説   教   創世記11章1〜9節  ヨハネ福音書11章45〜48節

「われら如何に為すか」

2009・07・19(説教09291281)  現代社会は「あらゆる価値観の崩壊した社会」だと言われます。私たちの 生活や生命を支える確かなものが何もない時代だというのです。そうした時 代にあってこそ私たちが真剣に求めざるをえないもの、それこそ人間として の本当に幸いな充実した人生なのではないでしょうか。  今朝の説教の題は「われら如何に為すか」です。これは祭司長やパリサイ 人らが語った言葉です。これは同時に現代の私たちの痛切な声でもあるので す。今朝のヨハネ伝11章47節です。文語訳でお読みしましょう「ここに祭 司長・パリサイ人ら議会を開きて言ふ『われら如何に為すべきか、此の人お ほくの徴をおこなふなり。もし彼をこのまま捨ておかば、人々みな彼を信ぜ ん、而してロマ人きたりて、我らの土地と国人とを奪はん』」。  同じところを口語訳ではこうなります「そこで、祭司長たちとパリサイ人 たちとは、議会を召集して言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、 お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じる ようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も 人民も奪ってしまうであろう』」。  ここで「この人」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリス トが人々の間で多くの奇跡や“しるし”を行っておられることに危機感と焦 りを抱いた「祭司長たちとパリサイ人たち」は急いで臨時議会を開くのです。 その議題こそ「われら如何に為すべきか」(お互は何をしているのだ)でした。 「祭司長」とは司法の最高権威であり「パリサイ人」とは立法と行政の最高 権威でした。いわば彼らはイスラエル国家の威信をかけ「われら如何に為す か」を議題として臨時国会を開いたのです。イスラエルの国会には70名の 議員がいたので通称「七十人議会」と呼ばれていました。 そこで、私たち人間は数の支配(多数決の論理)に弱いのです。「何か違う のではないか」と思っても周囲の人たちが「そうだ」と言えば自分も賛成し てしまうのです。議会制民主主義が陥りやすい危険です。この時も議員たち はこの“数の支配”に踊らされてしまいます。ナザレのイエスという人物を 放置しておくことは宜しくない。第一に「もしこのままにしておけば、みん なが彼を信じるようになるだろう」。第二に我々の混乱に乗じて「ローマ人ら がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。興奮した 議員らの声が多数となり、それが臨時国会の結論になったのです。だから同 じ11章の53節を見ますと「彼らはこの日からイエスを殺そうと相談(する ようになった)」と記されています。かねて計画していたキリスト殺害計画を 公然と実行することになったのです。  イエス・キリストというかたが十字架につけられたことは、クリスチャン でなくても誰もが常識として知っている事柄です。今朝のヨハネ伝11章45 節以下の御言葉はその意味で、まさにキリストの十字架の出来事が歴史的事 実であったことを鮮やかに示すものです。しかしそれが単なる歴史的事実で あることを超えて、それが「この私の(全世界の)救いのための主の御業」で あると信じるのが私たちの教会です。  そこで、こういうことが言えるのではないでしょうか。「われら如何に為す べきか」この私たちの問いはいかに正しいものであっても、私たちはまさに その正義の名のもとに神の子イエス・キリストをさえ十字架にかける罪を犯 す者たちなのです。そこに人間の矛盾と罪の本当の恐ろしさが現われている のです。人間というものの難しさがあるのです。  私はかつて高知県のある刑務所で教誨師の訓練実習を受けたことがありま す。教誨師とは刑務所に定期的に通い、受刑者と一対一で、時には広い講堂 のような場所に受刑者を集めて、聖書の御言葉を解き明かし更生のための指 導をする牧師です。生れて初めて刑務所という場所に入って感じたことは、 受刑者たちはみなごく普通の人間だということでした。どんな犯罪者もその へんに歩いている人たちと何の違いもありません。言い換えるならそれは、 私たちもまたいつでもどこでも本当に些細なきっかけで大きな罪を犯しうる 存在だということです。  第二次世界大戦中、フィリピンのルソン島で兵士として九死に一生を得た 作家の大岡章平氏が「野火」という小説の冒頭に「わが心の良くて殺さざり しにあらず」という、親鸞の歎異抄の言葉を引用しています。私が人を殺さ ないでいられたのは、私の心が良かったからではなく、たまたま殺さないで 済む状況に置かれただけのことにすぎない。そのように大岡氏は語るのです。 まさにそのことと今朝の御言葉は深いところで結び合うのです。「われら如 何に為すか」。このいっけん正しい問いにおいてさえ、キリストを十字架につ けるという罪を犯す私たちなのです。何を為すべきか見えなくなる私たちな のです。今朝あわせてお読みした旧約聖書・創世記11章1節以下の「バベ ルの塔」の物語にもそうした私たちの罪が鮮やかに示されています。 地球上に最初に誕生した文明国家はメソポタミア(今日のイラクのあたり) でした。おおよそ6千年前のことです。しかしそこで人々は高度な技術力に 慢心し、シナルの平野に巨大な塔を建てようと計画します。「さあ、町と塔と を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地の おもてに散るのを免れよう」と協議するのです。「町と塔とを建てよう」とい う人々の願い自体は悪いことではありません。問題は後半の言葉にあります。 「その(塔の)頂を天に届かせ、かくしてわれわれは名を上げ、全地のおも てに散るのを免れよう」。これは?人間がその技術力を駆使して神のような存 在になろうとしたこと、?みずからの利益と幸福のみを人生の目的としたこ と、?他の民族や文化を認めず自分たちだけが絶対であろうとしたことです。 この3つの罪はまさに現代の世界のものでもあるのではないでしょうか。  創世記はこれら私たちの罪のゆえに、人々のわざは神の御心に適うものと はならず、ついに人々は互いに言葉が通じぬようになり、そこから「全地に 散らされていった」と記しています。「われら如何に為すか」を見失い自己中 心になったことから民族と文化のコミュニケーション・ギャップが生まれ、 深刻な対立と争いが起こり、ついに「バベルの塔」は分裂と敵意と混乱の象 徴になったのです。「バベル」という言葉は「混乱」という意味です。私たち は現代において至るところに、この「バベルの塔」(混乱の社会)を造り上げ ているのではないでしょうか。  「われら如何に為すか」。この問い自体は良いことです。問題はこの問いの 向かう方向なのです。私たちはどこに向けて「われら如何に為すか」を問う べきなのでしょうか。自分自身の利益と幸福のためにか、それとも主イエス・ キリストが示された方向に向かってでしょうか。もし私たちが自分の利益と 幸福のみを人生の目的とするなら、そのとき私たちは人生の至るところに「バ ベルの塔」を建て続けてゆくほかないのです。そのとき私たちは国土と人民 を「われらの(所有する)国土と人民」と称したあの「祭司長」「パリサイ人」 らの仲間にすぎないのです。  では私たちは「如何に為すべき」なのでしょうか。その完全な答えが同じ ヨハネ伝の6章29節にあります。「イエスは彼らに答えて言われた、『神が つかわされた者を信じることが、神のわざである』」。いま私たちが「為すべ き」こととして召されているのはこの「神がつかわされたかた(キリスト)を 信じ」主の御身体なる教会に連なって生きることです。私たちの罪の贖いと 限りない赦しと生命のために十字架にかかって下さった主イエス・キリスト を信じ告白することこそ「神のわざ」を行うことなのです。  多勢の人が捕らわれている牢獄がありました。使徒行伝16章25節以下に 記されていることです。もと熱心なパリサイ人であり、イエス・キリストを 信じてキリストの使徒となったパウロ、そしてその弟子であるシラスの2人 もその牢獄に繋がれていました。古代の牢獄は悲惨なもので多くの人がそこ で生命を失いました。その牢獄の真夜中の闇の中で、パウロとシラスは神に 祈りを献げ讃美歌を歌いました。囚人たちはみなその祈りと讃美歌に「耳を 澄まして聞き入っていた」のです。  そこに突然大地震が起こり、牢獄の扉がみな開き、囚人たちを繋いでいた 鎖も全て解けてしまいました。慌てて駆け付けた獄吏たちは牢獄の戸がぜん ぶ開いているのを見て「つるぎを抜いて自殺しかけ」ました。囚人が一人で も逃亡すれば獄吏は死んで償いをする定めになっていたからです。そこにパ ウロが声をかけます「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、こ こにいる」と…。獄吏が松明に灯をつけて周囲を見ますと、驚くべきことに 本当にそこには一人も欠けることなく囚人がいたのでした。  つまり囚人たちは、悲惨な牢獄から逃げる絶好のチャンスが訪れたにもか かわらず、パウロとシラスの献げる祈りと讃美によって神を信ずる者たちと なり、本当の幸いと自由と平安が与えられて、誰一人そこから去ろうとはし なかったのです。地獄のような牢獄がキリストの愛と光に溢れる聖徒の交わ りに変えられたのです。その信じられない光景を見て獄吏はパウロとシラス の前にひれ伏して申します。「先生がた、わたしたちは救われるために、何を なすべきでしょうか」。ここにも今朝の大切な問いが響き渡るのです「われら 如何に為すべきか」。パウロとシラスは答えて申します「主イエスを信じなさ い。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。  そのようにして、牢獄に繋がれていた多くの囚人たちはもちろん、獄吏た ちやその家族たちまでもが、主イエスを「わが主・救い主キリスト」と信じ、 洗礼を受けて教会に連なる者になりました。キリストの愛の御支配の内を歩 む新しい人生を生きる者となったのです。使徒行伝16章33節以下にはこう 記されています。「彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打 ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテ スマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神 を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」。  ここに、人生の最も大切な問いに対する、神からの確かな答えがあるので す。「われら如何に為すべきか」。私たちはこの獄吏とその家族たちが「為し た」ように主イエスを信じる者になること。主イエスの愛と限りない赦し、 そして恵みの主権のもとを歩む者になること。それこそが人間にとって真に 幸いな、そして自由な人生の歩みを造る力であり慰めなのです。そしてまさ にそのキリストの恵みによってのみ、世界は本当に変えられてゆくのです。 おのれの利益と幸福を追求するのではなく、神の栄光を現わし、自分を他者 の幸福のために献げる新しい人生が…キリストの恵みによって神を敬い人を 愛する新しい人生が始まってゆくのです。  主は今ここに私たちと共におられ、一人びとりを限りない祝福へと招いて おられます。全ての人がキリストによる救いを必要としています。そして全 ての人がいまキリストに招かれているのです。キリストの愛を受けているの です。主があなたと共におられるのです。どうか私たちは主イエス・キリス トを「わが神・救い主」と仰ぎ、その限りない愛と恵みと慈しみを戴いてい る者たちとして、心を高く上げてこの世の旅路を歩んで参りたいと思います。