説     教    ルツ記1章1〜5節  ルカ福音書7章44〜50節

「ルツとナオミ」

2016・07・03(説教16271650)  今朝、私たちに与えられた旧約聖書ルツ記の御言葉。私たちはルツ記をひとつの文学的叙事詩として、 嫁と姑との麗しい理想的な美徳物語としても読むことができます。ナオミもルツも、幾多の苦労の末に 幸福を手に入れた、感動的なテレビドラマの筋書きのような物語と言えなくはありません。実際にルツ 記はそのように読まれることが多いのです。しかし、それではルツ記の本当のメッセージ(ルツ記の福 音)は私たちに伝わってきません。ルツ記は感動実録物語ではなく、主イエス・キリストの福音(イエス は主なり、という信仰告白)を私たちに伝える神の言葉です。ナオミとルツの生涯は、まことの神の福音 に仕え、それをさし示すものとして、私たちに告げられているのです。私たちは道徳の規範からではな く、信仰の規範からのみ、この物語の本当のメッセージを読み解くことができるのです。  ルツ記には「ナオミ」と「ルツ」という2人の女性が登場して参ります。時代で申しますなら紀元前 12世紀から11世紀にかけて、今からおよそ3100年も前のたいへん古い時代の出来事です。この時代 について1章1節は「さばきづかさが世を治めているころ」と記しています。この「さばきづかさ」と は士師記に現れている「士師」のことです。やがてダビデ王が現れ、中央集権国家としてイスラエル王 国が建国されますが、それより百年以上前の時代です。そこで、この時代はイスラエルにとって、政治 的にも経済的にも非常に不安定な時代でした。古代イスラエルの歴史が「士師」による神権統治から王 による世俗統治(=国家体制)に転換してゆく大きな曲がり角の時代です。それまでの価値観が一変して、 人々の心が非常な不安の中にあった時代です。士師記21章25節によると「そのころ、イスラエルには 王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」と記されています。社会が 未成熟で不安定であったということは、人々が自分の価値観を模索していた、いわば「群雄割拠の時代」 であったということです。そうした時代の中で、夫エリメレクに先立たれたナオミという女性が、どん なに苦労して2人の息子(マロンとキリオン)を育てていったか、その苦労は察するに余りあるものが あったでしょう。  しかも場所は「モアブ」という、ナオミにとっては異邦の地です。言葉さえうまく通じない、文化も 習慣も思想も宗教も、何もかもが違う土地です。その土地でナオミは2人の息子のために嫁を娶らせま す。しかしこの2人の息子(マロンとキリオン)は病気であったか戦争のゆえであったか、相次いで世を 去り、ナオミは夫にも2人の息子にも先立たれ、しかも孫もおりませんでしたので、異邦の地モアブに おいて、2人の嫁と共に文字どおり天涯孤独の身になってしまうのです。ナオミは夫の故郷であるイス ラエルのベツレヘムに帰ることにしますが、ナオミにとって気掛かりであったのは、自分の悲しみより も、後に残された2人の嫁(オルパとルツ)の身の振りかたでした。ナオミは堅く信仰に立ち(神への 信頼に生き)自分の生活を顧みるより先に、まず2人の嫁にとって最善の道は何であるかを考え、2人 に自由にさせてあげるのです。その結果、オルパは姑ナオミのもとを離れて実家に戻る決意をするので す。しかし、残るもう一人の嫁「ルツ」のほうはどうかと申しますと、ナオミが再三勧めたにもかかわ らず、ナオミのもとを一歩も離れようとしませんでした。  1章15節以下を見てみましょう。「そこでナオミは言った、『ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民 と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい』。しかしルツは言っ た『あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれ る所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神 です。あなたの死なれるところにわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、 わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください』」。このルツの堅い 決意を聴いて、ナオミはようやく、彼女と一緒に故郷ベツレヘムに帰る決意をするのです。それが主な る神の御心であることを信ずるのです。ここで気を付けて戴きたいのは、ルツが既に真の神を「主」と 呼んでいることです。ルツはナオミが信ずる真の神を信ずる者になっていたのです。  さて、ルツを連れてベツレヘムに帰ってきたナオミの姿を見たベツレヘムの人々の反応が1章19節 に記されています。すなわち「町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、『これはナオミで すか』」と語ったと記されています。そこで、この19節の「騒ぎたち」という言葉を、かつては幸福で あったナオミが、貧しくやつれ果てた寡婦の姿になったのを見て、ベツレヘムの人々が驚いたのだと解 釈されますが、そうではないのです。元々のヘブライ語を直訳しますと、むしろベツレヘムの人々は、 自分たちの町に帰ってきたナオミを見て喜びに「湧き立った」のです。その理由は、ナオミが異邦の地 モアブにおいて艱難辛苦を舐めたにもかかわらず、否、それゆえにこそ、なお堅く信仰に立ち続けてい る、そして嫁のルツまでもがナオミの信仰を受け継いでいる、その姿を故郷の人々は見たからです。つ まり想像を絶する苦難をも神と共に歩み続けた、そのナオミの信仰の故にこそ、ベツレヘムの人々は喜 びに「騒ぎたった」(湧き立った)のです。  これは、どういうことかと申しますと、実はこの19節はルツ記において非常に大切な御言葉なので すが、ベツレヘムの人々はナオミとルツのゆえに、主の御名を崇めて喜びと感謝に騒ぎたった(奮い立 った)のです。「故郷に錦を飾る」という言葉がありますが、それとは全く正反対の人生を歩んできた2 人の女性です。ナオミは夫と2人の息子に先立たれ、ルツは天涯孤独な嫁として姑ナオミの故郷ベツレ ヘムに身を寄せようとしている…。いわば彼女たちは人生の敗残者であり、最も不幸な女性たちでした。 その彼女たちを迎えて、ベツレヘムの人々は2人の信仰のゆえに、主なる神の御名を讃美し、彼女たち の上に注がれた豊かな恵みを讃え「騒ぎ立った」のです。ここにこそ聖書が告げている人間の本当の祝 福と幸いがあります。  もっとも、最初はナオミ(英語ではノオミ)もその讃美の歌声に素直に声を合わせたわけではありま せん。むしろベツレヘムの人々に対して1章20節以下にナオミはこう語っています。「ナオミは彼らに 言った、『わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者が わたしをひどく苦しめられたからです』」。ナオミとはヘブライ語で「甘い」という意味です。しかし彼 女は自分の人生は「甘い」ものではなく、むしろ「苦い」ものであった。だから、どうか自分のことを 「ナオミ」(甘い)ではなく「マラ」(苦い)と呼んで欲しいと願うのです。ただし、ここでもナオミとルツ を支えているのは、真の神を信ずる信仰の、礼拝者の一貫した姿勢です。ナオミの信仰は、表面だけの ものではなかった。豊かで満ち足りている時にだけ主を崇め、取り去られたときには主から離れてしま う、そのような信仰ではなかったのです。彼女はあるがままに、悲しみの日にも、悩みのときにも、喜 びにも、楽しみにも、変わることなく主を崇め、自分の人生が主に贖われた人生であること、主の器と された生涯であることを、心から感謝し、いかなる時にも神の御名を讃える女性であったのです。  だからこそ、ではないでしょうか。私たちのめをルツに転じる時、ルツは異邦モアブの女性であった にもかかわらず、ナオミに対して「あなたの神はわたしの神です」と告白するに至っています。信仰の 絆によって2人の女性は堅く結ばれ、信頼しあっていたのです。ルツは言葉も通じない異邦の世界に孤 独に生きる身の上になりました。夫に先立たれたモアブの女性が、姑の故郷であるベツレヘムに身を寄 せるようになったのです。ルツはいわば世界で最も弱い存在です。世間的に見るなら一顧だにされえな い小さな存在であるにすぎないのです。しかしそのルツのために、ナオミとベツレヘムの人々の祈りが 献げられ続けました。これは「聖なる公同の使徒的教会の交わり」です。ルツがその交わりの内に新し い祝福の人生を歩み始めるために、ルツのために献げられたナオミの祈りの年月を数えましたなら、単 純にこのルツ記から計算いたしまして、少なく見積もっても11年です。既に11年のナオミの祈りルツ のために注がれ続けていたのです。それはナオミの生きる限り、否、ナオミの死を超えてまでも、注が れ続けた祈りでした。  人の目には貧しく、小さく、寄る辺なきかに見えたルツの生活は、ナオミの祈りの中でこそ、教会の 交わりの中でこそ、限りなく豊かな祝福の人生へと変えられてゆくのです。やがて、このルツ記の第3 章に至りまして、ルツはナオミの親戚であるボアズと再婚することになります。そしてボアズとルツの 間にひとりの男の子が与えられるのです。彼らはその男の子を「オベデ」と名づけました。この名はヘ ブライ語の“オーベード”(神を礼拝する)から来ています。つまり「礼拝者」という意味の名前です。 では、その礼拝とは何であるかと申しますと、それは私たちの罪の贖い主として、神がその独子イエス・ キリストをさえ世に下さった、その測り知れない恵みが、慈しみの御手が、私たちの全生涯を支えてい るという恵みの事実に基づくものです。その恵みの事実に対する、私たちの限りない感謝の応答が礼拝 なのです。  ドイツ語では礼拝のことを“ゴッテスディーンスト”(Gottesdienst)と言います。これは非常に含蓄の ある言葉でして、2つの意味を持つのです。第一には、神に対する私たちの奉仕。第二には、私たちに 対する神の御業。この第二の意味が大切なのです。私たちに対する神の御業とは、その独り子イエス・ キリストをさえ賜わったほどに、このあるがままの世界を愛し、その罪の全てを贖うために、主が十字 架にかかって下さったことです。だからこそ、このルツ記のいちばん最後の4章14節を見ますと、そ こにはこう記されているのです。「そのとき、女たちはナオミに言った、『主はほむべきかな、主はあな たを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラ エルのうちに高く揚げられますように』」。  マタイによる福音書の冒頭の、主イエス・キリストの系図の中に、このオベデの名が見えます。マタ イ伝1章5節です。「ボアズはルツによるオベデの父」とあることです。そして、この系図はわれらの 救い主、全世界の罪の贖い主、イエス・キリストへと続いてゆくのです。私たちはこの系図の中にルツ の名が刻まれていることを心にとめたいと思います。古代の系図というのは男性の名前だけで記される のです。その中に聖書は、例外中の例外として、ルツという一人の女性の名を刻んでいます。それはル ツの全生涯が、その姑ナオミの、またベツレヘムの人々の、つまり「聖なる公同の使徒的教会の交わり」 の中で、主の民とされた者たちの絶えざる祈りと信仰の中で、キリストの恵みのみをさし示し、その全 生涯をもって、主のための道備えをする女性とされた、その喜びと幸いをルツ記は証しているのです。 彼女の全生涯は、そのあるがままに、ただ信仰によって、主の限りない愛を証しする器とされたのです。 私たちもまた、その祝福の歩みに連なる僕とされているのです。