説     教    詩篇106篇19〜23節  ヨハネ福音書15章13節

「破れ口に立たれる神」

2011・12・11(説教11501407)  旧約聖書の箴言22章11節に「心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友と なる」とあります。この「心の潔白さ」とは主なる神の御言葉(イエス・キリストの福音)に 対する忠実さ、つまり御言葉を正しく聴く姿勢(信仰)を現わしています。そして「王」とは もちろん主イエス・キリストのことです。そこで「潔白」の「潔」とは「いさぎよい」という 字ですが、私たちは主の御前にいつも「潔く」自分の心と生活を明け渡しているでしょうか?。 12世紀の神学者・アンセルムスは「われ知らんがために信ず」と言いました。私たちはそれと 逆の生きかたをしていることが多いのではないか。私たちはまず自分が納得してその後に信仰 があるのだと勝手に思っています。それは傲慢な姿勢であり「心の潔白さ」とは正反対です。 私たちに語られているのは聖にして義なる永遠の神の言葉です。私たちに求められていること は、その福音そのものであられる主イエス・キリストを信じることです。われを招きたもう主 の御声に「潔く」従うことです。そこから全てが始まるのです。  言い換えるなら“神われに語りたもう”この単純な驚くべき恵みの事実に潔く健やかに(信 仰をもって)立つ者となることです。「われ知らんがために信ず」とはそのような信仰の姿勢 です。私たちがいつも神の言葉を正しく聴く礼拝者として生きることです。それこそ聖書が語 る「心の潔白さ」であり、それが私たちの「唇に品位」を与えるのです。私たちの言葉がキリ ストの恵みの麗しさを語る器とされてゆく。主の証人とされてゆく。その恵みを私たちは主か ら賜っている。そして「王(キリスト)がその(私たちの)友と」なられるのです。永遠にして聖 なる神が私たちの罪の贖いのために世界の最も低い所に人としてお生まれ下さった。私たちを 訪ね求めて来て下さった。そこで私たちの「友」となって下さった。主がまず私たちを「友よ」 と呼んで下さる事実にまさる恵みがあるでしょうか。  私が小学生のころ「道徳」という授業がありました。昔で言うところの「修身」でしょうか。 小学生にとってはかなり分厚い教科書に、こういう話が載っていました。昔オランダにハン ス・ブリンカーという少年がいた。ハンスは毎日堤防の上を通って学校に通っていた。オラン ダは国土の大部分が海面よりも低く、堤防によって町が守られています。するとハンスは堤防 に一箇所小さな穴が開いて、そこから水が滲み出ていることに気がついた。彼はまず自分の腕 をその穴に入れて水を止めようとした。しかしだんだん穴は大きくなる。ハンスは次に自分の 足を入れて防ごうとした。それでも水は止まらない。ついにハンスは身体ごとその穴を塞いで 水の浸入を食い止めた。翌朝になって人々がハンスを見つけた時には、かわいそうに寒さのた め死んでいたという話です。この話はあるアメリカ人によって世に伝えられたということです が、もしこの少年が身をもって穴を塞いでいなければ、やがて堤防全体が決壊し町が濁流に飲 みこまれていたことは事実なのです。つまりハンス少年は身をささげて多くの人々の生命を救 ったのでした。  今朝、私たちに与えられた詩篇106篇19節以下は、まさにこの出来事のように主なる神が 私たち人間の罪という「破れ口」にお立ちになった。その「破れ口」とは罪と死の吹き出す私 たちの世界の現実です。つまり神みずからその「破れ口」の奔流から私たちを救うために十字架 による贖いの御業を成し遂げて下さった救いの出来事が告げられているのです。主イエスはヨ ハネ伝15章13節で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」 と教えたまいました。いったい私たちのうち誰が神に「友」と呼んで戴けるに相応しい人間で しょうか。誰一人として神に「友」と呼ばれるに値しない私たちです。御言葉よりも自分を上 に置き「納得してから信じよう」などと平気で考えている私たちです。キリストの招きの御声 が聴こえなくなる私たちです。そのような私たちのために、キリストは罪のどん底にまでお降 りになり、ご自分の身を挺して私たちの「破れ口」に立たれ、ご自身の十字架の恵みをもって 私たちを「友」と呼んで下さったのです。  すると、どうなるのでしょうか。私たちが持つべき「心の潔白さ」とはまさしく、私たちの 罪という「破れ口」に立って下さった(いまお立ちになっている)主イエス・キリストに対す る全き従順ではないでしょうか。それこそ主の弟子たちがガリラヤ湖畔において「われに従え」 と招かれた時にただちに主に従ったように、私たちも礼拝者として、礼拝から始まる日々の生 活において「われに従え」と招きたもう主の御声に「潔く」従順に従い行く者たちでありたい と思うのです。  さて、今朝のこの詩篇106篇23節では神の僕モーセが「破れ口に立った」とありますが、 それは次のことを意味しています。古代のイスラエルでは町は外敵からの侵略を防ぐために高 い城壁で囲まれていました。その城壁のどこか一箇所でも破られることはその町全体の滅亡を 意味したのです。旧約聖書の列王記下25章4節に「町の一角が破れた」とあるのがそれです。 ですから「破れ口に立つ」とはその滅亡の発端となるその「破れ口」(突破口)に身を挺して 立ち塞がり、敵の攻撃を一身に引き受けることでした。このことは3つのことを私たちに教え ています。  第1に「破れ口に立つ」とは“死ぬことである”ということです。これについてはエゼキエ ル書22章30節に「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、 わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった」とあり ます。主なる神はこの世界が罪の侵略によって滅びてしまわないように「破れ口に立つ」者が いないかと尋ねたけれどもそれは一人も「得られなかった」というのです。これは何を意味す るかと言いますと、私たち人間には「罪」という「破れ口」を修復する力もこれを防ぐ力も無 いということです。私たちは罪に対しては完全に無力な者でしかないのです。  第2に、これはいま申したことと関連していますが「破れ口に立つ」とはその者が世界のた めに“罪のための執成しの祈りを献げる”ことを意味します。この「執成し」とは「贖い」で あり「犠牲」です。そうすると、これこそ私たちには“なしえないこと”だとわかるのではな いでしょうか。私たちは自分一人の罪を贖うことさえできない者です。死すべき自分の罪をさ え如何ともなしがたい存在です。ましてや世界のため、全ての人の罪を「執成す」ことがどう してできるでしょうか。  第3に「破れ口に立つ」とは歴史における個人のありかたを示すものです。ヘーゲルという 哲学者は「およそ世界の歴史は人間の情熱(Leidenschaft)なしには動きえない」と語りまし た。しかしそこでヘーゲルが語る「人間」とは単数であり、それは唯一の神の御子イエス・キ リストをさしています。またドイツ語の「情熱」(ライデンシャフト)はキリストの十字架の苦 難と死を現しています。つまり旧約聖書はここではっきりと神の僕モーセの「破れ口に立つ」 「民の罪のための贖いをなす」姿は、私たち人間の限界と同時に神の御子イエス・キリストの 十字架の出来事(あの唯一のご受難と死)を物語っているのです。すなわち先ほどのヨハネ伝 15章13節「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とは十 字架の主においてのみ成就した救い(贖い・執成し)の出来事なのです。  さて今朝、私たちはもうひとつの聖書の御言葉・ルカ伝22章39節以下を与えられています。 そこに記されているのは主イエスの「ゲツセマネの祈り」です。この祈りそのものがすでに私 たちの測り知れぬ「破れ口」にお立ちになる主の十字架を示しています。何人も立ちえぬ私た ちの罪の「破れ口」にただ神の永遠の御子キリストのみが毅然としてお立ち下さったのです。 この「ゲツセマネの祈り」は私たちの「罪」が生み出した2つの破壊的な「破れ口」で献げら れました。まず十二弟子の一人ペテロが主イエスを3度までも裏切った出来事(それは34節に 出てきます)。次に同じく十二弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りが47節以下に出てくる のです。この2つの「破れ口」から知りうることは、主イエスにとっての“愛の選択”の持つ 熾烈なばかりの厳しさです。私たちに対する測り知れぬ愛のゆえに主イエスは呪いの十字架を お一人で担われ、ゴルゴタにおいて釘付けられ、贖いの死をもって私たちの罪(破れ口)にお立 ちになられたのです。  しかもその主イエスの熾烈な愛に対して、私たち人間の側からはいささかも感謝と従順が献 げられはいない。むしろ私たちはそこで十字架を担われる主イエスに対して罵りと嘲りをもっ て報い、主の御名を3度も否み、銀貨30枚で主を裏切り「破れ口」を大きくしてゆくだけな のです。怒涛のように渦巻く私たち人間の不信と裏切りの嵐の中で、主イエスは黙って決然と して十字架を担われます。福音の中心である主イエスの十字架の死そのものが既に私たちの底 知れぬ「破れ口」の中にあったのです。「王がその友となる」との冒頭の箴言の御言葉は重い のです。私たちのどこに主イエスに「友」と呼んで戴ける価値があるのでしょうか?。どこに も少しもないのです。しかしまさにその“救いが余地のない”という決定的な「破れ口」にこ そ私たちの主は十字架を担われお立ちになった。両手両足を釘付けられつつ、全ての人々のた めに罪の赦しと祝福を祈られたのです。  フランスの思想家パスカルは「パンセ」という本の中でこの場面について次のように語って います「イエスは少なくとも、その3人の最愛の友に多少の慰安を求めたもう。しかし彼らは 眠っている。…イエスはただ独り、地上にいたもう。彼の苦痛を感じ、それにあずかる者がい ないのみではなく、それを知る者さえない現実の中で…。それを知るものはただ、天の父と彼 のみである」。ただひとり主イエスのみが底知れぬ私たちの「破れ口」に、修復不可能な罪の現 実の中に、十字架をもってお立ち下さいました。だからこそ私たちはそこに永遠の「救い」を 見いだします。その救いがいま聖霊において御言葉とともに現臨したもう受難と復活の主イエ スにより、この礼拝において豊かに与えられていることを知るのです。だからパスカルは続け て申します。「主イエスは世の終わりに至るまで御苦しみの内にありたもう。その間、われわ れは眠ってはならない」と。この「眠ってはならない」とは「堅く信仰に立つ歩みをしようで はないか」という勧めです。  最初の箴言22章11節で言うなら、そこでこそ私たちは「潔い心」を持つ主の僕となるので す。主の御招きの声にただちに従う私たちでありうるのです。この主の恵みと祝福に私たちの 生活と存在の全体を明け渡す者でありたい。その信仰の志においてひとつとなり、ともにこの アドヴェント第3週の日々を、御降誕と十字架の主を見上げて祈り深く過ごし、そして25日 にはともに限りなく主の御栄えを讃えるクリスマス礼拝を迎えたいと思います。