説    教    詩篇73篇14節   ヨハネ福音書18章19〜24節

「永遠の大祭司イエス」

2011・01・23(説教11041361)  今朝の御言葉に「大祭司アンナス」と言う人物が登場して参ります。大祭司とはイスラエ ルの全会衆の罪の贖いのために、毎年とりなしの犠牲を神殿に献げる務めを行う者でした。 数多くの祭司の中でただ大祭司ひとりだけが、神殿のいちばん奥にある至聖所に入りそこで 犠牲をささげたのです。  大祭司はいわば、当時のイスラエルにおける最高の権力者であり、神と人との間を取り持 つ決定的な権威を持っていました。言い換えるならイスラエルの民は大祭司が献げる執成し によってのみ神に近づくことができたのです。何びとたりとも大祭司の執成しなくして神の 御前に出ることはできませんでした。その意味で大祭司の務めは絶対の権威を持っていたわ けです。  そこで、今朝の御言葉であるヨハネ伝18章19節に「大祭司はイエスに、弟子たちのこと やイエスの教のことを尋ねた」とあります。主イエスはカヤパの邸宅の中庭で開かれたイス ラエル最高法院の宗教裁判において、大祭司アンナスから証言を求められたのです。主イエ スを十字架にかけるも赦すも生殺与奪の権は全て大祭司アンナスにありました。アンナスの さじ加減ひとつでナザレのイエスなど吹き飛ぶ存在だと見られていたのです。  この絶体絶命の立場にあって、もし普通の人間ならば何とかして大祭司の心証を良くしよ うとあらゆる言葉を弄したことでしょう。しかし主イエスは普段となんら変ることなく従容 平然としてそこに立っておられました。大祭司アンナスの尋問に対しても主イエスは少しも 動じたまわず、20節以下のお答えをなさったのです。すなわち「イエスは答えられた、『わ たしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教 えていた。何事も隠れて語ったことはない。なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが彼らに語 ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。わたしの言ったことは、彼らが知っている のだから』」。  この主イエスの言葉が終わるや否や、そこに立っていた「下役のひとり」が「大祭司にむ かって、そのような答をするのか」と大声で叫び「平手でイエスを打った」と記されていま す。テレビの刑事ものの取調室のシーンなどでよくある「脅し役」の刑事の役割をこの「下 役」が受け持っていたわけです。「この無礼者、おそれ多くも大祭司閣下に向かって、その 口の利きかたはなんだ!」と主イエスを脅したのです。そこに居合わせた人々の中で、それ を「酷い」と思う人は一人もいませんでした。むしろ大祭司アンナスにしてみれば自分の権 威が示されたわけですから得意であったことでしょう。天下の大祭司様に対して対等に口を きくとはなんたる無礼者よと、みんなが想ったことでした。つまりアンナスも含めて、人々 には“人間の権威”しか見えていなかったのです。  それゆえ主イエスは「なぜ、わたしにそれを尋ねるのか。わたしが彼らに語ったことは、 それを聞いた人々に尋ねるがよい」と彼らにお答えになりました。ここで主イエスが言われ る意味は、本当の証人は神の言葉を聴いた人々である。その人々に尋ねるがよいと言われた のです。当時のユダヤの法律にも「二人または三人の証人によらなければ人を審いてはなら ない」という決まりがありました。これは逆に言うなら、大祭司アンナスにとっては、民衆 の中から証人が出てくれば自分の正統性が脅かされることになるのです。人間を救う真理は 常に主イエスにのみあります。だから主イエスは23節に静かに答えて言われました。「もし わたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを 言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。それで、このことに判断のつきかねたアンナスは 主イエスに対する裁判を一時中断して、今朝の24節にあるように「イエスを縛ったまま大 祭司カヤパのところへ送った」のでした。カヤパの家はアンナスの娘の嫁ぎ先でもあり、両 者は縁戚関係にあったからです。つまりアンナスは義理の息子であるカヤパにこの難しい裁 判を預けたわけです。一連の話の流れとしてはそこで今朝の御言葉は終わっているのです。  それでは、私たちは今朝のこの御言葉からどのような福音を聴き取らしめられているので しょうか。それを読み解く鍵は大祭司と主イエス・キリストとの関係にあります。すでに私 たちが今朝の御言葉からも学んだように、ひとつの裁判の流れから言うならば両者の立場は 「審く側」と「審かれる側」の違いです。この違いはこの世の権威においては決定的なもの です。その端的な現れが主イエスの言葉に激昂した下役が主イエスの頬を「平手で打つ」と いう行為になりました。いわば主イエスは囚人として法廷に引き出されており、大祭司に向 かって反論するなど“無礼なこと”だと受け止めらたのです。  しかし、私たちのまなざしを神の御言葉(神の救いの御業の真実)に、すなわち福音の光 に向けてこの出来事を見るならば、そこに思がけない福音の真理が現れるのです。それは何 かと言いますと、今朝の主イエスのお姿の中にこそ旧約聖書に預言されたキリスト(世の救 い主)の「しるし」が輝いているということです。なによりもまず旧約聖書イザヤ書53章 に記された「主の僕の歌」の中に、今朝の主イエスのお姿とそこに現された世界に対する神 の救いの出来事がはっきりと示されているのです。  預言者イザヤはこう語りました。イザヤ書53章1節〜5節の御言葉です。「だれがわれわ れの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、 かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、 われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知って いた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばな かった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われ われは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのと がのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをう けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。  いま婦人会例会ではエレミヤ書を学んでいますが、それまでは約5年間もイザヤ書を学ん でいました。預言者イザヤのいた紀元前6世紀のイスラエルで、歴史の中に突如現われた正 体不明の「主の僕」の姿に接して人々は驚きのあまり言葉を失ったのです。それはその「人」 が背負った苦しみがあまりに大きかったため、彼の姿形さえも人間とは思えないほどに変っ てしまっていたからでした。主の前に萌え出でた「若木」は見る影もなき「かわいた土から 出る根のように」なりました。すなわちこの「人」は若くして生命を絶たれた人であったこ とがわかるのです。しかも「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの 慕うべき美しさも」ありませんでした。その反対に「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの 人で、病を知っていた」のです。「顔を覆って忌みきらわれる人」のように扱われました。 罵りと嘲りとを受け、人々によって打たれ、苦しめられ、その最後は十字架の死であったの です。  ここにこそイザヤは旧約聖書全体を貫いて全世界に宣べ伝えられている福音の本質を見 ています。驚くべき唯一の救いの福音を告げています。それはその「主の僕」こそベツレヘ ムに生まれたもうイエス・キリストそのかたにほかならないという事実です。だからイザヤ はこのように語るのです「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のため に砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷 によって、われわれはいやされたのだ」。この主イエスの測り知れないご苦難は私たちの罪 の贖いのための唯一永遠の犠牲であるとイザヤは宣べ伝えているのです。それは今朝の詩篇 73篇14節に「わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」とある姿と同じなの です。  どうしてこのかたは、神の御子なるイエス・キリストは、私たちの罪のために「ひねもす」 打たれ苦しみを担われねばならなかったのでしょう?。どうして人とも思われぬほど姿か変 るまで「懲らしめ」を受けねばならなかったのでしょう?。その理由は新約聖書のヘブル書 7章22節以下に明記されています。「このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証と なられたのである。かつ、死ということがあるために、務めを続けることができないので、 多くの人が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らな い祭司の務めを持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼ら のためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるの である」。  ここにはアンナスやカヤパなどの人間に過ぎない大祭司と、神が私たちの世界に直接にお 遣わしになった永遠の真の大祭司である主イエス・キリストとの違いが明らかにされていま す。その最も大きな違いはヘブル書によれば、人間には「死がある」ことだと言うのです。 「死がある」とは、つまり人間には全て「罪」があるということです。その「罪」あるがた めにいかに優れた大祭司といえども「その務めを続けることができない」のです。すなわち 民のための罪の贖いという務めを「全うする」ことができないのです。なぜなら大祭司自身 にも「罪」があるからです。そしていかなる犠牲といえども自分ひとりの「罪」を贖うにさ え足りないからです。  それに対して、神の御子イエス・キリストのみが「永遠にいますかた」つまり死を超えた (死に打ち勝つ)神の御子そのものであられ「変らない祭司の務めを持ちつづけておられる」 唯一のかたなのです。だからこそただキリストのみが「いつも生きていて彼らのために(私 たち全ての者のために)とりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救う ことができる」のです。  そこで、同じヘブル書の7章26節以下にはこうも記されています。「このように、聖にし て、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司 こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分 の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分 をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大 祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言(福音)は、永遠に全うされた御子を立てて、大 祭司としたのである」。  なにより大切なことは、キリストは「自分をささげて、一度だけ、それをされた」とある ことです。この「自分をささげて」こそ十字架をさしています。主は全ての人の「罪」を背 負われて十字架に死なれ、私たちの「罪」の完全な唯一の永遠の贖いを成しとげて下さった 救主です。神の御子なるキリストのみが永遠の変らぬ真の大祭司であられるのです。神の御 子みずからご自分を十字架に献げたもうて神に対する人類の罪の贖いを成しとげられたの です。いま世界は神がなされる確かな救いの約束の内にあり、神の御心のみが勝利する世界 に私たちは生きているのです。  実にキリストは永遠の大祭司として「いつも生きていて」全ての者のために「とりなして おられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができる」のです。主イエス・ キリストによって、私たちは堅く神に結ばれているのです。主は言われました「わたしは道 であり、真理であり、命である」。キリストを信じて教会に連なる人はあるがままに御国の 民とされ、神の子とされるのです。存在と生活の全体をもって「イエス・キリストは主なり」 との信仰告白に生きる私たちでありましょう。