「ふつか」という日数は、重い病と戦っている病人と、それを看取る家族の者たちにとって は、気が遠くなるような長い時間でした。そして「主イエスが来て下さらない」焦りと不安の 中で、恐れていた最悪の事態が起こるのです。それは、主イエスが到着されるよりも先に、つ いにラザロが死んでしまったことでした。ですから、マルタとマリヤの嘆きは非常に大きかっ たのです。同じ11章の21節を見ますと、マルタは主イエスに「主よ、もしあなたがここにい て下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と申しています。これは遅れてやっ て来た主イエスに対する公然たる非難であり、やり場のない悲しみの現れでした。  主イエスが必ず癒して下さると信じたればこそ、他の誰でもなくただ主イエスの到来を待ち わびたのです。それなのに、その信頼が無残にも踏みにじられた思いがしたのです。信頼する 者に裏切られることほど大きな衝撃はありません。愛するラザロの亡骸を前に、マルタとマリ ヤは悲しみの涙に暮れたことでした。「時すでに遅し」との慙愧と無念の思いで心は張り裂けそ うでした。愛するラザロが死んだいま、もはや全ては虚しいのです。できることは墓への葬り だけです。冷酷な死の事実の前に人間は全く無力です。その事実がマルタとマリヤを圧倒する のです。言うなれば彼女たちは、ラザロの死の事実の前に「つまずいた」のです。  さて、主イエスの十二弟子たちはどうだったでしょうか?。弟子たちは主イエスがすぐにラ ザロのいるベタニヤ村に行きたまわなかった理由を、ユダヤ人たちによる迫害を避けるためだ と理解しました。事実パリサイ人や律法学者らは虎視眈々と主イエスを付け狙っており、もは やベタニヤ村も安全な場所ではなくなっていたのです。ですから「もう一度ユダヤに(つまりベ タニヤ村に)行こう」と言われた主イエスの御声に弟子たちは正直とても驚いたことでした。8 節を見ますと「『先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、ま たそこに行かれるのですか』」と主イエスに問うています。この弟子たちに主イエスはお答えに なりました。9節です。「イエスは答えられた、『一日には十二時間あるではないか。昼間ある けば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つ まずく。その人のうちに、光がないからである』」。  この御言葉の意味は何でしょうか?。古代イスラエルの人々は一日を12等分して、半分の6 時間を昼、あとの6時間を夜としていました。つまり主イエスは弟子たちに(私たち全ての者に) お尋ねになるのです。あなたがたはいま「どちらの時を歩んでいるのか」と。あなたは「昼歩 く者」なのか、それとも「夜歩く者」なのか。もし夜歩くなら、その人は「つまずく」ほかは ない。なぜなら「その人のうちに、光がないからである」。しかし「昼間あるけば、人はつまず くことはない。この世の光を見ているからである」。何やら禅問答のようですが、ここに私たち を救う福音の真理が示されています。まず「この世の光」とは太陽の光、自然の光のことです。 自然の光によってさえ私たちの日常の歩みが守られ照らされるなら、ましてや「すべての人を 照すまことの光」である神の言葉はなおさら、あなたがたの心と身体・魂と生活の全体を照ら し、救いに導くであろうと主イエスは言われるのです。  ここで「昼」と「夜」とは、私たち人間の「生命」と「死」をあらわしています。ですから 主イエスが「(人がもし夜あるいても)その人のうちに光がない」ために、その歩みは必ず「つま ずく」ほかはないと言われたのは「自然の光」の有無ではなく、御言葉を聴いて信ずる「信仰」 の有無を問うておられるのです。そもそもここで「つまずき」と訳された言葉はギリシヤ語で “スカンドローン”で、英語で「悪評」や「醜聞」を意味する“スキャンダル”の語源になっ た言葉です。本来の意味は、他人の足元にわざと滑りやすい石を置くことです。悪意をもって 他人を陥れんとする行為です。主イエスはこの「つまずき」という言葉によって、私たち人間 にとって「死」は単なる自然現象ではなく「罪の結果」であることを明確にお示しになったの です。罪が悪意ある「つまずき」(スカンドローン)をもって私たちの存在を滅びに引きこもう とすることが死の本質です。そして死の本質が「罪」でありますならば、罪からの救いこそが 「真の生命」(永遠の生命)にいたる唯一の道なのです。それを主イエスは明確に示しておられる のです。  第一コリント書15章55節以下では、この「死のとげ」である罪の支配に対する唯一まこと の救いが次のように宣べ伝えられています。「『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの 勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪 の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによっ て、わたしたちに勝利を賜わったのである」。ここで大切なのは「神はわたしたちの主イエス・ キリストによって、わたしたちに勝利を賜わった」と告げられていることです。主イエスは真 の生命(永遠の生命)を与えたもう唯一のキリスト(救い主)として世に来られ、私たち全ての者の 救いのために十字架への道を歩んで下さいました。十字架の死によって、罪と死に対して永遠 に勝利され「わたしたちに勝利を賜わった」のです。ここに、いま私たちに与えられている救 いの揺るぎない確かさがあるのです。  この福音の告知の確かさの中でこそ、私たちはマルタとマリヤと共に問われています。「あな たは昼あるく者になっているか?」と。主イエスをキリスト(わが救い主)として信ずる信仰告白 に堅く立っているか否かが問われているのです。今朝の御言葉に告げられた福音の告知は2つ です。?主イエスは私たちの救いのために来られた救い主キリストであられる。?キリストは 私たちに罪と死に対する永遠の勝利を賜わった主である。この2つの大切な事実に、私たち全 ての者の救いと平安があります。死に打ち勝つ永遠の生命があります。私たちは夜歩いて「つ まずく」者たちではなく、主が与えて下さった永遠の生命という「昼」を歩いて勝利する民と されているのです。それこそ、今朝の御言葉に告げられた福音の告知です。  今朝の11節に、主イエスは「あからさまに」弟子たちに言われました。「わたしたちの友ラ ザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。しかし弟子たちにはなお理解できません。「主 よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と言うのです。ここに告げられている福音は、 私たちの浅はかな理解を遥かに超えた神の恵みの真実です。ここに、主に結ばれた者の死を「眠 り」と呼びたもうかたが立っておられる。私たちの誰もが一人の例外もなく「つまずく」ほか はない罪と死の支配に対して「わたしたちのため」に勝利を賜わったかたが立っておられるの です。まさにキリスト(救い主)が私たちに生命の御言葉を語っておられるのです。この事実に まさる幸いがどこにあるでしょうか。  「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。弟子たちのこの奇妙な答えには、実はあ らゆる人間の確信が表明されています。それは「眠っているのではなく、死んだのなら、決し て助からない」という確信です。それならばまさにこの逆説に対して、この世界でただ一人「否」 を告げたもうかたが、ここに、私たちと共におられるのです。死したる者も「目覚める時」を 迎えるのだと告げたもうのです。バッハの有名なコラール「目覚めよと呼ぶ声」を思い起こし ます。罪に支配された全人類に対して、いま「目覚めよ」と呼びたもうかたがここにおられる のです。その主の御声が響きわたっているのです。そこに驚くべき主の御業が起こります。死 んでいた者が甦り、罪に支配されていた者が贖われ、神から離れていた者が立ち帰り、眠って いた者が目覚めるという、救いの出来事です。それが主の御身体なる教会において、世界のあ らゆる場所において、あらゆる人間の現実のただ中で、いま起こるのです。死は生命に呑みこ まれてしまったのです。  今から17年前に天に召された岩田光子姉妹のことを思い起こします。三橋敏代さんと70年 間一緒に生きられたかたです。茶道の師範でもありました。岩田さんは湘南鎌倉病院(当時はモ ノレール湘南町屋駅前にありました)において、病床でキリストを信じ告白して洗礼を受け、そ の翌日天に召されました。私が驚いたのは、姉妹が亡くなったとき、病院の医師や看護婦さん たちが10人ぐらい「臨終の祈り」に出席されたのです。それは私も初めての経験でした。みな さん、岩田さんの臨終のさまに「主に結ばれた者の、死に打ち勝つ生命の確かさ」を感じたの です。医師や看護婦さんたちと共に讃美歌を歌い、祈りを献げたのです。  私たちもまた、いま、いつも「昼あるく者」とされています。死に打ち勝つ永遠の生命に結 ばれて、主の御身体なる教会に連なる僕とされています。「全ての人を照すまことの光」なる主 イエス・キリストを健やかに仰ぎ続ける弟子たちとされています。その私たちに、主は呼びか けて下さるのです。「汝ら目覚めよ」と。その御声を戴くことこそ、私たちの全てにまさる幸い であり平安です。キリストに贖われた者として、いつも恵みに堅く立ちつつ、主を仰ぎ続ける 私たちでありたいと思います。私たちはここにおいて、また、ここから新たに始まる日々の生 活において、罪と死に、私たち全ての者のために打ち勝って下さった、主イエス・キリストの 真実に、堅く結ばれた者として生き始めるのです。そこに、私たちの変らぬ喜びと幸い、平安 と希望があるのです。「目覚めよ」と呼びたもう主の御声が、いつも、私たちの人生のただ中に 響きわたっているのです。祈りましょう。