説   教    エレミヤ書31章1〜6節  ヨハネ福音書11章54〜57節

「立ちてシオンに上り」

2009・08・02(説教09311283)  「エフライム」という土地は主イエスの御生涯にとって特別な意味を持つ場所でし た。旧約聖書のエレミヤ書31章1節から6節までの御言葉、特に31章6節にこの地 名が出て参ります。「見守る者がエフライムの山の上に立って、呼ばわる日が来る。『立 って、シオンに上り、われわれの神、主に、もうでよう』と」。ここからわかりますよ うに「エフライム」とは険しい山の名前でした。エルサレムから北に約20キロほど 離れた山岳地帯のことを「エフライム」と呼んだのです。 今朝のヨハネ伝11章54節を見ますと、主イエスはこの「エフライム」に「弟子た ちと一緒に滞在された」とあります。なぜなにもない山の中に主は「滞在された」の でしょうか。その理由はこの「エフライム」こそ、かつて主イエスが“荒野の誘惑” をお受けになった「ユダの荒野」のだからです。主は来るべきエルサレムでの御苦難 と十字架の出来事を目前とされて、この思い出ぶかい土地を再び訪ねられ、そこに「弟 子たちと一緒に滞在された」のです。  それはまさしく、先ほどのエレミヤ書31章6節の預言が成就したことでした。「見 守る者がエフライムの山の上に立って、呼ばわる日が来る。『立って、シオンに上り、 われわれの神、主に、もうでよう』」。この「呼ばわる」とは「大声で宣べ伝える」と いう意味です。ここに一人の預言者(神の御言葉を人々に伝える者)キリストが「エ フライムの山の上に立って」全ての民に救いの福音をお告げになるのです。「さあ、わ れわれは、今こそ立って、シオンに、エルサレムに行こうではないか。そこで『われ われの神、主に、もうでよう』」と。  この「もうでる」とは“礼拝”のことです。栄光と讃美と感謝を主なる神に献げる ことです。しかし主イエス・キリストがなさる「礼拝」とはただ言葉だけではありま せん。それはなにより御自身の身体を「全ての人の罪の贖いのために」献げることで した。主は十字架にかかられるためにエルサレムに向かわれるのです。それなら主は いまその“十字架への道行き”(ヴィア・ドロローサ)の出発点として「エフライム」 にお立ちになるのです。「主の十字架への道」は“エフライムからゴルゴタへの道”で あったのです。  さて、エフライムにおけるかつての“荒野の誘惑”において、主イエスは何に勝利 されたのでしょうか。それは3つの事柄でした。第一に、人間は神なしに自分で勝手 に生きるべきなのだという悪魔の誘惑に対して、主は「人はパンだけで生きるもので はなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われこれを退けたま いました。第二に、神を試みて人々の心を虜にしたら良いではないかという誘惑に対 して、主は「主なるあなたの神を試みてはならない」とこれをも退けたまいました。 そして最後に、神ではなく悪魔を崇拝すれば全世界を支配させようという誘惑に対し て、主は決然として「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と見事にこれ を退けたまい、ここにキリストとしての「十字架への歩み」が始まったのです。  これを突き詰めて申しますなら、こういうことになります。第一に、人間の存在根 拠は物質にではなく、神の生ける御言葉すなわち神の愛にあるのだということ。第二 に、私たちの救い主なる主は悪魔に試みられるようなかたではなく、限りない愛と恵 みの主権を持って私たちを救われるかただということ。そして第三に、まことの神に 真の礼拝を献げることこそ、全てにまさる私たちの本当の自由と幸いと救いであると いうことです。  これら人間を人間たらしめる最も大切な3つの事柄を、主イエスは御言葉によって 明らかにされたのです。言い換えるならば、父なる神の御心を明らかにされることに よって悪魔の全ての誘惑に勝利されたのです。それならば「エフライム」とはこの大 いなる勝利の出来事が現れた土地です。人間を罪の(悪魔の)虜にしようとするあら ゆる闇の力に対して、神の御子イエス・キリストが永遠の勝利をおさめたもうた土地、 それがエフライムなのです。  主イエスはこのヨハネ伝の中で、御自分がエルサレムで受けられる十字架の苦難と 死の出来事を「わたしが受ける栄光」と呼んでおられます。主イエスは御自分のため の栄光を少しもお求めにならず、私たちの罪のために御自分の生命と身体とを贖いと して献げたもう十字架を「わたしが受ける栄光」とお呼びになるのです。それは私た ちの思いを遥かに超えた“恵み”です。私たちの生活に即して考えればすぐにわかる ことです。私たちのいったい誰が他人のために受ける自分の苦しみを「わたしの栄光 だ」と言えるでしょうか。むしろ私たちは自分がいかに得をするかを考え、他人のた めに傷つき苦しむことは我慢がならないのではないでしょうか。  しかし主イエスはただ私たちの罪の贖いと赦しと生命のために「エフライム」から ゴルゴタへと続く「十字架への道」を歩みたまいます。それを「わたしが受ける栄光」 と呼んで下さるのです。ここで主が言われる「栄光」とは「全ての人々の救い」とい うのと同じ意味です。主は「わたしが世に来たのは、人に仕えられるためではなく、 仕えるためであり、全ての人のあがないとして、生命を献げるためである」と言われ ました。あるとき弟子たちの中に「誰がいちばん偉いか」という争いが生じました。 そのとき主イエスは「世の人々はみな権力を求め、財産を愛し、権威権勢を持つ者が 偉人と呼ばれ、人を支配する者が恩人と呼ばれる。しかしあなたがたの間ではそのよ うなことがあってはならない」とお教えになりました。  この「あなたがた」というのは、その時点においては僅か十二人なのです。この全 世界にたった十二人です。しかしそこから主の教会が誕生し、世界史の意味そのもの が変わりました。主ははっきりとお教えになりました。あなたがたはどんなに小さな 群れであっても、神のものとされ神に仕える群れとされている。あなたは私の贖いの 内に立つ者となりなさい。そうすれば自分を愛するように他者を愛する者になること ができるであろう。  かつてニカイア信条を起草したアタナシウスという神学者は「全世界を敵とした」 と言われます。英語で孤軍奮闘のことを「アタナシウスのように戦う」と言います。 アタナシウスはキリストの真理を世に現すために自分の生命をささげた人でした。生 涯のあいだローマ皇帝によって5回もスカンジナビアに流刑の身となりました。しか しアタナシウスは流刑地のスカンジナビアでその地に住む人々を愛し、まことの福音 を人々に宣べ伝えました。そのため北の果てのノルウェーにヨーロッパ最初のニカイ ア信条に立つ正統的教会が建てられたのです。今からおよそ1700年も前のことです。 そのため「アタナシウス・コントラ・ムンドゥス・ムンドゥム・コントラ・アタナシ ウム」(アタナシウスは世界を敵とし、世界はアタナシウスを敵とした)という言葉が 伝えられているのです。  私たちはどうでしょうか。私たちは世に愛されることを願い、他者を自分の犠牲に する道を歩んではいないでしょうか。神の僕たる道を願い、自分を他者のために献げ る道を歩んでいるでしょうか。使徒パウロはガラテヤ書1章10節でこう語っていま す「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか。それとも、神に喜ばれようとして いるのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心 を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。私たちはこのよ うな「キリストの僕」であり続ける恵みを与えられているのです。  エルサレムでは夥しい人々が“過越の祭”の準備をしていました。人々の関心は主 イエスが果たしてエルサレムに入城なさるか否かにありました。人々は好奇のまなざ しで主イエスの歩みを追っていました。それは人々は主イエスがベタニヤでなされた ラザロ復活の奇跡をすでに伝え聞いていたからです。その奇跡によって主イエスとパ リサイ人らとの対立が決定的なものになり、七十人議会が主イエスの殺害を決定した ことも知っていました。主イエスがエルサレムに来られることは、すなわち十字架に かけられるために来られることです。だからエルサレム中の人々がこの興味ぶかい話 題に釘付けになっていたのです。  そこで56節を見るとこうあります「人々はイエスを捜し求め、宮の庭に立って互 に言った、『あなたがたはどう思うか。イエスはこの祭に来ないのだろうか』」。また続 く57節には「祭司長たちとパリサイ人たちとは、イエスを捕えようとして、そのい どころを知っている者があれば申し出よ、という指令を出していた」とあります。不 穏な空気がエルサレムを支配していました。それはみずからの権威権勢に固執し世の 富と栄誉を愛する支配者の醸し出す空気でした。主イエスが逗留していたエフライム にもその不穏な空気は伝わっていたのです。弟子たちは恐れと不安を感じていました。 しかしその中で、主イエスは静かな祈りの内にエフライムでの日々を過ごしておられ たのです。  最初にお読みしたエレミヤ書31章6節の御言葉を改めて心にとめましょう。「見守 る者がエフライムの山の上に立って、呼ばわる日が来る。『立って、シオンに上り、わ れわれの神、主に、もうでよう』と」。この「見守る者」と訳された元々のヘブライ語 を直訳すれば「罪をあがなう者」という言葉になります。まさに主イエス・キリスト のことなのです。私たちの大きな罪と混乱と虚無の中に、まさに私たちをわが子のよ うに愛し見守りたもうかたがお立ちになる。そこから、まさしく主が悪魔の全ての誘 惑に勝利されたエフライムから、主は私たちのために「十字架への道」を歩んで下さ いました。 「立って、シオンに上り、われわれの神、主に、もうでよう」とはそういう意味な のです。あの異邦人の町サマリヤのスカルを、主はたった一人の女性に出会うために 訪ねて下さいました。この世の誰からも相手にされず「罪人」のレッテルを貼られた 女性の魂の奥底に潜む大きな悲しみと飢え渇きに、ただ主イエスのみが御手を差し伸 べて下さいました。そして生ける生命の水をもって彼女の全ての飢え渇きを満たし、 絶望の淵から立ち上がらせて下さいました。神の愛の内を歩む新しい人生を与えて下 さったのです。それと同じことが、今朝の御言葉において私たち一人びとりにも起こ るのです。 「さあ、立ちなさい」と、主は私たち一人びとりに告げて下さるからです。あなた が立ち上がりまことの礼拝者として歩む新しい時がすでに来ている。あなたの心はエ ルサレムの混乱の巷のような、平安も慰めもないまま捨て置かれていてはならない。 人が生きるのはパンによってではなく、神の御口より出るひとつひとつの言葉による のだ。人の救いはまことの神に立ち帰ることにあるのだ。人の幸いと喜びはまことの 神を礼拝することにあるのだ。まさにあなたがそのような新たな者として歩むために …死から甦り墓から出てキリストと共に歩む者となるために、主は私たちのただ中に 来て下さいました。そして私たちの罪が生み出す果てしない混乱と暗さの中を、エフ ライムからゴルゴタへと続くあの一筋の道を歩んで下さったのです。それを「わたし の栄光」とさえ呼んで下さるのです。  「立って、シオンに上り、われわれの神、主に、もうでよう」。これこそ真の礼拝者 の生活であり、私たちの共通の志です。神の御子みずから、私たち全ての者の救いの ために御自分の御身体を、尊い犠牲として十字架の上に献げ尽くして下さった。神の 子みずから贖いとなって世界に救いの御業をなし遂げて下さった。ただその測り知れ ぬ恵みと慈しみによって、私たちはキリストと共に、キリストの主権のもとを、新た にされて歩む者とされているのです。