説     教    列王記上8章37〜40節   マタイ福音書6章9節

「御名を崇めさせたまえ」

 主の祈り講解(6) 2014・11・30(説教14451565)  「主の祈り」は「天にましますわれらの父よ」という神への呼びかけに始まり、そのあとに続く6つ の「祈り」から成り立っています。今朝はその第一番目の祈り「御名を崇めさせたまえ」を心にとめ、 福音の御言葉を聴いて参りましょう。まず最初に大切な言葉の問題があります。それは、今日私たちが 祈っている「主の祈り」では「御名を崇めさせたまえ」となっていますが、元々のマタイ伝6章9節を 文語で読むと「願わくは御名の崇められん事を」となっています。口語訳では「御名があがめられます ように」と訳されます。私たちは「御名をあがめさせたまえ」と申しますと、それは「私たちに神の御 名を崇めさせて下さい」という意味だと解釈することが多いのではないでしょうか。しかし、ここでの 主語は主なる神であって、私たちではありません。  そもそも「崇める」と訳された原文のギリシヤ語(あるいはアラム語)は「神みずから聖なるものを 聖となしたもう」という意味です。つまり「神ご自身がご自身の御名をして聖なるものとして下さる」 というのが「御名を崇めさせたまえ」の意味なのです。私たちが主語ではないのです。そもそも、神の 御名を「聖なるもの」とするのは私たちの知恵やわざや努力によるのでしょうか? もしそうだとしたら、 それこそウザが「神の契約の箱」を手で支えようとしたのと同じ傲慢の罪(神聖冒涜の罪)をまぬがれ ないでしょう。私たちが崇める崇めないにかかわらず、神の御名こそは永遠に「聖なるもの」であるこ とに変わりはないのです。  もともと聖書において「崇める」(聖となす)という言葉の意味は「神が選び聖別して下さる」という ことです。たとえばイスラエルが「神の聖なる民」と呼ばれる時、それは神がイスラエルを世界に対す る祝福の嚆矢(契約の徴)として選び聖別して下さったことを意味します。十戒の中にも「安息日を覚 えてこれを聖とせよ」とあるのは、神が安息日を選び聖別して下さったからです。つまり何かが「聖な るもの」とされるのは、神がそれをご自身のものとして選び聖別したもうたゆえであって、私たちの知 恵やわざや努力によることではないのです。「御名を崇めさせたまえ」もそれと同じです。私たちの知恵 や力が御名を「聖」とするのではない。御名を聖となしたもうのは神ご自身です。神が「聖」となした 「御名」を私たちはそのままに「聖なるもの」として「崇める」のです。それが「御名を崇めさせたま え」という「祈り」です。その意味で、この祈りは神の救いの御業を願い求める「祈り」です。  神がご自身の御名を「聖なるもの」とする、それを力強く語っている旧約の言葉に詩篇138篇があり ます。特にその2節を見てみましょう。「わたしはあなたの聖なる宮にむかって伏し拝み、あなたのい つくしみと、まこととのゆえに、み名に感謝します。あなたはそのみ名と、み言葉を、すべてのものに まさって高くされたからです」。なによりもまず主なる神みずから、ご自身の御名を「すべてのものにま さって高くされた」(聖なるものとされた)のです。それゆえにこそ私たちは神の御名を「崇め」て、真 の礼拝を献げることができるのです。ここには私たちの知恵や思いを遥かに超えた神ご自身の救いの御 業の確かさがあります。私たちが神を支えるのではない。神が私たちを堅く支え、贖い、救って下さる のです。だからこそ私たちは「御名を崇めさせたまえ」と祈る者とされているのです。  これとの関連で、同じ旧約のエゼキエル書36章22節以下に、驚くべきことが記されています。それ は神の民とされたイスラエルが偶像に仕えて罪をおかしたとき、主なる神は彼らをその罪から救うため に、ご自身の「御名」を「聖なるもの」とされたという事実です。36章22節以下です。「それゆえ、あ なたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしがすることはあな たがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖 なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国 民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。…わたしは清い水をあなたがたに注いで、 全ての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに 与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、石の心を除いて、肉の心を与える」。  私たちは「神に従う」と言いつつも、なおどこかで自分の知恵や力を頼みとしていることはないでし ょうか。教会との関わりも自分中心のものに陥ってしまう危険があるのです。いつも自分を主にして「自 分に満足を与えてくれるか否か」が教会生活の判定基準になる危険です。「御名を崇めさせたまえ」とい う祈りに本当に生きるとき、私たちはそのような傲慢な自己中心の思いから自由にされます。なぜなら、 私たちの知恵やわざや努力とは無関係に、まず神ご自身がご自身の御名を「聖なるもの」となしたまい、 まさにそのことによって一方的に私たちを救いたもうた事実が示されているからです。罪にまみれたイ スラエルの民さえも、神は「わが大いなる名の聖なることを示す」ことによって救いたもうのです。「清 い水」(洗礼の恵み)を彼らに注ぎ、「新しい心」を彼らに与え、「新しい霊」によって「石の心(罪)を 除いて、肉の心(神に立ち帰る喜びと平安)を」与えて下さったのです。まさに神がご自身の御名を「聖 なるもの」とされることが、私たちの、そして歴史全体の「救い」そのものなのです。  私たち人間は弱さの中でよりも、むしろ強さの中で、正義の名においてこそ「罪」をおかします。自 分を絶対に正しいとする人は、強いように見えますが、実は悪魔の策略に陥りやすいのです。傲慢が私 たちの心の中に忍び込むとき、神の御名を騙って戦争さえも引き起こすのが人間なのです。自己絶対化 (自己神格化)の罪がそこに現われます。神の御名ではなく自分の名を崇め、自分を神とする罪が私た ちを支配します。まさに先ほどのエゼキエル書36章が語るように、私たちこそ神の御名を汚している 者なのです。自己絶対化の罪は隣人をも自分をも傷つけ殺すのです。「御名」とは神ご自身です。ですか ら「御名をけがす」とは使徒パウロの言う「神に敵対して歩む」ことです。まさにそこでこそ、私たち に告知されているのは大いなる「救い」の恵みです。御名を汚す者でしかない私たちのために、神がそ の独子キリストを世に賜わったことです。この主イエスのご降誕と十字架によって、私たちはいま神の 御声を(御名の栄光を)聴く者とされているのです。「汝はわがものなり」「汝はわが民なり」と!。神 がご自身の御名を「聖なるもの」として下さるとはそういうことです。罪の塊のような私たちを御子キ リストの十字架によって贖い、赦し、新たな生命を与え、立ち直らせることによって、神の御名の栄光 が世に現されたのです。  そのことを最もよく示すのがヨハネ伝12章27節以下の主イエスの「祈り」です。「『今わたしは心が 騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこ のために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように』。すると天から声があった、『わ たしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』」。ここに、「父よ、み名があが められますように」との主イエスの「祈り」が記されています。主イエスご自身が「御名を崇めさせた まえ」と祈られたのです。それこそ神ご自身の「栄光」が現されることでした。それではその「栄光」 とは何でしょうか?。それはヨハネ伝によれば、主イエス・キリストの十字架の出来事をさしているの です。主イエスご自身がその「栄光」を現すことを祈り求めておられるのです。「主の祈り」の最初の祈 りを、主がここで、まさに十字架を担うかたとして祈っておられるのです。  だからこそ主イエスは「わたしはこのために、この時に至ったのです」とお語りになりました。「この 時」とは“ゲツセマネの祈り”の時です。十字架の時です。ということは、私たちは「御名を崇めさせ たまえ」というこの祈りによってこそ、主イエスの十字架の恵みの内に健やかに立つ者とされるのです。 この祈りは主イエスの十字架によって成就したからです。「御名を崇めさせたまえ」との祈りは「わたし はこのために、この時に至った」と宣言され、私たちのために十字架を負うて下さった、救い主キリス トの「祈り」とひとつであるからこそ、私たちに確かな「救い」告げる福音として私たちに与えられて いるのです。十字架を担って下さった主イエスのみが、私たちに神の「御名を崇め」させて下さるので す。神の御名の「栄光」とは、主イエスの十字架の贖いによる私たちの、そして全世界に対する完全な 「救い」の出来事なのです。  まことに神は、主イエスの十字架を通して、ご自身の御名の「栄光」を全世界への「救い」として現 わし、御名を「聖なるもの」として下さいました。エゼキエルの預言は十字架によって成就したのです。 全世界の「救い」の恵みは主イエスの十字架の死によって与えられたのです。それならば「御名を崇め させたまえ」という祈りは、私たちの「救い」(全世界の救い)のための「祈り」です。神の御名が「聖 なるもの」とされることこそ私たちの「救い」であり、私たちが罪を赦されて新しく神の恵みのもとで 生きる道は、そこにこそ開かれてゆくからです。御名が崇められること、神の御名が聖なるものとされ ることは、主イエスの十字架によって実現した「救い」の恵みの中に、私たちが新しい復活の生命の交 わりを教会において持つことです。そこでこそ私たちは、神の民として生きる者とされているのです。 今日から待降節が始まります。ご降誕の主がベツレヘムの馬小屋に、世界で最も低く貧しいところに来 て下さった恵みにおいてこそ「御名を崇めさせたまえ」との祈りはいよいよ切なるものとなります。神 が御名を「聖なるもの」として下さることに、全世界の唯一の「救い」があり祝福があるからです。そ れなら、この祈りを祈るたびに私たちは、ご降誕の主の恵みを“いまこの私への救いの出来事”として 感謝し御名を讃美します。神の恵みに応え、神の民として歩んでゆくのです。それこそ私たちが御名を 「崇めること」です。十字架の主の恵みの中に新しく自分と隣人、世界と歴史、人間と自然を見いだし、 十字架の主の恵みに満たされて歩む幸いが、そこに造られてゆくのです。「願わくはみ名を崇めさせたま え」この祈りを献げつつ、福音の確かさに生かされてゆく私たちであり続けましょう。