説    教    詩篇139篇12節   第二コリント書4章16〜18節

「復活 」

 2012年  イースター礼拝 2012・04・08(説教12151425)  イースター礼拝(復活日主日礼拝)を迎えました。西暦325年のニカイア公会議のおり、ニカ イア信条と並んで決定された最も重要な決議事項はイースターの日の制定でした。それまで各 地域の教会でまちまちであったイースターの日が「春分の日の次の満月の次の日曜日」と定め られたのです。なによりもそれは「全ての主日(日曜日)が主の復活の出来事の上に成り立ってい る」という信仰告白のあらわれでした。私たちもまたその信仰の生きた伝統の上に堅く立つも のとされているのです。  この日はご存じのようにキリストの復活の日ですが、聖書はキリストの復活がただ「イエス・ キリストというかたが2000年前に墓から甦られた」という出来事にとどまらないことを告げ知 らせています。なによりもそれは、キリストを信じキリストの御身体なる教会に連なる私たち 自身の復活の喜びを告げる音信だからです。キリストの復活は私たちの救いのための復活なの です。聖書はキリストの復活を「神はキリストを甦らせられた」と神を主語として語ります。 それはキリストは「人間としては死なれたけれども神としては復活された」ということではな く「真の人にして真の神なるキリストが復活された」出来事こそ復活だからです。キリストの 復活は私たちの「からだの甦り」とひとつなのです。  私は高校生の時、クラスでいちばん親しかった友人を急性白血病で失う経験をしました。陸 上部の選手で共に人生を語り合う仲でした。わずか一週間の入院の後の16歳の突然の死でした。 古い農家である彼の自宅で営まれた葬儀に私は級友たちと一緒に出席しました。友人の遺体は テレビの時代劇でさえ見られなくなった樽型の棺桶の中に押し込められていました。僧侶の読 経のあと、友人の家の先祖代々の墓地まで私は級友たちと共に棺桶を担いで歩きました。墓地 には深い穴が掘ってあり、私たちはそこに友人の棺桶を静かに降ろし上から土をかけました。 そこには無情な絶望と虚無だけがありました。喩えようもない空しさと悲しみに打ちのめされ た経験でした。  私はその友の突然の死を通してはじめて“人生の厳粛さ”に目覚めさせられたのみならず、 人間の救いはこの葬りの絶望と虚無の中にあらねば本物ではないと考えさせられました。高校 生の私は町の書店で一冊の聖書を買い求め、創世記から黙示録まで何度も通読しました。しか し知識としての学びには限界があると感じました。聖書の告げる福音そのものに触れたいと強 く願いました。当時の私は高校まで往復50キロの自転車通学をしていました。その途中に小さ な教会があったのを思い出しました。そこを訪ねれば聖書を正しく教えてくれる。そう思って 高校2年の4月6日に生まれて初めて礼拝に出席しました。8か月後のクリスマス12月21日 に洗礼を受けました。これが私がキリストへと導かれた契機となった出来事です。  仏教では死は諦めるべき人間の定めであると教えます。私たちは愛する者を死の手から取り 戻すことはできない。死の波にさらわれた者を再びもとの岸に立たせることはできない。それ なら悟りを開いて極楽に往生するほかに救いはないと説くのです。生死を超越した悟りに達す れば無我の境地が開かれるかもしれません。しかしその「悟り」とは千万人に一人の稀な者の みが為しうることです。「悟れない」99.9パーセントの人間にとってはそれは「救い」ではあり えないのです。  聖書が告げている人間の「救い」はそのような「悟り」とは根本的に違います。その最も大 きな答えこそ今日のこの日、つまりイースター(復活節)の出来事なのです。主イエス・キリ ストの甦り(復活)の出来事です。キリスト教の本質は復活にあります。私たちのために永遠 の死を死なれ、墓に葬られ、甦って下さった主イエス・キリストに“すべての人の真の永遠の 救いがある”と聖書は告げるのです。だから“キリストの復活”というより“復活されたキリ スト”が大切なのです。つまりこの世界に「復活」という奇跡的な出来事(超常現象)が起こ ったというのが中心ではなく、絶対にありえないこと(死が生命に呑みこまれてしまうという こと)が唯一の神の御子イエス・キリストの私たちに対する測り知れない愛において起ったの です。  この「絶対」ということを言うなら、なにより私たち人間には絶対に“死の壁”を突き破る ことはできません。死を超えた生命は私たちの中には絶対に無いのです。その絶対に無い真の 生命を「真の人にして真の神」なる主イエスのみが絶対に私たちに与えて下さるのです。主は 父なる神の限りない愛の御心をご自分の心となさり、私たちの測り知れない罪を十字架におい て担われ、ご自分の生命を献げて罪の贖いとなられました。この主イエスを父なる神は墓から 甦えらせたもうた。その復活の生命が私たち一人びとりに教会を通し御言葉と聖霊によって絶 対に注がれているのです。復活の主は過去の偉人ではなくいま私たちに臨在しておられる生き た現在の主です。だからキリストの復活は生きたキリストに連なる全ての者の復活の生命を絶 対に約束しているのです。そこに「イースターおめでとう」と挨拶を交し合う根拠があるので す。  私たちが親しい者、愛する者の死という現実に直面して感じることは「決してあってはなら ぬことが起った」という思いです。死は人の世の常なれど、私たちはそのたびに新たに死の重 みに向き合わされます。「あってはならぬこと」それが人間の死の現実です。石川啄木の歌に「剽 軽の性なりし友の死顔の青き疲れが今も目にあり」という歌があります。「剽軽」であった友の 生前のイメージと「死顔の青き疲れ」とのギャップが啄木を打ちのめすのです。啄木はそこに 人間の死の真相を予感して慄然とし「あってはならぬことが起った」と感じたのです。それは 突き詰めるなら、私たち人間が“あるべき所にない”という現実から起るのです。それこそ人 間の「罪」の現実です。私たちの「あるべきところ」とはもちろん父なる神の愛のもとです。 しかし私たちは真の神から離れたまま「神に叛かずには生きておれない」自分を当然のものと している。そこに自分の生命と自由があると思いこんでいる。しかし神から離れて私たちに生 命はなく、神の御声に叛いて本当の自由はないのです。その「罪」あるがために私たちは「あ るべき」父なる神のみもとにおらず、逆に「あるべからざる」死の支配に「おる」者になって しまっている。この罪の現実がこの世界をして「あってはならぬことが起る」世界としている のではないでしょうか。  だからパウロは「死は罪の結果である」と語ります。人間にとって自然である「死」をさえ 自然ならざる「滅び」にしてしまうのが罪の圧倒的な力なのです。するとどうなのでしょうか。 私たちは「死」に圧倒され支配されたまま敗北するほかはない存在なのでしょうか?。「あるべ きところ」に「おらない」さかさまな存在でしかないのでしょうか?。「悟り」も開きえぬ私た ちに「救い」はあるのでしょうか?。そこでこそ聖書ははっきりと私たちに告げるのです。私 たちのために「ご自分の死をもって滅びとしての死を滅ぼして下さった」唯一の主キリストが ここにおられる。主があなたの救い主であられる事実を告げるのです。  父なる神は、私たちを測り知れぬ愛をもって愛されるゆえに、私たちを罪と死から贖い真の 自由と生命を与えるために、最愛の独子イエス・キリストをこの世界に賜わったのです。ここ に聖書が語る福音の中心があり、全世界に告げられている人間の真の救いがあります。罪と死 に支配されていた私たちを救うために、主は呪いの十字架を担ってゴルゴタでご自分の全てを 献げて下さいました。まさに宗教改革者ルターが語るように「キリストの十字架の死によって 永遠の死が滅ぼされた」のです。この「永遠の死が滅ぼされた」とは、主イエス・キリストの 唯一の「死」がそれを信ずる全ての者の“復活の生命”になったということです。まさしく死 が生命に呑まれたのです。  悟って死を回避するのはキリスト者の道ではありません。ただ最愛の独子を私たちのために 賜わった測り知れぬ愛をもって、罪の塊のような私たち、死の縄目に支配されている私たちを、 神はあるがままに贖い取って下さったのです。私たちの「死」はキリストの「唯一の死」によ って「滅ぼされた」のです。そのキリストの十字架の恵みのもとでこそ、私たちはもはや死に 支配されず、キリストの復活の生命に覆われた者とされているのです。神の永遠の愛のご支配 のもと、勇気と感謝をもって生きる者とされているのです。それゆえパウロは今朝の第二コリ ント書4章16節において「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は 滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と語りました。もはや「死」さえも私たち を主の御手から引き離しえないのです。  ローマ書8章37節以下を拝読しましょう。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによ って、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死 も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、 その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを 引き離すことはできないのである」。イースターの福音は「キリスト・イエスにおける神の愛」 こそ私たちの真の救いであり、世界を救い新たにする唯一絶対の生命であるという音信です。 まさに私たちのために神の独子が、この世界のどん底に降りて来て下さった。そこで私たちの ために十字架を担われ、永遠の呪いの死を私たちに代わって死んで下さった。まさに十字架の キリストのみが、私たちのために堅い死の壁を打ち砕き、私たちを神の民とし、復活の生命に あずからせて下さったのです。死を超えてまでも私たちは神の御手に捕えられているのです。 その恵みにおいてこそ私たちは「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」 者とされているのです。  教会またこの礼拝は、この復活の主の生命に覆われた者たちの集いです。礼拝は私たちが永 遠の生命に預かる者とされた目に見える印であり、そこに主は全ての人々を招いておられるの です。私たちもやがてこの世の生を終えて天に召されるでしょう。そのときこの礼拝の喜びと 幸いがいよいよ明らかになります。私たちは永遠の御国において完全な聖徒の交わり・礼拝者 の喜びと平安にあずかり、キリストの生命に預かる者とされているのです。そのような者とし ていま歴史の中に、歴史の救い主であられる主の御手に支えられて、復活の生命を生きる者と されているのです。死を超えてまでもキリストの愛が、キリストの生命が、私たちを生かしめ、 支え、慰め、満たして下さるのです。イースターおめでとうございます。まことに主はあなた のために復活されました。