説    教     ダニエル書2章20節   ヨハネ福音書17章11節

「救いの御名」

2010・10・31(説教10441348)  私たちは祈るとき、かならず祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって」と唱えま す。そしてその後で「アーメン」と告白します。私たちはこのことを本当に大切なこととして 受け止めているでしょうか。私たちがキリストの「御名」によって祈るとはどういうことなの でしょうか。  「キリストの御名によって」という言葉は、もともとのギリシヤ語で申しますなら“エン・ ホノマティ・クリストゥ”という字です。この最初の“エン”は英語の“イン”にあたります。 つまり「キリストの御名によって」とは正確には「キリストの御名の内にありて」という意味 です。私たちは「キリストの御名の内にありて」言い換えるなら「キリストの御名に守られて」 祈る者とされているのです。  そこでこのことは、祈りだけではなく、私たちの信仰生活の全体、いや私たちの人生の全体 に言えることです。私たちの全生涯がいつも「キリストの御名に守られて」生かされ支えられ ている。その恵みをいつも私たちは与えられているのです。ですから私たちが祈りの最後に「主 イエス・キリストの御名によって」と唱えるのは“ただ習慣だから”ということではありませ ん。「私の人生は、主よ、あなたの御業の現れる場所なのです」と告白しているのです。マリ アのように「わたしは主の僕です。御言葉どおり、この身になりますように」とお応えするこ となのです。  なによりも今朝のヨハネ伝17章11節において、主イエスは私たちのためにこう祈られまし た。「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみも とに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわた したちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。この11節の主イエスの祈り は3つの部分からなっています。第1に、主イエスは十字架にかかられて死なれ、復活されて 天の父なる神のもとにお帰りになるということ。第2に、主イエスが世を去られるのは、弟子 たちを御名によって全てのことから守るためであるということ。第3に、主イエスと父なる神 が一つであられるように、私たちもまた堅く主に結ばれているのだということです。  そこで、第1のことは何を意味するのでしょうか。主イエスが十字架にかかられて死なれ、 天の父なる神のみもとにお帰りになるとはどういうことでしょうか?。それはヨハネ伝みずか らが詳しく語っていますが、主イエスの「栄光」と深く関わっているのです。何よりも主イエ スは、私たち全ての者のために十字架に死なれ、私たちの罪を贖われることを「わたしの栄光」 とお呼びになりました。  ふつう私たちが「栄光」という言葉で想像することは自分の栄誉や利益です。しかし主イエ スにとって「わたしの栄光」とは十字架の死のことでした。主イエスは罪人なる私たちの身代 わりとしてご自分の全てを献げたもうことを「わたしの栄光」と呼んで下さった。栄誉ではな く限りない恥辱を、利益ではなく墓に葬られることを、賛辞を受けることではなく罵られて死 ぬことを「わたしの栄光」と呼んで下さったのです。主イエスの「栄光」とは、主がお受けに なった十字架の「死」と「葬り」のことなのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。私たちが唯一の救いの御名として告白するイエ ス・キリストの御名は、いと高きにいます全能の神の御名であるのと同時に、それは何よりも 私たち罪人の救いのために限りなくご自身を低くされ、世界の罪のどん底にお降りになり、死 んで下さった主イエス・キリストの御名なのです。つまりこの御名は私たちを高みから見下ろ す超越者のものではなく、私たちのただ中に降りて来て下さり、私たちの罪と死の現実の中で 私たちを徹底的に担われた救い主、十字架の主イエス・キリストの御名なのです。  かつて中国でキリスト教に改心し、救われた喜びを告白したある人が、回顧録にこう記しま した。「自分は譬えて言うなら、深い空井戸の底に落ちてしまって、誰にも気づかれず死んで ゆくだけの存在であった。ある日、井戸に近づく人の声がした。私は「助けて下さい!」と叫 んだ。すると上から覗きこんだのは釈迦如来であった。釈迦如来が言うには「オヤオヤ、お前 はなんという因果な場所に落ちたのだ。それはお前の因縁であるからどうにもならぬ。諦めて 往生するがよい」。しばらくすると、今度は孔子がやって来て同じように井戸を覗きこんで言 った「オヤオヤ、お前がそのような惨めな場所に落ちたのは、お前の平生の悪い行いが報いた のだ。残念だがどうすることもできぬ」。そこで私は絶望してしまった。そこにやって来られ たのが主イエス・キリストであった。主イエス・キリストは井戸の底で絶望している私の所に 黙って降りて来て下さり、私をご自分を踏み台にして井戸から外に押し出して救って下さり、 ご自分は身代わりになって死んで下さったのだ」。この3人の中で誰がまことの救い主でしょ うか?。答えは明白ではないでしょうか。「イエス・キリスト、この御名のほかに私たちの救 いはない。天上天下、この唯一の御名を除いては、いかなる名にも救いの権威はないのである」。  第2に、主イエスが世を去られたのは、主の弟子たち(私たち)が主の御名によって全ての 罪と誘惑から守られるためでした。なによりもその確かな恵みを主イエスみずから「聖なる父 よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」と祈られたのです。私たちはいつも 「主の御名によって守られている」という感謝の内に生活しているでしょうか?。私がいつも 卓上に置いて愛用しているギリシヤ語の辞書に、この「御名」(オノマ)という言葉の訳語と して“オーソリティ”(権威)という英語が出ていました。「キリストの御名」とは何よりも「キ リストの御業による救いの権威」のことなのです。ですから私たちが「主イエス・キリストの 御名によって」祈るのは「キリストの御業による救いの権威によって」祈ることなのです。  それならば、私たちが「キリストの御業による救いの権威に守られて」いることは「あなた は主の御名によって祈るとき、すでに主の永遠の恵みのご支配の内に生きる者とされている」 という意味ではないでしょうか。私たちは努力精進し修行を積んでようやく救われるというの ではないのです。何か特別な資格や条件や能力を求められているのでもないのです。私たちは あるがままに、ただ信仰によって、教会に連なることによってのみ、キリストの救いの「権威」 の内に生きる者とされ、キリストの御業に生かされているのです。それゆえこの「権威」とは 既に完成し成就した救いの出来事です。教会はやがて完成する神の国の先取りであり、礼拝は 御国における聖徒らの永遠の交わりの先取りです。キリストの復活の勝利の生命に結ばれて生 きることです。特に私たち改革長老教会はこのキリストの権威を現す群れを建てることを教会 形成の不変の目標としているのです。  キリストの権威(私たちのためになされた救いの御業)あってこそ私たちはただ信仰によっ て救われたのです。その最も確かなしるしが教会です。なぜなら教会はキリストの権威を世に 現わす唯一の群れだからです。その唯一の「かしら」はキリストのみであり、私たちはキリス トのみを「かしら」とする聖なる公同の教会に連なって、はじめてキリストの肢体(復活の生 命に連なる枝)とされるのです。だから教会は、牧師は、長老会は、自分を現わさず、ただキ リストの救いの権威のみを現わします。そこに連なる私たち一同は礼拝者として御言葉を正し く聴き、キリストの肢体として健やかに成長してゆくことにおいて、ともにキリストの救いの 権威に仕える群れとされてゆきます。キリストに結ばれて真の神の宮へと成長してゆくのです。  主イエスははっきりと「人の子(キリスト)は地上で罪を赦す権威を持っている」と弟子た ちに言われました。主イエスのみがこの地上(歴史と現実世界)において罪の赦しと復活の唯 一の「権威」を持って私たちを守り支えて下さるのです。それは世界万物を新たにされる「権 威」です。だから「権威」を意味するギリシヤ語“エクスウシア”は「本質から出た救い」と いう意味です。これをさきほどの「御名」(オノマ)と重ね合わせると、キリストの「御名の 権威」とはキリストの十字架という本質(御業)から出た「永遠の救いの力」であることがわ かるのです。  キリストは「世の創めより屠られたまいし神の羔」です。キリストは「世の創めより」変わ ることなく私たちの“救いの権威”であられるのです。「世の創め」からとは“歴史を超えて” ということです。歴史の救いは歴史の中にはなく、世界の救いも世界の中にはありません。そ れはただ歴史と世界の主なる神にのみあるのです。これはどんなに幸いなことでしょうか。こ の歴史と世界は既にキリストの贖いの権威のもとに新しくされつつあるのです。私たちはそれ を知っているのです。  さて、最後に第3の事柄を顧みて参りましょう。特に私たちはこの17章の御言葉が主イエ スの「決別の祈り」であることを改めて思い起したいのです。そうすると、私たちがなぜ「主 イエス・キリストの御名によって」祈るのか、その意味がより明らかになります。それは何よ りも、主イエス・キリストご自身がその唯一の救いの御名(救いの権威)によって私たちのた めに祈って下さった、言い換えるなら、主は今朝のこの17節の祈りの真実をもって私たちの ために十字架を背負って下さったからです。それならば、この17章の祈りの全体に私たちの 測り知れない「罪」の重みがかかっているのです。それを全て主は担い取って下さった。主は この祈りにおいて全ての「罪」と「死」に勝利して下さったのです。だからこそ私たちはどの ような時にも「主イエス・キリストの御名によって」祈る幸いを与えられているのです。キリ ストの「救いの権威」の内に生きる者とされているのです。キリストの御身体の活きた枝とさ れているのです。  なによりも、主は今朝の11節の最後にこう祈られました。「それはわたしたちが一つである ように、彼らも一つになるためであります」。私たちは人間どうしの信頼や一致や結束なくし て社会生活を営めません。しかし同時に私たちは、それがどんなに弱く脆いものであるかも知 っています。イスカリオテのユダの罪は私たち一人びとりの罪でもあるのです。そのような私 たちだからこそ、主イエスはまさに溢れるばかりの「救いの権威」をもって祈って下さいまし た。まさに主イエスの祈りにおいてこそ、私たちのあらゆる弱さと破れが既に十字架の勝利の 御手に担い取られているのです。  だから私たちは主の教会でただの“仲良しごっこ”を作るのではない。神の国の永遠の喜び を歴史の中で現わす礼拝に連なる者とされているのです。「わたしたちが一つであるように」 と主は祈られました。父なる神と御子イエスが永遠の昔から完全な愛の交わりの内にあられた ように、そこにいまあなたも入れられている、招かれている、生かされている、そのように主 ははっきりと宣言して下さるのです。  それこそまさにこの教会であり、礼拝における「聖徒の交わり」です。聖餐において現され る「聖徒の交わり」です。ここには永遠の三位一体なる神の聖なる交わりが私たちのただ中に 現されているのです。そこに私たちが招き入れられ、生かされているのです。父なる神と御子 キリストとの完全な一致が、この礼拝においてこそ生きた姿を取って私たちに現されているの です。「救いの御名」が永遠に私たちと共にあるのです。そこに全ての人々を、主はご自身の 教会によって招いておられるのです。