説    教  イザヤ書60章10〜14節  第一コリント書2章1〜4節

「福音と文化」

2012・04・22(説教12171427)  使徒パウロがギリシヤの都アテネをはじめて訪れたのは西暦50年から51年にかけてのこと でした。そのときの事情と伝道の様子は使徒行伝16章17章が詳しく物語っています。パウロ ははじめ小アジヤのフルギア・ガラテヤ地方(現在のトルコ東部)から北上し黒海沿岸のビテ ニヤに向かう予定でした。しかし「イエスの御霊がそれを許さなかった」と使徒行伝16章7 節にあるように、神の導きによって正反対の南に道を取ることになりました。それが神の御旨 であると確信したパウロは直ちにエーゲ海に面したトロアスから船出してマケドニア(今日の ギリシヤ北部)に渡るのです。そこにヨーロッパ伝道の第一歩が記されることになりました。  さて、パウロによるヨーロッパ伝道の最初の受洗者となったのはピリピに住むルデヤという 婦人でした。このルデヤこそヨーロッパにおける最初のキリスト者となった人です。彼女はパ ウロの説教を聴いて回心し、家族や使用人ともども洗礼を受け、そこにヨーロッパ最初の教会 が誕生しました。ピレンヌという歴史学者はヨーロッパ社会そのものがこの瞬間に始まったと 記しています。その意味ではルデヤの家の教会こそヨーロッパ発祥の地となったのです。私た ちはここにも神の御業の測り難き尊さを思わずにおれません。このようにピリピにヨーロッパ 伝道の拠点を据えたパウロは、さらに南下してテサロニケとベレヤに福音を宣べ伝え、来るべ きアテネ伝道の機の熟するのを待っていました。おりしもマケドニヤに激しい迫害が起こった ため、パウロは2人の弟子(テモテとシラス)をベレヤに残して先にアテネに向かい、そこで 2人の弟子の到着を待つあいだアテネの街をつぶさに観察することにしたのです。それが使徒 行伝17章15節までに記されている事どもです。  もともとパウロにとってアテネ伝道は積年の願いでした。アテネは文字どおり古代世界に冠 たる学問文化の中心地でありヘレニズム文明揺籃の地であったからです。かつてわが国におい ても安土桃山時代、最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸したの ち直ちに京都における伝道を開始しています。それもまた日本文化の本丸を攻めんとするザビ エルの志であったでしょう。パウロは小アジヤの国際貿易港タルソの出身でしたから、幼い頃 からごく自然にヘレニズム文化に対する深い素養と知識を身につけていた人です。それだけに パウロはギリシヤ文化、いや全ての文化(人間の営み)の唯一の救いはキリストの福音以外に ないことを確信していました。ここにキリストの福音とアテネの市民らが奉じていたヘレニズ ム文化そしてキリシヤの宗教が大きく触れ合い激しい火花を散らす相克が生じたのです。言い 換えるならヘレニズム的異教社会のただ中にまことの神を宣べ伝えるヘブライズム(聖書的) 潮流が猛然と流れこんだのです。そこに初めてヨーロッパを形成する2つの潮流がひとつにな ったのです。  さてそこで、パウロがアテネの街で見たものは何だったでしょうか?。アテネの中心には有 名なアクロポリスの丘がそびえ、そこにはギリシヤの神ゼウスを祭る大パルテノン神殿が建て られていました。それ以外にもニケー、エレクテオン、ポセイドン、アフロディテなどの神殿 が建ち並んでいました。また街の至る所に無数の神々を祭る祠がありました。またアクロポリ スの丘の北西には「アレオパゴス」と呼ばれる集会所がありました。そこはかつてキリシヤ哲 学華やかなりし頃、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらが哲学を論じた場所でした。パ ウロの時代にはかつての栄華は過ぎ去ったとはいえ、なおその栄光は黄昏にも似た残光を留め ていて、エピクロス派とストア派とが論陣を張り、アテネ市民の精神生活の拠り所となってい たのです。  しかしパウロはキリストの伝道者として、そのようなアテネの表面的な栄華に全く惑わされ ませんでした。むしろパウロが注目したのは市中におびただしく氾濫していた偶像の洞でした。 使徒行伝17章16節には「パウロはアテネで彼ら(テモテとシラス)を待っている間に、市内 に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」と記されています。この「憤り」と は全ての人の魂に救い主なるキリストを伝えずにはやまぬ伝道の熱情です。そして「偶像」と 訳されている元々のギリシヤ語は「空しいもの」という意味の英語の「アイドル」の語源にも なった言葉です。アテネの人々は哲学の装いをしつつもその実は「空しいもの」に拠り頼む生 活をしている。この事実がパウロの「憤り」を呼び起こしたのです。ウェストコットというイ ギリスの聖書学者は「まさにこの“憤り”こそ、人々に対するパウロの燃えるがごとき愛であ った」と語っています。滅びゆく者のために十字架の道を歩まれたキリストの愛が伝道者パウ ロを駆り立ててやまないのです。まことの神の愛を知らず空しきものに拠り頼む人間の現実を 断じて見過ごしにはできないのです。事実このキリストの愛に突き動かされるように、パウロ は2人の弟子の到着を待たず、直ちにアテネに伝道の戦いを繰広げるのです。パウロが最初に 向かったのはあの「アレオパゴス」の集会所でした。最初アテネの人々は集会所の真中に立っ て語るパウロの言葉に興味津々の様子でしたが、パウロの話が十字架のキリストに及ぶや否や 露骨に軽蔑の情を表し、嘲笑いが起ったのでした。使徒行伝17章21節を見ますと「アテネ人 もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、 時を過ごしていた」とあります。彼らの耳は福音の真理には閉ざされていたのです。  そこで、この軽佻浮薄なアテネの現実こそ現代の日本の精神状況と見事に重なり合うのでは ないでしょうか。否、今日の日本のほうが古代アテネより数倍も深刻な状況だと言えるのでは ないか。私たちの町には「至る所に」偶像の洞はないかもしれません。しかし人間の心の中に 「罪」という名の最も巨大な偶像が厳然として存在し猛威を振るっているのです。その結果、 今日の日本人こそ「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごして」い る現実があるのではないでしょうか。人間を人間たらしめるもの、最も大切な祝福の生命の根 源である真の神が見えなくなっているのです。その結果「空しいもの」に拠り頼み人間の価値 と人生の意味がわからなくなっている。そうした時代に私たちは生きているのです。そこにこ そパウロのアテネ伝道の言葉が響きます。17章22節以下です。まず「アテネの人たちよ、あ なたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている」 とパウロは語りました。相手を煽てているのではありません。人間の心の奥深くにある「宗教 心」を手がかりに、パウロは人々の耳を福音に向けて開こうとしているのです。すなわちパウ ロはその日街角で見た「知られない神に」と書かれた祭壇(洞)のことに触れ「あなたがたが 知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」という形でイエス・キリストの福音を宣 べ伝えようとしました。またパウロは「われわれも、確かにその子孫である」というギリシヤ の詩人アラトスの言葉を引用して、いわば文化という名の外堀から本丸である福音に人々を導 こうとしているのです。  そこで、パウロのこのアレオパゴスにおける説教は、聖書に記されているパウロの説教の中 でも最も特色あるものですが、有体に申すならどこか隔靴掻痒の感があります。そのためもあ りましょうか、アテネにおける伝道の成果は決して思わしいものではありませんでした。アレ オパゴスの裁判人デオヌシオ、そしてダマリスという名の婦人など、数名の人々が洗礼を受け たのみでした。行く先々の街で教会を建ててきたパウロも、アテネには教会を建てることがで きなかったのです。いわばアテネにおける福音伝道は失敗に終わったかに見えました。伝道と は単に個人を回心させることではなく、そこにキリストの教会を建てることです。少なくとも アテネに教会が建たなかったということは、それ以後パウロが伝道の方針を大転換する契機に なりました。  事実パウロは次の伝道地コリントにおいては伝道の方法を根本的に変えています。すなわち 学者や知識人の集まる集会所を拠点とし哲学を通して伝道のきっかけとするのではなく、むし ろアクラとプリスキラという天幕作りのユダヤ人夫婦の協力を得て地域伝道の地盤を徐々に 踏み固めてゆく方法に転じました。またこの頃からテモテとシラスもパウロに合流して伝道を 助けるようになりました。この当時の心境についてパウロは第一コリント書2章1節以下に次 のように語っています。「兄弟たちよ、わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあ かしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キ リスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい と、決心したからである」。パウロはアテネでは哲学者や知識人らと対等に議論して一歩も引 けを取りませんでしたけれども、主イエス・キリストを宣べ伝えるという大切な一点において は不本意な結果に終わったのです。そこでコリントでは、パウロは申します「神のあかしを宣 べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用い」ることなく「イエス・キリスト、しかも十字架に つけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と。  この「十字架のキリスト以外、何も知るまいと、決心した」というのは文語の聖書では「心 に定めたり」です。つまり愚直なまでに十字架のキリストの福音のみを語ることがパウロの全 生涯を通じて変わらぬ伝道の基本方針になったのです。偶像崇拝の愚かさを哲学的に証明する のではなく、むしろ大胆果敢に十字架の福音のみを語ることによって、全ての人々にキリスト による救いの確かさを証しすることを願ったのです。2章3節以下に「わたしがあなたがたの 所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣 教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたが たの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」とあるとおりです。 この「そして」という言葉は「それゆえにこそ」という意味です。パウロはコリントでは「巧 みな知恵の言葉」を全く用いなかった。それゆえにこそ、そこでの伝道は「霊と(神の)力と の証明による」ものになったのです。それは「あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神 の力によるものとなるためであった」。パウロはここに伝道者としての再出発をしたと言って 良い。おのれの力に少しも頼らず、ただ聖霊と神ご自身の力によって十字架のキリストのみを 宣べ伝えるのが私たちの伝道です。そこにのみ本当の教会が建てられ強められてゆくのです。  コリントはある意味でアテネよりもさらに世俗化した伝道困難な都会でした。しかしパウロ のこうした伝道の結果、そこには有力な教会が建てられ、救いに与る人々が日ごとに増し加え られてゆきました。さきほどアテネ伝道は人の目には失敗に終わったと申しましたが、その失 敗の中からコリントの教会が生まれたことを思うとき、伝道の成果は決して数や教勢で判断で きないことを教えられます。むしろアテネ伝道の結果、裁判人デオヌシオ、そして婦人ダマリ スが洗礼を受けたと記されている事は、彼らのその後の生涯が勇敢な主の証人の生涯であった ということを示しています。スコットランドの片田舎の教会で、モファット牧師のたった一人 の受洗者リビングストン少年はアフリカ全土に福音を伝える伝道者に成長しました。私たちも また一人びとりが「神の力による」まことのキリスト者へと、教会によっていよいよ成長して ゆくことを求められているのです。  終わりに、私たちの教会は日本という文化土壌の中に建てられてゆくものです。そのことを 忘れて本当の伝道はできません。教会は文化的真空地帯の中に建つものではなく、それぞれ独 自の文化という土壌の上に建つキリストの身体です。文化には長所もあれば短所もあります。 アテネの文化は衒学趣味という短所を持ち、コリントの文化は退廃主義という短所を持ちまし た。そうした文化はキリストの福音が宣べ伝えられ、真の教会が建てられることによってのみ、 はじめて祝福された完成へと導かれてゆくのです。どのような文化もキリストの贖いなくして は虚しいのです。文化は人間の罪から離れたものではありえないからです。ただ十字架のキリ ストによってのみはじめて文化は罪の縄目から解き放たれ、本当の輝きを放つものとなるので す。私たちはこの日本という文化の中に建つ教会に連なる者として、いよいよ福音の伝道の務 めを忠実に果たし、礼拝者としての生涯を全うし、神の御力によるところの生きた証しをなし、 いよいよ喜びと感謝をもって主の御身体に仕えて参りたいものです。