説     教     詩篇125篇1節    エペソ書3章1〜13節

「キリストの囚人パウロ」

2014・08・24(説教14341551)  パウロはいつも、どのような時にも、自分を「イエス・キリストの囚人」として自己紹介していま した。もしパウロが名刺を作ったなら、そこには「イエス・キリストの囚人・使徒パウロ」と記され ていたに違いありません。それがパウロの変わらぬ喜びであり、光栄であり、幸いでした。まさに今 朝お読みしたエペソ書3章1節以下がそれです。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにイエ ス・キリストの囚人となっているこのパウロ」。そこで、パウロにとって「囚人」という言葉は譬えで はなく現実でした。なぜならパウロは、このエペソ書を牢獄の中で書いているからです。まさしく「イ エス・キリストの囚人」として自己紹介するとき、パウロは現実に牢獄に繋がれていたのです。  当時のユダヤの社会においては、牢獄にはかならず罪状書きの棄札が掲げられていました。たとえ ば「殺人の囚人」「強盗の囚人」「謀反の囚人」というようにです。その罪状書きによって囚人は呼ば れたのです。そこで、パウロにつけられた罪状書きは「イエス・キリストの囚人」でした。パウロに とってこの言葉こそ、誇りであり、幸いであり、またとない伝道の機会でした。イエス・キリストの 福音を宣べ伝えたゆえに囚人となったパウロは、まさにこの罪状書きによって、全ての人に堂々とキ リストの福音のみを証ししたのです。  さて、エペソ書3章1節においてパウロは「異邦人」という言葉を「全世界」と同じ意味で用いて います。私たちの普通の感覚(常識)で申しますなら、囚人になることは不自由な身になることです。 パウロは違いました。自分は今こそ「異邦人」(全世界)にキリストによる唯一の「救い」を宣べ伝え るために「イエス・キリストの囚人」とされたのだと言うのです。だからパウロにとっては、自由の 身であろうと牢獄に繋がれていようと、なすべきことはただひとつでした。いかなる境遇にあろうと 「イエス・キリストの囚人」として、ただ十字架のキリストの福音のみを全世界に宣べ伝えることで す。「囚人」は徹底的な支配の下にあります。拘束されています。それならばパウロは、自分が常にキ リストの所有であり、キリストの僕とされていることを、限りない恵みの出来事として言い表してい るのです。  かつて1875年(明治8年)に京都に同志社英学校を設立した新島襄は、時の内務大臣・大隈重信 に文部大臣への就任を求められますが直ちにそれを断りました。自分の使命は伝道にあるというのが 理由でした。怒った大隈は「それでは君は耶蘇の奴隷ではないか」と言ったそうです。それに対して 新島襄は「然り、君の言うごとし。吾は耶蘇の奴隷なり。しかしてそを最も誇りとするものなり」と 答えた。新島にとって仕えるべき唯一の主はキリストのみであったのです。私たちはどうでしょうか。 自分がいつも「キリストの囚人」であることを全てにまさる誇りとしているでしょうか。主イエスは 「自分たちは罪人などではない」と言い張るパリサイ人らに対して、ヨハネ伝8章34節において「す べて罪を犯す者は罪の奴隷である」とお教えになりました。「キリストの囚人」でない者は「罪の囚人」 なのです。私たちはどちらの囚人なのでしょうか。  パウロはわかっているだけでも、カイザリヤ、ローマ、エペソの3箇所で投獄されています。そし てこのピリピ書1章12節以下で語られているように、パウロは自分の投獄が「むしろ福音の前進に 役立つようになったことを…わたしと共に喜んで欲しい」と教会の人々に訴えています。すなわちピ リピ書1章13節にこう記されているとおりです。「すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリス トのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちの うち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の 言を語るようになった」。そして更にパウロは、同じピリピ書2章17節にこうも語ります「そして、 たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたし は喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜び なさい」。  このパウロの「喜び」は、まさしく今朝のエペソ書3章2節以下に由来していました。少し長いで すが9節までお読みしましょう。「わたしがあなたがのために神から賜わった恵みの務めについて、 あなたがたはたしかに聞いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示 によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理 解しているかがわかる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとによ って啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったので ある。それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者 となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。わたしは、神の力がわ たしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖 徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の 富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に、世々隠されていた奥義にあずかる 務がどんなものであるかを、明らかに示すためである」。  ここに「奥義」また「キリストの奥義」という言葉が繰返し出てきます。英語では「ミステリー」 と訳されます。元々の「ミステリウム」というラテン語は「明らかにされるべき事柄」という意味で す。つまり「奥義」とは「隠されるべき事柄」ではなく「明らかにされるべき事柄」です。それは十 字架の主イエス・キリストによる「異邦人」すなわち全世界の「救い」の出来事です。その「救い」 がいまや“キリストによって”私たちに明らかにされた。それが「キリストの奥義」なのです。それ ならば、それに仕える「囚人」とされたことこそ、本当の喜びであり自由なのです。本当の自由はキ リストの囚人になることにあるのです。  「奥義」について、更にこうも言えるでしょう。ふつう「奥義」を伝授されるというと、私たちは それを「自分のものにした」と思います。しかし「キリストの奥義」とはどこまでも「キリストの奥 義」です。「主」はただキリストであり、私たちの唯一の救い主は十字架のキリストのみです。ですか ら「キリストの奥義」は今朝の6節にあるように、すべての「異邦人」をして「福音によりキリスト・ イエスにあって(結ばれて)わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共 に約束にあずかる者となること」へと繋がるのです。すなわちそこに建てられるのはキリストのまこ との教会です。その教会に結ばれることによって私たちは、いまキリストの義(キリストの生命)に 覆われて生きる者とされているのです。7節と9節の言葉で言うなら「自分に与えられた神の恵みの 賜物により」「キリストの無尽蔵の富」を与えられているのです。  宗教改革者カルヴァンは“キリスト教綱要”の中で、「信仰とみなされるべきものは全て、キリスト において我々に備えられている」と申しています。これは大変な言葉です。私たちは「信仰」は「自 分の信仰」だと勘違いをしやすいのです。信仰とは「自分の心の状態のことだ」と思いやすいのです。 だから私たちは簡単に「私は信仰の薄い者です」などと謙遜のつもりで言ったりします。まことの「信 仰」とはそういうものではありません。「信仰」とは私たちの心の状態ではなく、私たちのために十字 架にかかって下さったキリストなのです。私たちに対するキリストの御業の内に、私たちの信仰の全 ての内容があるのです。それをカルヴァンは「信仰とみなされるべきものは全て、キリストにおいて 我々に備えられている」と語ったのです。  これを植物に譬えるなら、苗は土に根を張って成長します。土のないところでは根を張ることがで きず、枯れてしまうだけです。同じように、キリストの御身体である教会という土に根を張ってこそ、 私たちの信仰は大きく成長するのです。ですから信仰生活の最も大きな危険は、教会から(つまりキ リストから)離れたものになることです。そこに信仰の主観化と個人主義化が起こります。「私の信仰」 ではあっても「キリストの信仰」ではなくなる危険です。パウロはそれこそ、教会の中で「預言」で はなく「異言」が蔓延ることだと警告しています。「預言」は主に仕え御言葉のみを宣べ伝えます。反 対に「異言」は人間に仕え自分を宣べ伝えることです。信仰の確かさはただ十字架のキリストの内に のみあるのです。私たちの中には救いの根拠はなく、ただキリストの内にのみ「救い」はあるのです。 私たちは教会に連なり、教会生活を大切にし、教会に仕え、礼拝者として御言葉に養われてゆくこと において「キリストの奥義」にあずかる「キリストの囚人」とされるのです。そこに私たちの本当の 自由と豊かさがあるのです。  パウロは今朝の御言葉の8節に「聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたし」と語っています。 これは「小さい」という言葉の最上級です。そのような取るに足らぬ自分に「キリストの絶大な富と 勝利」が与えられたのは、パウロは申します、10節にあるように「天上にあるもろもろの支配や権威 が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るため」である。最も小さな者、すなわち罪人 のかしらなる私たちが、キリストによって贖われ、教会の枝とされている。この事実こそ、すでにキ リスト・イエスによる絶大な勝利の栄光が「天上にあるもろもろの支配や権威」にまで及んでいる確 かな証拠なのです。「一葉落ちて天下の秋を知る」と言いますが、一人の罪人がキリストに贖われて教 会に連なることは、この全世界(異邦人)にあまねく「救い」がもたらされる徴なのです。だからパ ウロは「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神 に近づくことができる」と語っています。この「わたしたち」とは、あるがままの私たちです。そし て「確信」とは、私という“罪人のかしら”さえ救って下さった神は、ご自身の教会によって、この 全世界に救いの御業を完成させて下さるとの確信です。  だからこそパウロは、最後の13節にこう語ります「だから、あなたがたのためにわたしが受けて いる患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである」。こ の牢獄にまで神の栄光が現れている。人々への祝福と救いが現れている。そのことを私と共に喜び感 謝してほしい。そのようにパウロは言うのです。だからパウロは同じピリピ書1章20節にこう語っ ています。「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じる ことなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたし の身によってキリストがあがめられることである」。私たちではなく、私たちを贖って下さった、十字 架の主イエス・キリストの愛と恵みが、日ごとに大きくなる生活の幸いと自由です。自分の正しさや 清さではなく、キリストの義に覆われて生きる者の幸いと自由がそこにあります。私たちの日々の生 活、その全生涯が、キリストの愛の麗しさと確かさを物語るものとなる。私たち一人びとりがいまキ リストの証人とされている。そこに「キリストの奥義」に仕える「囚人」パウロの、また私たち一人 びとりの幸いがあり、教会に連なる光栄があることを覚えるのです。