説    教     箴言28章10〜11節   ガラテヤ書3章1〜5節

「神の大喝」

 ガラテヤ書講解(17) 2013・03・17(説教13111475)  「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたが たの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」。今朝のガラテ ヤ書3章1節以下は、まことに激烈な言葉で始まっています。驚くべきパウロの説教です。直訳 するなら「あなたがたガラテヤの人たちは、なんという大馬鹿者だ」と言うのです。想像してみ たらよいと思います。もしこの説教壇からパウロと同じように「あなたがたは、なんという大馬 鹿者だ」と説教が始まったら、皆さんはどう思われるでしょうか?。いわばそれほど激烈な言葉 なのです。ガラテヤ書はパウロによる説教の原稿です。それならパウロは、かくも激烈直裁な言 葉でガラテヤの人々に説教を語っているのです。私たちはいまここに、この途方もない説教の前 に共に立たしめられています。まさにこの激烈な言葉を通して、主イエス・キリストの福音を聴 く者とされているのです。  パウロがこのような、驚くべき口調で語らざるをえなかった理由とは何だったのでしょうか?。 それは、まだ誕生して間もないガラテヤ教会の人々が、主イエス・キリストのみによって救われ るという「福音の本質」から離れ、福音とは似て非なる「異なる福音」に逸れて行こうとしたか らです。教会が分裂の危機にあったのです。パウロがガラテヤを離れるのを待ちあぐねたように 活動を始めた「偽教師たち」の策略により、ガラテヤ教会の人々が、キリストだけでは人間は救 われない、律法(割礼)こそが人を救うのだという誤った教えに傾いたのです。洗礼を受けて救 いの喜びを感謝している人々に対して、あなたがたが受けたその洗礼は無効である、まず割礼を 受けてユダヤ人になった後に洗礼を受けるのでなければ、その洗礼は無効であると主張したので す。  この「律法」か「福音」かという問題をめぐって、誕生間もないガラテヤ教会は大混乱に陥り ました。しかし「律法」とは結局は人間の功績です。そうすると「洗礼」だけでは救われず「律 法」が必要だという「偽教師」たちは、人間の功績の上に成り立つ「救い」を説いたわけです。 もし人間の功績の上に救いが成り立つなら、パウロが2章21節でも語っているように「キリス トの死はむだであったことになる」のです。ここに絶対に看過できない福音の根本問題がありま した。端的に言うなら、私たちは人間の功績によってではなく、ただキリストの恵みによって救 われるのです。私たちの救いの根拠は「人間の功績」の中にではなく、ただ「キリストの恵み」 の中にあるのです。  この大切なことを、愛するガラテヤ教会の人々に訴えるにあたり、使徒パウロは「十字架につ けられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあな たがたを惑わしたのか」と語っています。「十字架につけられたイエス・キリストが…目の前に 描き出された」とは、洗礼を受けた一人びとりがキリストの復活の生命に結ばれ、喜びと感謝を もってキリスト者の新しい生活を始めたことです。キリストの身体なる教会に結ばれ、主に贖わ れた神の民として新しい喜びの生活が始まったのです。鳥のヒナには「すりこみ」という性質が あります。タマゴの殻を破って生まれたヒナは、最初に見た動くものを親だと思い、それは決し て変わることがありません。使徒パウロも心の内に、そのようなヒナの姿を思い描いていたので はないでしょうか。  私たちのために測り知れぬ愛をもって十字架にかかられ、私たちの罪と死をその滅びもろとも ご自身の一身に担われ、死んで下さった救い主イエス・キリストのみが私たちの「主」です。私 たちはその十字架の主イエス・キリストの姿を心に焼き付けられた者たちです。それにもかかわ らず、あとから来た「偽教師」たちの「異なる福音」に惑わされ、十字架のキリストから離れて 行こうとしている。「異なる福音」に走り寄って行こうとしている。そのようなことが「どうし てありうるのか?」とパウロは問うているのです。私たちのために十字架にかかられたキリスト 以外に従うべきかたがあるか、キリストの愛以上に確かな私たちの存在根拠があるか、と問うの です。キリストの恵み以上に確かな救いはないからです。  ですから「それなのにいったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」とは、キリストに結ばれ た「あなた」をキリストから引き離しうる力など、この世界のどこに存在するのかという問いで す。だからこそ「ああ、物わりのわるいガラテヤ人よ」とパウロは叫び、決して離れえないキリ ストの恵みから離れようとしている人々に、それこそ「大喝」をもって警鐘を鳴らしているので す。「大喝」とは禅寺において修行する雲水が老師から賜わる叱咤激励のことです。死んだ人に 対する引導としても行われます。  鎌倉雪ノ下教会にかつておられた加藤常昭先生、私はこの加藤先生からドイツ語の手ほどきを 受けたのですが、あるときこういうことを話して下さいました。鎌倉の東慶寺にある西田幾多郎 の墓前で自殺した友人がいたそうです。加藤先生がまだ東大の学生だった時のことです。葬儀は 遺族の希望により東慶寺で行われた。学生だった藤先生もそこに出席していた。葬儀の途中で、 当時の東慶寺の住職・朝比奈宗源老師が「大喝」したそうです。加藤先生は驚きの余り「体が浮 き上がった」と回想しています。ふと気が付くと遺族が泣き止んでいる。その経験があって「自 分は牧師として、この禅の老師にまさるほどの葬儀をなしえているか」といつも問うていると語 っておられました。  「大喝」とは、死にたる者を活かすためのものです。だから宗教改革者カルヴァンは今朝の御 言葉を「十字架につけられたまいしキリストが、あなたがたの面前に現われておられるのに、だ れが諸君を真理に従わないよう魔術をかけたのか」と訳しています。「魔術」とは生きている者 を死に至らしめる力です。ならばパウロがキリストの使徒としてそこに「大喝」をしているのは、 死にたる者を活かすキリストの恵みを語るためです。それが今朝の3章1節以下の御言葉なので す。  この説教を聞いたガラテヤ教会の人々の中には「あなたがたは大馬鹿者だ」と「大喝」されて 怒り出す人もいただろうと思います。私たちはどうでしょうか?。このように語られてもし気分 を損ねるなら、自分はパウロに「大喝」されるほどの「大馬鹿者」ではなく「死にたる者」でも ないと自惚れているからです。自分は「物わかりのわるい」人間などではなく、むしろ賢く聡明 な、正しく清い人間だと思っている私たちは「神の大喝」を受けたくないのです。古き自分を温 存したいのです。ローマ書10章17節には「信仰は聴くことにより、聴くことはキリストの言葉 から来る」とあります。信仰生活のもっとも大切な中心は、私たちがいつも神の言葉である福音 の真理を正しく聴くことです。その正しく福音を聴く生活は「キリストの言葉から来る」つまり キリストの恵みの賜物なのです。  このことを忘れるとき、私たちの信仰生活も案外「偽教師」らのそれと似て参ります。表向き は御言葉に耳を傾けていても、内実は自分の判断や功績や賢さに頑なに固執しているのです。自 分が御言葉に打ち砕かれているのではなく、むしろ自分を「真理の基準」として神を審いている ことがあるのです。福音を拒み古きおのれを温存する究極の本末転倒が起こるのです。そして自 分の生活、自分の価値や能力に、自信と誇りを持っている人ほど、実は御言葉を正しく聴いてい ないことが多い。「神の大喝」など不要だと撥ね付けるのです。それこそカルヴァンの語るよう に、私たちの心の中に巧みに「魔術」が忍びこむのです。悔い改めも、新たな生命も、そこには 決して生まれないのです。  私たちが「神の大喝」を撥ね付けるとは、どういうことでしょうか。それは実は「罪」の姿に たいへん良く似ています。キリストの前に立ちえざる者、それはこの自分であると気付かせない 仕方で、巧みに、それこそ「魔術」のように、自分は正しく、正気であり、賢く、健全だという 自負心が、私たちの心を頑なにするのです。ガラテヤの教会を混乱させた問題は、まさにその人 間の「正しさ」を主張する「罪」の問題でした。誰の目にも明らかな間違いだとわかるなら解決 は簡単です。しかし、真理を装って巧みに私たちの心を支配する問題に対して、私たちは驚くほ ど無力です。加えて、世間的なしがらみや人間関係の問題もあります。内心では「パウロ先生の 言うとおりだ」と思いつつも、古いしがらみの中で「偽教師たち」の言葉に靡いてしまった人も いたと思います。「偽教師」たちもまた、そうした信徒たちの弱さを巧みに利用して、パウロに 対する良からぬ噂を言い広めたことでした。パウロ牧師への批判や陰口を信徒たちに吹聴したの です。そうした事がどんなにガラテヤ教会を混乱させ、伝道の足を引っ張っていたことでしょう か。  だからこそパウロは激しい口調で「神の大喝」を告げざるをえませんでした。十字架につけら れたまいしキリストが、私たちの面前に描き出されたのです。キリストの御姿が人々の魂に鮮や かに描き出されたのです。それを壊そうとした者たちがいた。パウロは今朝の4節に「あれほど の大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい」と人々に語ってい ます。その「大きな経験」とは、教会の土台として「イエスは主なり」という揺るがぬ信仰告白 が据えられたことです。それを思い起こしなさいと、パウロは愛するガラテヤの教会に訴えるの です。この土台の上に、私たちは正しい信仰、キリスト・イエスをのみ唯一の「かしら」とする 信仰告白により、主の教会を建ててゆく者とされているではないか。そしてこの世界に、私たち の愛する同胞に、福音による真の救いと自由、喜びと平和、義と生命を宣べ伝え、真の礼拝を献 げる者とされているのです。  ガラテヤの教会と似た問題をコリントの教会も抱えていました。しかしパウロは第二コリント 書7章8節以下にこう語っています。ここに私たちは、ガラテヤの教会でも起こったに違いない “喜ばしい結果”を知ることができるのです。「そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲し ませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたが たを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだから ではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神 のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神の みこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をき たらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させた ことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか」。  コリントの人々は、パウロから厳しい手紙を(大喝を)受け取った結果、十字架の主なるキリ ストの福音に立ち帰ったのです。悔い改めが人々の間に起こりました。パウロも共に御言葉を聴 きつつ、教会員と共に主に立ち帰る喜びを頒ちあいました。「悔改め」とはキリストに向かって 方向転換することです。それは実に具体的なことです。主がご自身の全てを献げてお建て下さっ た教会に連なり、礼拝生活を大切にし、御言葉を真実に聴く者となることです。福音の御言葉を 聴き続け、福音によって打ち砕かれ、神に栄光と讃美を帰することです。主が私たちのためにな して下さった全ての御業をそのまま信じ、自分に対する、そして世界に対する、唯一永遠の救い の出来事として受け入れることです。なぜなら「神のみこころに添うた悲しみ」こそは私たちを 「悔いのない救いを得させる悔改めに導く」からです。  私たち人間は、弱さや破れにおいてよりも、強さや誇りや自尊心の中でこそ、より大きな罪を おかします。そこでこそ私たちはいま「神の大喝」にあずかる者とされています。この世界、そ して私たちの人生において、最も大切な音信はただひとつ、主が私たちの救いのために世に来ら れ、十字架にかかられた事実です。このキリストの恵みによって、いま私たちは神の民とされて いるのです。ヨハネ第一の手紙1章7節にこう記されています。「しかし、神が光の中にいます ように、わたしたちも光の中を歩むならば、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血 が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」。そうです。私たちにいま、主が求めてお られることは、私たちが十字架の福音に留まって生きることです。  十字架の主をわが主、救い主と告白し、主の教会に連なり、御言葉を正しく聴く者として、御 言葉に打ち砕かれつつ歩むとき、私たちは神と共に歩み、神の愛の内に自らの全存在と全人生を 祝福の光の内に見いだします。そこにおいてこそ、私たちは互いに本当の交わりを持ち、そして 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」て下さることを、私たち一人びとり への、そして全世界への、まことの義と平和のおとずれとして、ここに聴きつつ、喜び勇んで、 主の僕たる新しい歩みへと、共に出てゆく者とされているのです。