説     教    詩篇18篇9節   ガラテヤ書3章13節

「救いなき者の救い」

2012・01・29(説教12051415)  私たちの人生には、どうしても解釈ができない不条理があります。言葉にならない出来事と いうものがあるのです。旧約聖書にヨブ記があります。ヨブは主の前に正しく信仰の深い人で した。しかしある日突然、彼の身の上に信じられない悲劇が起こります。男の子7人と女の子 3人、ヨブの子どもたち10人が揃って楽しく食事をしているとき、砂漠から吹いてきた猛烈な 風で建物の支柱が折れ、全員が下敷きになって死んでしまった。そればかりではありません。 羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、家も財産も一瞬にして失ってしまっ たのです。  そのときヨブは「上着を裂き、頭をそり」つつこう語ったと記されています。「わたしは、 裸で母の胎を出た。また裸で、かしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名は、 ほむべきかな」。言葉にならない不条理な苦しみの中で、ヨブはなおそこでこそ主なる神の御 名を崇めるのです。不条理な現実の中でこそ主なる神の御名を崇めたのです。  東日本大震災で「被災地の人たちは無神論者になった」という報道をした新聞がありました。 「神も仏もあるものか」被災地のあの惨状を見てそう思うのは人間の本心でしょう。しかしそ れゆえにこそ、真の救いを(真の神を)求めてやまないのが人間なのではないでしょうか。被 災地の人々は「無神論者になった」のではありません。「真の救いを求めてやまない人になっ た」のです。それは被災地の人々だけではなく、全ての人間がそうなのです。全ての人間が心 のうちにある願いは「この自分の存在を死を超えてまでも支えて下さる真の神がおられるの か?」という問いだからです。言い換えるなら「この私に本当の救いはあるのか?」という問 いです。「人間がなしうる最後の行為」「人間の語るべき最後の言葉」とはなにかという問いで す。  私たちは、神をほめたたえるということ。私たちがいまここで献げている礼拝は、ほんらい 何であるかを忘れてはならないのです。人間が真に人間であることの自由と平和、喜びと平安 が、復活の生命が、ただ贖い主なるキリストのもとにのみあるのです。そのキリストに、身も 心も魂も結ばれた者として、贖われた者として生きること、「キリストの内に自分を見いだす」 者になること、キリストの生命にあずかること。それこそ私たちがいま献げている礼拝なので す。  今朝の詩篇18篇において詩人は「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。主はわが 岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救いの角、わが高きや ぐらです」と告白、歌っています。しかしこの詩篇18篇の詩人は、不条理な苦しみや悲しみ から無縁であったからこのように神を讃美したのではありません。むしろその逆でした。それ は続く4節以下を読むと一目瞭然です。「死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わた しを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わた しは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました」。  「死の綱」「滅びの大水」「陰府の綱」「死のわな」これらはすべて不可抗力のどうにもなら ない苦しみの数々です。自分はそれらによってがんじがらめに縛られ身動きができずにいると、 詩人は自らの絶望を主なる神に訴えているのです。恐ろしい不条理の数々が詩人の人生に立ち 塞がり、いまや彼を「死のわな」に落としこもうとしているのです。最初の「滅びの大水」と いう言葉は直訳すれば「ベリアルの濁流」です。この「ベリアル」とは新約聖書では「サタン」 のことですが、ほんらい「不可能」という意味の“ベリー”と「這い上がる」という意味の“ヤ アル”が合わさった言葉です。つまり「誰一人そこから這い上がることのできない場所」とい う意味です。つまり詩人は、自分が経験している苦しみを「決して這い上がることのできない 深い淵」に喩えているのです。  私たちの人生にも、そのような「深い淵」が現れることがあります。今朝の詩人と同様に「死 の綱は、幾重にも張り巡らされ、身の毛もよだつ奈落の渦がわたしを呑みこみ、陰府の綱が絡 みつき、死のわなに陥る」という経験をすることがあるのです。親しい者の突然の逝去、健康 であった人が病気に罹ること、人間関係に絶望し追い詰められること、仕事上での思わぬトラ ブル、計画していたことの無残な失敗など、自分の力ではどうすることもできない数々の「ベ リアルの濁流」が私たちをも呑みこもうとするのです。なによりも私たちは罪を持っています。 たとえば言葉ひとつにしても、私たちは他人を簡単に言葉で殺すことがある。「自分は殺人な どおかしていない」と言う人も、実は言葉で平気で人を殺していたりします。だからこそ私た ちは問います。「神が支配しておられるこの世界にどうしてこのような不条理が存在するの か」と。「どうして私たちの人生に起こるこんなに惨いことを神は許しておられるのか」と…。 問わずにはおれないのです。  聖書は、詩篇は、まさにその「問い」の中からこそ、唯一の救い主なる神を見上げています。 そればかりではない。実は驚くべきことに、主は私たちが問うよりも遥かに先に、私たちと共 にいて下さるかたであることが示されています。それが6節の御言葉です。「主はその宮から わたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました」。そして、主は答えた もうのです。どうやってでしょうか?。続く7節がそれです「そのとき地は揺れ動き、山々の 基は震い動きました。主がお怒りになったからです」。主なる神は、私たちが苦しみの中にあ るとき、地を揺り動かすほどの御力をもって、最も小さな者の祈りにさえ答えて下さるかたな のです。私たちに対する主のお答えによって「山々の基」さえ震い動くのです。それはどうい うことを示しているのでしょうか。  その答えは、今日の詩篇の9節にあるのです。「主は天をたれて下られ、暗闇がその足の下 にありました」とあることです。私たちはこの「主は天をたれて下られ」とある御言葉を心に 留めたいのです。元々のヘブライ語を直訳すれば「天を押し曲げて」ということです。ほんら い「天」は完全であるべきものです。「天」が「押し曲がる」ことはそれ自体が大きな破壊で す。それならば主なる神は「天を破壊してでも」私たちの救いのために御業をなして下さる、 天をひし曲げてでも私たちのもとに来て下さり、私たちを支え導き生命を与えて下さるかたで あると示されているのです。一昨日の祈祷会で学んだ旧約聖書・雅歌5章15節にも「その足 のすねは金の台の上にすえた、大理石の柱のごとく」とありました。キリストの御業のことで す。キリストは私たちを救い祝福の生命を与えるために「金の台」すなわちこの世が最も尊し とするものさえ足台にして私たちのもとに来られるかたなのです。主のまなざしは最も小さく された者、最も弱くされた者、最も価値なきに見える者に向かって注がれているのです。それ こそ主なる神みずから(古代ヘブライ人が鋼のように堅いと考えていた)堅い天を「押し曲げ て」まで地上に降られ、歴史に介入され、私たちと共にありたもうまことの神の御姿なのです。  聖書が語る福音の本質は、まことの神が私たち全ての者を限りなく愛されるがゆえに、私た ちの救いのために、私たちのありとあらゆる不条理(罪の現実)に「天を押し曲げて」までも 介入された(連帯された)という事実にあります。この主なる神の行為を別の言いかたで、今 朝の詩篇は19節に「主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引き上 げ」たもうたと語っているのです。この「大水から」とは、先ほどの「ベリアル」(誰一人そ こから這い上がることのできない場所)です。そこから私たちを救い出して下さるかたこそ、 歴史の主なるキリストであられるのです。  新約聖書のガラテヤ書3章13節に驚くべきことが記されています。それは「キリストは、 わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さっ た」という福音の音信です。実は今日の詩篇18篇の御言葉は、十字架の主イエス・キリスト の御姿を鮮やかに私たちに示すものなのです。神は私たちを罪と死という最大最強の不条理か ら贖い、永遠の生命に甦らせ、父と御子と聖霊なる永遠の三位一体なる神との交わりの内に招 き入れて下さるために(神の愛においてこそ私たちを人間たらしめて下さるために)堅い鋼の ような天をも引き裂いて私たちのもとに降られ、私たちの罪の極みに連帯して下さったのです。 それが十字架の主イエス・キリストのお姿なのです。「わが神、わが神、なにぞ我を見棄てた まひし」。この十字架上の主の叫びこそ、私たちの不条理を一身に担われた神の御子のお姿で す。  神は、並びなく聖にして清きかたであられるからこそ「神」ではないでしょうか。その神が 私たちの救いのために、私たちの「のろい」をご自分のものとして下さったのです。パウロは その事実を「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって」と記します。ただ「背負われ た」という生易しいものではないのです。キリストみずから神に呪われる者になって下さった。 「のろいの木」である十字架にかけられるかたとなって下さった。そのようにして私たちを「律 法ののろい」すなわち罪と死の支配から贖い出して下さったのです。これは言い換えるなら、 永遠に聖なる神が神の外に出て下さったということです。神が神ではない者になって下さった ということです。  キリストは神の外に出て、罪人なる私たちが担うべき究極の「のろい」である永遠の死を死 なれ、そのようにして私たちにご自分の復活の生命を与えて下さいました。この主なる神の御 業のゆえに、私たちはいかなる時にも神を崇め、神を讃美し、御言葉に養われ、礼拝を献げ続 けてやまないのです。礼拝を、人間のなしうる最後の究極の行為として献げてやまないのです。 それは毎回凄まじいまでに厳粛なものであるはずです。十字架と復活の生命の主・贖い主なる キリストが、聖霊と御言葉においてここに現臨しておられるからです。この主が私たち全ての 者のために「天を引き裂いて」まで降って来て下さったからです。ここに私たちの「生きるに も、死ぬにも、永遠に変わることのない慰め(生命の生命)」があるのです。  実にこの生命に支えられ、この主が共にいて下さる恵みの限りない豊かさのゆえに、私たち は臨終のきわにおいても、死を超えてまでも主が共にいて下さることを知るのです。椎名燐三 が語るように「洗礼を受けた私は、もはや美しく死にざまを飾る必要はない」のです。たとえ 安らかに召されるのでなくても、そのあるがままで良いのです。主はいかなる時にも私たちの 全存在を、すでに御手の内に永遠に受け止めていて下さる。決して私たちを離れたもうことは なく、私たちに祝福の生命を満たして下さるからです。それゆえにこそ、私たちは「主よ、我 信ず、信仰なき我を憐れみたまえ」と祈りつつ、日々に御名を讃美しつつ、十字架の主に贖わ れた者として、心を高く上げて生きてゆく僕であり続けることができるのです。