説     教      詩篇125篇1節   エペソ書3章1〜13節

「キリストの囚人パウロ」

2012・04・29(説教12181428)  使徒パウロにはどのような時にも、変わることのない大きな喜びがありました。それは、自 分がいつも、いかなる場合にも、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの僕とされてい ることです。パウロにとってそれ以上の光栄、それにまさる喜びはありませんでした。パウロ はその喜びをあらわすために、しばしば「自分は…イエス・キリストの囚人である」と語って います。まさに今朝、拝読したエペソ書3章1節以下がそれです。「こういうわけで、あなた がた異邦人のためにイエス・キリストの囚人となっているこのパウロ」と彼は述べています。 「囚人」とは牢屋(獄)に繋がれた者のことです。決して良い言葉ではありません。しかもパ ウロが「イエス・キリストの囚人」と言うとき、それは単なる言葉の喩えではなく、現実にパ ウロは牢獄に繋がれの身となっていました。すなわち、パウロはここで自分が「イエス・キリ ストの(証し人たる理由によって)牢獄に繋がれる身となったパウロ」であることを、限りな い喜びと感謝をもって明らかにしているのです。  当時のユダヤの社会、と申しますより、古代ローマ帝国においては、囚人にはかならず「殺 人の囚人」「強盗の囚人」「謀反の囚人」というように、いわゆる“罪状書き”が付けられてい ました。その罪状書きによって公衆の面前に晒し者になったのです。では使徒パウロにつけら れた罪状書きはなんであったかと申しますと、それは「イエス・キリストの囚人」というもの でした。しかしパウロにとってこの罪状書きこそはまさに光栄そのものであり、またとない伝 道の機会でした。悪事のゆえに囚人となったのではなく、主イエス・キリストを宣べ伝えたゆ えに囚人となったのですから、パウロはそれを誇りとし、堂々とキリストを証しするのみでし た。  さて、このエペソ書3章1節において、パウロは「異邦人」という言葉を「全世界」という のと同じ意味で用いています。普通、私たちの感覚(常識)で申しますなら、囚人になること は不自由な身になることです。しかしパウロは違うのです。自分は今こそ「異邦人」(すなわ ち全世界)にキリストの御名による唯一永遠の救いの喜びと幸いを宣べ伝える。そのために神 のご計画によって「イエス・キリストの囚人」とされたのだと言うのです。だからパウロにと っては、たとえ自由の身であろうと牢獄に繋がれていようとも、なすべきことはいつも一つで した。いかなる境遇にあろうとも「イエス・キリストの囚人」とされた者として、ただ十字架 のキリストのみを宣べ伝えることです。「囚人」とは徹底的な支配の下にある者です。それな らパウロは自分が常にキリストの恵みのご支配のもとにあることを、限りない光栄として言い あらわしているのです。  かつて明治10年代、京都に同志社を設立した新島襄は、時の内務大臣・大隈重信に文部大 臣に就任するように要請を受けますがそれを断りました。自分はいかなる場合にもキリストの 伝道者であって、政治家になるつもりは毛頭ないというのが理由でした。怒った大隈は新島に 「それでは君は耶蘇の囚人ではないか」と言ったそうです。すると新島は得たりとばかりに微 笑み「君の言うとおり、吾は耶蘇の囚人なり。しかして、そを最も誇りとする者なり」と答え たそうです。私たちはどうでしょうか。自分がいつも「キリストの囚人」であることを全てに まさる誇りまた光栄としているでしょうか。主イエスは「自分たちは罪人などではない」と言 い張るパリサイ人らに対して、ヨハネ伝8章34節において「すべて罪を犯す者は罪の奴隷で ある」とお語りになりました。「キリストの囚人」でない者は「罪の囚人」なのです。では私 たちはどちらの囚人なのでしょうか?。  使徒パウロはわかっているだけでも、カイザリヤ、ローマ、エペソの3箇所で牢獄に繋がれ ています。このエペソ書はそのうちカイザリヤの獄中で書かれたと言われています。いずれに せよこのピリピ書の1章12節以下で語られているように、パウロは自分の投獄が「むしろ福 音の前進に役立つようになったことを…わたしと共に喜んで欲しい」と愛するピリピの教会の 人々に訴えています。すなわちピリピ書1章13節にこう記されているとおりです。「すなわち、 わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべて の人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある 確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」。そして更にパウ ロは、同じピリピ書2章17節にこう語っています。「そして、たとい、あなたがたの信仰の供 え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一 同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。  さて、このパウロの「喜び」はどこに由来していたのでしょうか。何がパウロの「喜び」の 源だったのでしょうか。それを私たちは、今朝の御言葉であるエペソ書3章2節以下によって 教えられるのです。すなわちこうあることです。少し長いですが9節までお読みしましょう「わ たしがあなたがのために神から賜わった恵みの務めについて、あなたがたはたしかに聞いたで あろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされ たのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわ かる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとによって啓示さ れているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者 となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。わたしは、神の 力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、 キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に、世々隠 されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである」。  ここに「奥義」また「キリストの奥義」という言葉が繰返し出て参ります。英語の聖書では 「ミステリー」と訳されています。その元々の語源「ミステリウム」というラテン語は「明ら かにされるべき事柄」という意味です。私たちはふつう「奥義」と聴くと、ただ「隠し事」と しか思いません。しかし本来はそうではなく「明らかにされるべき事柄」がミステリウムです。 その「事柄」こそ主イエス・キリストによる「異邦人」すなわち全世界の人々に対する永遠の 救いの出来事なのです。その出来事がいまや“キリストによって”私たちに明らかにされた。 それがパウロの語る「キリストの奥義」です。それは更にこうも言えるでしょう。ふつう「奥 義」を伝授されるというと、私たちはそれを「自分のものにした」ということになります。し かし「キリストの奥義」とはどこまでも「キリストの奥義」なのです。主体はあくまでもキリ ストであり、私たちの唯一の救い主は十字架のキリストのみなのです。ですから「キリストの 奥義」は今朝の6節にあるように、すべての「異邦人」をして「福音によりキリスト・イエス にあって(結ばれて)、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、 共に約束にあずかる者となる」幸いに繋がるのです。すなわちそこに建てられるのはキリスト のまことの教会です。その教会に結ばれることによって私たちは、死ぬべき身体をいまキリス トの義(キリストの生命)に覆われて生きる者とされているのです。7節と9節の言葉で言う なら「自分に与えられた神の恵みの賜物により」「キリストの無尽蔵の富」を与えられている のです。  宗教改革者カルヴァンは“キリスト教綱要”という本の中で「信仰とみなされるべきものは 全て、キリストにおいて我々に備えられている」と申しています。これは素晴らしい言葉です。 私たちは「信仰」というとき、それは「自分の信仰」だと思いやすいのです。もっと言うなら 「自分の心の状態のこと」だと思いやすいのです。だから私たちは簡単に「私は信仰の薄い者 です」などと謙遜のつもりで言ったりするのです。まことの「信仰」とはそういうものではあ りません。信仰の全ては私たちの内にではなく、ただキリストの内にのみあるのです。さらに 言えば、私たちに対するキリストの御業の内にのみ、私たちの信仰のすべての内容があるとい うことです。それがカルヴァンの言う「信仰とみなされるべきものは全て、キリストにおいて 我々に備えられている」という言葉の意味です。譬えて言うなら、種は土に根を降ろしてはじ めて成長することができます。土のないところにいくら根を出しても枯れてしまうだけです。 それと同じように、キリストの御業(救いの恵み)という土に根を降ろしてこそ私たちの信仰 は大きく成長するのです。信仰生活の大きな一つの危険は、私たちの信仰が教会から離れた(つ まりキリストから離れた)ものになることです。信仰の主観化・個人主義化がそこに起こりま す。救いがいつの間にかエゴイズムになってしまうのです。  パウロはそれこそ、教会の中で「預言」ではなく「異言」が幅をきかせることだと警告して います。「預言」は御言葉に仕え、御言葉のみを宣べ伝えることですが、「異言」は信仰の装い をした自分自身を宣べ伝えることです。するとその教会はコリントの例にもあるように、キリ ストの生命に連なる喜びを失い、自分の正しさと自分の義に根を降ろしたものになってしまう のです。それで、いささか不思議な表現ですが、カルヴァンは「キリストの信仰」という言葉 さえ用いています。私たちの信仰はすなわち「キリストの信仰」であらねばならない。信仰の 確かさはただ十字架のキリストの内にのみあるのです。私たちの中には救いを確かにする何物 もありません。それはただキリストの中にのみあるのです。そして私たちは教会に連なり、教 会生活を大切にし、教会に仕え、礼拝者として御言葉に忠実に生きることにおいてのみ「キリ ストの奥義」にあずかる僕とされるのです。  パウロは今朝の御言葉の8節に「聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたし」と語ってい ます。これは「小さい」という言葉の最上級をさらに比較級にした不思議な言葉です。新約聖 書でここだけに出てくるもので、たぶんパウロの造語であると考えられています。つまりパウ ロは「アガペー」(神の愛)でも同じことが言えますが、キリストの恵みを既成の言葉ではど うしても現わしえないと考えたのです。そうでなければ「土の器」に盛られた「キリストの無 尽蔵の富」を証しすることはできない。それでパウロは、そのような取るに足らぬ自分に「キ リストの絶大な富と勝利」が与えられたのは、10節にあるように「天上にあるもろもろの支配 や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るため」であると申しています。  最も小さな者、すなわち罪人のかしらなる私たちが、キリストによって贖われ教会の枝とさ れている。この事実こそすでにキリスト・イエスによる最後の勝利が「天上にあるもろもろの 支配や権威」にまで及んでいることの確固たる証拠であるとパウロは言うのです。「一葉落ち て天下の秋を知る」と言いますが、一人の罪人がキリストに贖われて教会に連なることは、こ の全世界(異邦人)にあまねく救いの御業がもたらされる徴なのです。だからパウロは「この 主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づ くことができるのである」と語るのです。この「わたしたち」とは、あるがままの私たちです。 そして「確信」とは、私という“罪人のかしら”さえ救って下さった神は、御自身の教会によ ってこの全世界に救いの御業を完成させて下さったとの確信です。  だからこそ、パウロは最後にもこう語っています。13節です「だから、あなたがたのために わたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがた の光栄なのである」。同時にパウロは、このエペソの獄中から書き送ったピリピ書1章20節に 「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じるこ となく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わ たしの身によってキリストがあがめられることである」と語っています。この「あがめられる」 とは「大きくなる」という意味です。私たちではなく、私たちを贖い取って下さった、十字架 の主イエス・キリストの愛と恵みが日に日に大きくなる生活の幸いです。自分の正しさや清さ にしがみつくのではない、キリストの義に覆われて生きる者の自由と喜びがそこにあるのです。 そして私たちの日々の生活、その全生涯が、キリストの愛のうるわしさ、キリストの恵みの確 かさを物語るものとなる。私たち一人びとりがいまキリストの証人とされている。そこに「キ リストの奥義」に仕えるパウロの、また私たち一人びとりの幸いと感謝があり、教会に連なる 者の光栄があることを覚えるものです。