説    教   詩篇22篇14〜16節  ヨハネ福音書19章28〜30節

「キリストの渇き」

2011・05・08(説教11191376)  今朝のヨハネ伝19章28節以下の御言葉において、私たちはまさに主の十字架の出来事に真 正面から向き合います。それは「十字架に死なれた神の子」の出来事です。このことについて 使徒パウロ第一コリント書1章22節以下にこう語りました。「ユダヤ人はしるしを請い、ギリ シヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。こ のキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者 自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」。  主イエス・キリストは私たち全ての者のために呪いの十字架におかかり下さり、ご自身の死 をもって死を滅ぼし、贖いとなって下さいました。今朝のヨハネ伝19章28節には「そののち、 イエスは今や万事が終ったことを知って、『わたしは、かわく』と言われた。それは、聖書が 全うされるためであった」と記されています。死にゆく人が渇きを訴え水を欲することは私た ちの日常にも聊か覚えあることです。しかし主イエスが「わたしは、かわく」と言われたのは それだけの理由ではありますまい。マシュー・ヘンリーという聖書学者が今朝のこの28節に ついてこういうことを語っています。「主イエスはまさしく『わたしは、かわく』と十字架の 上で仰せになった。ほかならぬ神の唯一の御子が、そのように言われたことによって、私たち はまさに、ルカ伝16章に記された、あの出来事に思いを致すべきである」。  この「ルカ伝16章に記された、あの出来事」とは「富める人と貧しいラザロの物語」のこ とです。ある金持ちがいて、神をも畏れることなくただ毎日を贅沢に遊び暮らしていた。その 金持ちの家の門前に乞食をしていたラザロという信仰の厚い人がいた。赤貧洗うがごとき彼の 全身の腫物を犬が舐めていた。悲惨な境遇です。しかし金持ちはラザロにパンの一切れさえ与 えようとはしませんでした。やがてラザロは死んで天国に迎えられ、金持ちも同じように死ん で陰府に落ちました。この金持ちが陰府の苦しみの中から目を天に上げると、そこにはアブラ ハムのふところで祝福を受けているラザロの姿が見えました。そこで金持ちは堪らずアブラハ ムに向かって叫ぶのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをお遣わし になって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中 で苦しみもだえています」。しかし彼の願いは叶えられませんでした。「では」と金持ちは申し ます。こんなに苦しいところに来なくて済むように、生きている兄弟たちに警告して下さい。 その願いも却下されました。生きているとき一度かぎりの人生の中でまことの神を信じて悔改 め教会に連なって歩むのでなければ、悔改めの機会は永遠に訪れないことをこの物語は私たち に教えています。死んでから陰府の苦しみの中で気がついても“時すでに遅し”なのです。  この厳粛な生と死に関わる私たちの出来事と今朝の御言葉に示された主イエスの十字架上 の御言葉は、まさにあの「金持ち」のようでしかありえない私たちの「罪」の姿の中でこそ測 り知れない意味を持つのです。それは、ほかならぬ神の御子イエス・キリストのみが、私たち の「罪」のいっさいの現実の中で「わたしは、かわく」とご自身の渇きを訴えて下さったこと です。私たちは十字架の主の死によって死から救われるように、まさにこの主の「渇き」によ ってのみ究極の「渇き」から救われる存在なのです。まさしく主は陰府にいて満たされえぬ「渇 き」に叫ぶ者のために、まずご自身が「わたしは、かわく」と訴えて下さったかたなのです。  ところが、そのような深い十字架の愛と真理を悟りえぬ者たちが、それは単なる肉体の渇き を訴えているのだと思い、29節をご覧になってわかるように「酢いぶどう酒」を含ませた海綿 をヒソプの枝の先につけ主イエスに飲ませようとしました。これは十字架にかけられた犯罪人 の苦痛を和らげるために許されていた唯一の憐れみでした。他の福音書を見ますと主イエスは それを「お受けにならなかった」と記されていますが、今朝のヨハネ伝19章29節には逆にそ れをお受けになった様子が示されています。これはどちらかが間違っているのではなく「酢い ぶどう酒」はおそらく幾度となく差し出されたのだと思います。そして何度目かに差し出され た時にはもう主イエスにそれをお受けになる力さえ残っていなかったのでしょう。このように 福音書によって記述に矛盾があることはかえって十字架の出来事の真実さを私たちに物語る とともに、それを目撃していた弟子や人々の証言の確かさを示すものです。なぜなら人間は自 分で見たことでなければ敢えて矛盾を語ろうとはしないからです。  さて、今朝の御言葉の中で私たちがもうひとつ心に留めなくてはならないことは、最初の28 節に「イエスは今や万事が終ったことを知って」とあることです。それは30節の御言葉に繋 がるものです。すなわち「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言 われ、首をたれて息をひきとられた」と記されていることです。つまりこの両方をひとつの言 葉に纏めるなら「イエスは今や万事が終ったことを知って…『全てが終った』と言われ…首を たれて息をひきとられた」のです。そこで改めて問うてみたい。いったい私たちのうちの誰が、 否、およそ人間の中の誰が、自分の人生を振りかえって「全てが終わった」と言って息をひき とることができるでしょうか?。この「全てが終わった」とは文語訳聖書では「事畢りぬ」と 訳されています。そしてその文字も文語訳では時間的な終わりを示す「終」の字ではなく「畢 竟するに(詮じつめるに)」という言葉の「畢」という字を用いています。これは救いの出来 事が完成したという意味の文字です。主イエスは十字架において息をひきとられるにあたり、 父なる神の救いの御業がいま「完成した」と宣言されたのです。それが「事畢りぬ」という御 言葉の意味なのです。  私たちは実はこれとは正反対の死にかたをする存在、と申しますよりも、正反対の死にかた しかなしえぬ存在なのではないでしょうか。ヨーロッパに伝わる古い諺に、全ての人間の本当 の墓碑銘は「残念無念われ既に死にたるか」であるというものがあります。死は全ての人間に とって想定外の(予期せぬ)人生の中断以外の何ものでもないのですそれは単に時間的な“人生 の短さ”という問題ではなく、まことの神に対する私たち全ての罪の問題なのです。つまり私 たちは罪によって生命の源である神から離れた結果、生きていてもいつも死が私たちの存在を 支配し私たちを「死ぬに死ねない」存在となしているのです。なぜ「死ぬに死ねない」のかと 申しますと、私たちにとって死は人生の完成ではなく人生との断絶にすぎないからです。私た ちは完成としての死を持ちえず、ただ断絶としての死だけを持ちうる存在なのです。  これを言い換えるなら、私たちのこの存在また私たちのこの世界も「罪」によって神から断 絶しているものなのです。幹から切り落とされた枝と同じように、最初は生きているように見 えるけれどやがてすぐ枯れてしまう存在に過ぎないのです。私たちの人生は唯一の幹である神 から離れて枯れてしまうまでの僅かな時間を生命らしきものを保っているように見える儚い 夢にひとしいのです。そして罪は私たちの肉体も魂も滅ぼします。肉体は滅びても魂は存続す るというのは幻想です。神から離れるならば肉体と同様に魂も滅びの定めにあるのです。それ ならば、まさにそのような私たちの肉体も魂も覆い尽くす果てしのない滅びの空しさの中に、 神の御子イエス・キリストは「十字架の主」として来て下さいました。そして私たちの滅び只 中でこそ「(全て)事畢りぬ」と宣言して下さったのです。あなたの上に、そしてこの全世界に、 父なる神の救いの御業が完成した、成就したと、この十字架の主のみがご自身の全存在(生命) を献げて私たちに宣言して下さったのです。もはやあなたは罪と死に支配されているのではな く、あなたは私の永遠の愛と恵みの支配のもとにあるのだと、ただ十字架の主のみが私たち全 ての者にはっきりと告げていて下さるのです。肉体も魂も全てを含めて、聖書の言う私たちの 「からだ」の全体を贖うために主は十字架にかかって死んで下さいました。「すべてが終った」 とはそういう意味です。罪と死の支配はいまや永遠に終わりを告げ、恵みによって神の民とさ れた者たちの新しい歩み、キリストに結ばれた者の幸いと自由の人生がそこに始まるのです。 カール・バルトはこう語っています「このゴルゴタにおいては、神が十字架と復活において栄 光化されたということさえもはや真の問題ではない。大切なのはそこで一人の人間が高挙せら れたという事実だけである。すなわち一人のかた(十字架の主)が神の右に挙げられ、罪と死と 悪魔に打ち勝ちたもうたという事実のみが大切なのである」。  私たちのために一人のかた、神の御子イエス・キリストのみが十字架に死なれたこと、神が 私たちのため、私たちを極みまでも愛したもうその愛のゆえに、ご自分のいっさいを献げて十 字架に死んで下さったこと、この事実にまさる大きな恵みと勝利の出来事がどこにあるでしょ うか。ここに死なれたのは神の御子(神ご自身)なのです。永遠にして不死なるかたが私たちを 極みまでも愛され、私たちの滅びを担われ、そしてこの全世界の救いと復活のためにご自身を 空しくして下さったのです。「事畢りぬ」と宣言して下さったのです。私たちのこの世界の罪 と死のどん底に神の愛の永遠の勝利の恵みを現わして下さったかたこそ私たちの唯一の救い 主キリスト「十字架に死なれた神の子」なのです。  私たちのこの世界、そして私たちの存在を呑みこむかに見える罪の支配は限りない暗黒の面 を持っています。その暗黒はどれほど深いかと言えば、神の御子の完全な自己犠牲以外によっ て贖われえぬほどに深いのです。私たちの罪はキリストの十字架の死を必要とするほど深いの です。しかしそこでこそ私たちは十字架の主はいままさに私たちのため、また全世界の罪のた めに「事畢りぬ」と宣言して「息をひきとられた」という事実をここに福音として聴き取るの です。この事実に打ち勝つ罪の支配などどこにも存在しないのです。「十字架の上に死なれた 神の子」の福音より強い罪の力など存在しないのです。それなればこそ私たちはただ十字架の 主イエスのみを仰ぎ、われらの救い主と告白し、主の御身体なる教会にしっかりと連なって礼 拝者たる歩みを心を高く上げて続けてゆきます。死に打ち勝つ人間の歩みがあるなど誰が想像 しえたでしょうか。しかしそれは厳然として私たちのただ中に存在します。それこそ礼拝者た る私たちの歩みです。それはただ十字架の主のみを仰ぎつつ十字架の主に結ばれて歩む私たち の信仰の歩みです。  それゆえにこそ、キリストに結ばれて生きる全ての者の人生において、もはや死さえも「断 絶」ではありえないのです。たとえ突然に予期せぬ形で死が私たちの人生を中断しようとも、 十字架の主の勝利の御手にある私たちにとって、死はもはや人生の断絶ではなく、私たちの内 に主が始めて下さった復活の生命の始まりでさえあるのです。そのことを共にしっかりと覚え、 新しいこの一週の歩みも十字架の主のみを見上げ、御言葉を正しく聴き主の僕として歩んでゆ く私たちでありたいと思います。