説     教    創世記12章7〜9節   ガラテヤ書3章15〜18節

「永遠の救い」

 ガラテヤ書講解(22) 2013・04・28(説教13171481)  今日のあたりからガラテヤ書は、たいへん「わかりにくい」箇所に入って参ります。皆さんに とってわかりづらいばかりではなく、牧師である私にとっても説教がしにくい。どうにも説教が 組み立てづらい、明確なメッセージを語りにくい、いわば“説教者泣かせ”の場所が今朝のガラ テヤ書3章15節以下の御言葉です。  パウロはキリストの使徒になる前はユダヤ教の律法学者でした。「ラビ」と呼ばれるパリサイ 人でした。ですから当然のことながら、旧約聖書の律法の解釈に関してパウロは一家言を持って いました。いわば旧約聖書の権威だったわけです。そこである学者は、今朝の御言葉における“わ かりづらさ”の原因は、当時のユダヤ教のラビと、今日の私たちキリスト者の旧約聖書(律法) の読みかたの違いにあると申しています。たしかにそう言えるでしょう。しかし今朝の言葉をよ く読んで参りますと、それ以上のことがあると思います。たしかに今朝の御言葉の解釈は難しい かもしれない。しかし今朝の御言葉ほど大胆かつ率直に十字架の主イエス・キリストの福音を私 たちに明確に語っているものはないのです。大切なことは、昔と今の旧約の解釈の違いというよ りも、私たちがいつも旧約(律法)を「十字架のキリスト」のみを中心として正しく読み解いて いるか否かです。旧約と新約は「十字架の主キリスト」という一本の線で結ばれているのです。  そこで、ますパウロがここで明らかにしていることは、今朝の15節の御言葉ですが、神が全 ての人に与えたもうた救いの約束(救いの出来事)の確かさということです。その約束とは何か と申しますと、十字架のイエス・キリストを信ずる信仰による「神からの義」によって全ての人 が「御国の民」とされるという約束です。そのときパウロは、この約束の確かさを説明するにあ たり「遺言」の例を取りあげます。すなわち15節「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言 おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりす ることは、だれにもできない」。これは今日でもそのまま通用する遺言の解釈です。遺言とはそ のような重さを持つのです。勝手に書き換えたり付け加えたりすることは許されないのです。言 い換えるなら「遺言」における主権(中心)はそれを書いた人の意思にあるということです。そ の意思に叛くことは許されない。人間の書いた「遺言」でさえそれほど重んじられるのなら、ま してや「神の約束」はなおさらではないかとパウロは語るのです。  そこで続く16節の言葉に入って参ります。「さて、約束は(この「約束」とは、イエス・キ リストを信ずる「信仰による神からの義」によって全ての人が救われるという約束です)アブラ ハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わず に、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリストのことである」。こ こに今朝のガラテヤ書の中心があると言えるでしょう。具体的に申しますなら、これは旧約聖 書・創世記12章7節の御言葉です。神の召しに従ってハランの地を「行く先を知らぬまま」に 旅立ったアブラハムが「シケムの所、モレのテレビンの木のもと」に着いたとき、そこで主なる 神はアブラハムに「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と約束された、その祝福の出来 事をさしているのです。ここに主なる神ははっきりと「わたしはあなたの子孫に」と仰っておら れる。そのことをパウロはガラテヤ書3章16節に引用して「ひとりをさして『あなたの子孫と に』と言っている」と語っているのです。大切なことは、その「ひとり」とは「これは、キリス トのことである」と明確に告げられていることです。ここに今日の御言葉ひいてはガラテヤ書全 体を貫く“明確な中心点”があります。それこそ十字架の主イエス・キリストです。つまり旧約 の律法は「十字架の主イエス・キリスト」を証しするものだとパウロは語るのです。言い換える なら十字架のキリストに出会わない旧約(律法)の読みかたは間違っているということです。  そして、パウロはここにガラテヤの諸教会を混乱に陥れている「偽教師たち」(福音的律法主 義者)の決定的な誤りがあると指摘しているのです。彼らは旧約の律法を正しく解釈していると 言いながら、実は少しも正しく読んではいない。その証拠に彼らは「キリストによらなくても人 間は救われる」と説いている。その具体的な現われこそ「割礼のない洗礼は無効である」と彼ら (偽教師たち)が主張したことでした。「割礼」というのは律法の定めです。しかしそれは来た るべきキリストによる救いの確かさを告げる「前触れ」でした。つまり律法は「影」であり「本 体」はキリストにあるのです。ところが「偽教師たち」はただ「影」のみを追い、大切な「本体」 を見失っていた。律法の枝葉末節にこだわり、律法が証しする「本体」(十字架のキリスト)を 見失っていたのです。  そこで、たたみかけるかのごとくにパウロは今朝の17節以下にこう語ります。「わたしの言 う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法 によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。もし相続が、律法に基いてな されるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の 恵みをアブラハムに賜わったのである」。先に今日の御言葉は「わかりづらい」と申しましたの は、特にこの最後の18節なのです。17節までは多少複雑ですが、それほど理解に困難ではあり ません。順序だてて申しますなら、まずパウロは17節において、これはよくぞ計算したと思い ますが、シケムにおけるアブラハムに対する神の契約からシナイ山におけるモーセへの十戒の授 与(つまり律法の授与)までの期間を「四百三十年」と計算しています。この数字は聖書のここ だけに出てきます。しかもその「四百三十年」の基点であるアブラハムへの契約は、パウロの時 代から遡れば1680年も前のことであり、私たちから見ればそれに約2000年が加わりますから、 実に3700年前の出来事です。そんなに大昔の神の約束ですが、それが今になって「破棄」され ることなどありえないと言うのです。  顧みて私たち人間は、昨日の約束だって本当に守れるかどうか怪しいのではないでしょうか。 あるいは、守っているように見せかけながら、実は自分の都合のいいように作り変えていること だってあるのではないでしょうか。「嘘も百回言えば本当になる」と豪語した政治家もいたほど です。しかし主なる神の救いの約束はそんなものではないとパウロは言います。それは永遠の「遺 言」であり、絶対に変わることのない、確かな救いの約束なのです。この「遺言」を英語では“テ スタメント”と言います。そしてこの“テスタメント”とは「聖書」をあらわす言葉にもなりま した。「決して変わることのない神による救いの約束」という意味です。それが聖書に語られて いる福音の内容なのです。  そこで、続く18節に「相続」という言葉が出てきますが、それこそこの「決して変わること のない神による救いの約束」のことなのです。まさに“福音そのもの”でありたもう十字架の主 イエス・キリストのことなのです。それを私たちは「相続」する者とされている。神ご自身が私 たちの嗣業となって下さったのです。その驚くべき恵みにおいてこそ、パウロは強調しています 「もし(その)相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない」と。 これこそ「偽教師たち」(福音的律法主義者)に対するパウロの最終的決定的な反論でした。「偽 教師」らは「救いは律法に基いて与えられる」と主張していた。しかしパウロは、アブラハムへ の契約ののち「四百三十年」経てから定められた律法は、その契約(イエス・キリストによる救 いの約束)を保証するものである。だから救いは律法によるのではなく、むしろ「約束」(アブ ラハムへの契約)に基くものなのだ、と明らかにしているわけです。このあたり、パウロが如何 に旧約聖書を正しく読んでいたかを明らかにするものです。私たちの教会もまた、この旧約と新 約を貫く中心点(すなわち歴史の主)なる十字架のイエス・キリストのみを宣べ伝えるのです。  主イエスは“山上の垂訓”の中で、特にマタイ伝5章17節以下にこう仰せになりました。「わ たしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就する ためにきたのである。よく言っておく、天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたること はなく、ことごとく全うされるのである。…わたしは言っておく、あなたがたの義が律法学者や パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。今朝の御言葉 において、まさに私たち一人びとりに、この主イエスの御言葉をどう聴いているのかが問われて います。主イエス・キリストは、人間は「律法」という自力救済から「福音」という他力救済に 乗り換えることで救われると教えたもうたかたではないのです。そうではなく、神の御言葉は一 点一画も損なわれず全うされねばならない。それが「律法」というものです。だから私たちの義 が「律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」 と言われるのです。それでは私たちはどうしたら、律法学者やパリサイ人にもまさる「義」に生 きうるのでしょうか。まさにその明確な答えを今朝の御言葉は私たちにはっきりと告げているの です。  それこそ今朝の御言葉の16節なのです。すなわちパウロが「それは、多数をさして『子孫た ちに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリストのこ とである」とはっきりと語っていることです。律法学者やパリサイ人は「神の義」(救い)は、 人間が「律法」を完全に守ることによって得られると信じていました。しかし「律法」を完全に 守ることは人間には不可能なのです。いかに正しい人間といえども神の聖なる律法の前には無力 なのです。しかし私たちのために「律法」を完全に「成就」して下さったかたがおられる。律法 の一点一画も損なうことなく完成して下さったかたが、私たちのために、私たちと共に、永遠に 変わらず共にいて下さる。そのかたこそ私たちの贖い主・救い主であられる。そのかたこそ私た ちのために十字架にかかられた主イエス・キリストなのです。  私たちは「律法」に対しては全く無力です。神の祝福、神の喜びたもうことを行なう力は私た ちの内には無いのです。そうではなく、それはただ私たちのために十字架におかかり下さり、私 たちの贖いとなられた、主イエス・キリストにのみあるのです。主イエス・キリストこそ、私た ち全ての者のために「神の義」を全うして下さったかたなのです。だからこそ主イエスはヨハネ 伝5章39節に、律法学者たちに教えてこう言われました「あなたがたは、聖書の中に永遠の命 があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」。そして 同じヨハネ伝6章28節にはこうあります「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行う ために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神がつか わされた者を信じることが、神のわざである』」。  福音の本質は、まさに「神がつかわされた者(十字架の主イエス・キリスト)を信ずること」 にあります。私たちはこの神の御子を信ずる信仰によって教会に結ばれ、信仰による「神からの 義」を受ける者とならせて戴いています。いまここに集う私たち全ての者が、キリストを信ずる 信仰によって「律法の義」に遥かにまさる「神からの義」に生きる者とされている。そしてその ことによって、私たちは律法を全うする者とされているのです。なぜか、それは十字架の主が、 私たちのために、私たちの滅びと絶望をも担って、あの呪いの十字架に死んで下さったからです。 まさに今朝のこのガラテヤ書3章15節以下は、この十字架のキリストのみをさし示す「福音」 として告げられている、神の限りない救いの約束そのものなのです。  テモテ第一の手紙1章15節はこう告げられています「『キリスト・イエスは、罪人を救うた めにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わ たし(パウロ)は、その罪人のかしらなのである」。パウロはこの世界で最も確実なもの、それ こそキリストによる救いと祝福の恵みであると語っているのです。それは「そのまま受け入れる に足るもの」なのです。私たちのためになされた主の御業を、私たちは「そのまま受け入れる」 者として、ここに招かれているのです。  だからこそパウロは、大いなる喜びと感謝をもって、全世界にこの福音を語ります。「しかし、 わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を 示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。世々 の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァ メン」。「罪人のかしら」であるこの私をも、神は救って下さったのなら、どうしてあなたが、あ なたも、あなたも、救われぬはずがあろうか。神の祝福の内にないはずがあろうか。これを知る とき、パウロは、否、私たちは、福音を宣べ伝えずにおれません。そして神への讃美・頌栄が私 たちの日々の生活を形造ります。その恵みは、私たちの生にも、死にも、決して変わることはな いのです。