説    教   レビ記19章15〜16節  ヨハネ福音書7章19〜24節

「偽りの審きと正しい審き」

2008・10・19(説教08421241)  今朝、私たちに与えられたヨハネ福音書7章19節以下には、主イエス・キリスト とユダヤ人の指導者(律法学者)たちとの間に繰広げられた、人間の「審き」につい ての問答が記されています。  主イエスはまず19節に、ユダヤの人々(イスラエルの民)に与えられた「モーセ の律法」に触れて言われます。「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それ だのに、あながたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、な ぜわたしを殺そうと思っているのか」。  ところがこの主イエスの言葉に、律法学者たちは非常な怒りを顕わにしました。そ れは主が彼らの中に「(モーセの律法を)行う者がひとりもいない」と言われたからで す。この律法学者は“パリサイ”人でした。「パリサイ」とは「分離する」という意味 です。自分たちは穢れた民衆とは違って、モーセの律法を完全に守っている選ばれた 者たちであるという自負と誇りがその名に現れています。その自負と誇りを傷つけら れたものですから、彼らは主イエスに対して敵意を顕わにしたのでした。  そればかりではなく、主イエスが「あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思ってい るのか」と言われたことは、まさに律法学者たちの図星を突くご指摘でした。律法学 者たちは主イエスを殺す機会を伺っていたからです。彼らにとって、ガリラヤで多く の人々を惹きつけていた主イエスの存在は、自分たちの立場を危うくするものと受止 められました。しもその主イエスが「仮庵の祭」の最中に突如エルサレム神殿に現れ、 人々に説教を始められた。それは彼らにとって自分たちの縄張りを奪われることであ り、断じて許せないことでした。このさい死をもって主イエスを処罰するほかはない と、その機会を伺っていたのです。  ところが、ここにいきなり「群集」の姿が現われてまいります。20節です。この「群 集」とは主イエスの説教を聴くために神殿の中庭に集まっていた人々のことです。そ の人々が主イエスに向かって「あなたは悪霊に取りつかれている。たれがあなたを殺 そうと思っているものか」と叫んだのです。これは一見、律法学者たちを支持する発 言のように見えますが、そうではありません。むしろ人々が「だれがあなたを殺そう と思っているものか」と叫んだことは、律法学者たちの主イエス殺害計画を頓挫させ るものでした。神ではなく人を恐れ、群衆の支持を失うことを恐れていた律法学者た ちにとって、群集が否定するキリスト殺害計画を敢えて実行することは、彼らの社会 的な失脚に繋がることだったからです。 このように、今朝の御言葉の中には、律法学者と群衆(人々)の主イエスをめぐる さまざまな思惑が渦巻いています。今日の政治の世界を見るような思いさえするので す。私たちはなによりも、ここに改めて同じ7章の12節と13節を思い起こします。 「群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は『あれはよい 人だ』と言い、他の人々は『いや、あれは群衆を惑わしている』と言った。しかし、 ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった」。 この「ユダヤ人ら」というのは律法学者たちのことです。群衆は主イエスについて 様々な「うわさ」を立てていましたが、誰一人として主イエスを“神から遣わされた キリスト”「救い主」と信じる者はいなかったのです。それは、彼らはみな律法学者た ちの仕打ちを恐れていたからでした。  つまり、律法学者たちは神を畏れずして、群衆の顔色を伺っていた。群衆は群集で また、神を畏れずして、律法学者たちの仕打ちを恐れていたのです。どちらも“神を 畏れてはいない”(神を信じていない)ことでは同じでした。むしろ両者の誤った「恐 れ」が相乗効果を生み出し、律法学者たちも群集も、神の御言葉からどんどん離れて いったのです。両者とも、真に畏れるべきかたを畏れず、恐れるべきでないものを恐 れていたからです。神の御言葉ではなく、自分の思いに従おうとしていたのです。  こういうことは、なかなか私たちの目には見えないのです。私たちはこの世のこと には長けていても、神をのみ畏れる霊のまなざしにおいては驚くほど迂闊であり、未 熟であることはないでしょうか。それは200年前の律法学者やエルサレムの群衆の問 題ではないのです。ここにキリスト者として生きるべき私たちこそ、おのれの人生航 路を定めるにあたり、神の御言葉ではなく、人の評価や評判に(人間関係に)のみ重 きを置くことはないでしょうか。もしそうならば私たちも、今朝の御言葉の律法学者 や群衆と同じ道を歩んでいるのです。主イエスについて「いろいろとうわさを立てる」 だけで、本当にキリストを信ぜず、キリストに従おうとせず、人の顔色ばかりを見て 「恐れ」ているにすぎません。  私たちは、そのような道を歩むために、教会に招かれているのではないのです。む しろそのような道を、いま御言葉と聖霊によってここに現臨しておられるキリストの もと、審いて戴かなくてはなりません。信仰の健やかな道に立ち帰らせて戴かねばな りません。17世紀のジョン・バニャンという人の「天路歴程」という本の中に「地獄 への道は、天国に通ずる道の真下に口を開けている」という一節があります。私たち が神の言葉に従おうとすればするほど、誘惑もまた数多く私たちを取り囲むのです。 それに屈したり諂うのではなく、ただ十字架の主のみを見つめ続ける私たちでありた いのです。 バニャンは「十字架の主を見つめ続けなかった者たちは、全て信仰の道から落ちて しまった」と語っています。群衆は主イエスに「(あなたは)悪霊に取りつかれている」 と叫びましたが、その「悪霊」とは「罪の支配」であり、それは私たちの外側にでは なく、まさに私たちの内側にあるものなのです。それこそ主がお教えになったように 「外から来て人を汚すものはなく、人の中から出るものこそが人を汚す」のです。罪 はついも巧妙な手口で私たちを滅びに引きこもうとします。神の言葉から引き離そう とするのです。それが罪の常套手段です。だから私たちは、十字架の主から片時も離 れてはなりません。ガラテヤ書4章19節のパウロの言葉を思います。「ああ、わたし の幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またも や、あなたがたのために産みの苦しみをする。できることなら、わたしは今あなたが たの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方に くれている」。  主イエスはまさに、信仰の“生命の道”から離れようとしている律法学者と群衆の 両方に対して、パウロの言うように「語調を変えて話して」おられます。それが今朝 の21節以下の御言葉です。「イエスは彼らに答えて言われた。『わたしが一つのわざ をしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。モーセはあなたがたに割礼を 命じたので(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まった ものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。もし、モーセの律法が 破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫 にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。うわべで人をさばかな いで、正しいさばきをするがよい』」。  ここに主が言われる「安息日に人の全身を丈夫にしてやった」こととは、同じヨハ ネ伝の5章に記されている、ベテスダの池における病人の癒しの出来事をさしていま す。主イエスはそこで38年間も寝たきりであった人の病を癒されたのでした。それ は安息日でした。そのことが周り巡って多くの人々の「うわさ」となり、毀誉褒貶す るところとなっていたのです。  主イエスはまず、割礼を定めた律法について言われます。モーセの律法には男子は 全て生れて8日目に割礼を受けるように規定されています。その8日目がちょうど「安 息日」である場合は「何のわざをもなすべからず」との安息日の規定を敢えて破り、 割礼のほうを優先させる習慣がありました。それに言及されつつ主イエスは、それな のにあなたがたはどうして安息日に病気を癒したことで、そんなに「おこるのか」と 問われるのです。生まれた幼子を割礼をもって祝福し聖別することが喜びならば、そ れ以上に大きな喜びは、私たちが「罪」を癒されることです。「悪霊」から解放されて “神の救いを受ける”ことです。神の御手中に自分を見出すことです。 あの絶望と疑心暗鬼の渦巻くベテスダの池において、主イエスは38年間も絶望に 取り残されていた人を救い、絶望の床から立ち上がらせて下さったのです。立ちえな かった者を恵みによって立ち上がらせ、神を讃美する者として下さいました。死んで いた者が生きかえり、失われていた者が見出され、病んでいた者が癒され、立ち上が りえなかった者が立ち上がって、キリストと共に“信仰の生命の道”を歩む者とされ たのです。  だからこそ主は言われます。22節です。その“ベテスダの池での救いの出来事”を 「あなたがたは皆それを見て驚いている」ではないか。この「驚き」は信仰への招き であったはずです。ところが先週の15節の「驚き」と同じように、律法学者も群集 もただ自分を満足させたに過ぎなかったのです。だから元々の言葉ではこの「驚き」 は「つまずき」とも訳される言葉になっています。律法を守っているようでいて、実 は少しも守っていないのです。だから律法学者と群衆は「律法の成就者にして完成者 であられるイエス・キリスト」に「つまずいた」のです。  その「驚き」が、すなわち、神の子イエス・キリストに対する「つまずき」が、そ こにいる人々の、キリストに対する「怒り」になりました。罪は私たちの心に不信仰 を起こさせ、キリストに対する「怒り」として発露します。その人々の、否、私たち の「怒り」が行き着くところに、あの十字架が立てられました。私たちは自分の思う ようにならないとき「審き」の心を起こします。キリストはいつも主なる神のみに従 われ、私たちの救いのために「正しい審き」をなされます。そこにあの十字架の出来 事が現れました。人々はキリストを十字架にかけ、キリストに対する自分たちの「審 き」が実現したと満足しました。しかし主は私たちのそのような罪を黙って担われ、 十字架において「審き」を担い取って下さいました。 主は今朝の24節に「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」と 語っておられます。「うわべ」だけでしか人を審かない私たちは、「正しい審き」をな さるキリストを十字架に追いやりました。私たちの「罪」は神の最愛の独子を十字架 にかけずには止まぬほどのものなのです。罪はキリストを十字架にかけて、これでキ リストを葬り去ったと勝利の凱歌を上げました。この世界は永遠に罪と死の支配する ものになったと勝ち誇りました。そうだったのでしょうか?…もちろん、そうではな かったのです。 キリストの十字架の死こそ、実は私たち人間を支配している「罪と死の力」に対す る永遠の勝利であり、唯一の「正しい審き」でした。キリストは御自身の御苦しみを もって私たちの罪を贖われ、御自身の死をもって私たちの死を滅ぼされたのです。そ こに十字架の出来事の本質があります。それならば、あのベテスダの池における救い の出来事は、まさに私たち一人びとりの上に、主の十字架を通して、主を信ずる全て の者に行われているのです。私たちこそ、失われていたのに見出され、死んでいたの に生きかえり、主と共に立ち上がる者とされたのです。十字架の愛と恵みによって、 私たちはここに、キリストの御身体なる教会に連なる者とされ、キリストによる罪の 赦しと、義と、永遠の生命の福音に生きる者とされています。 教会の最も高い所に十字架が掲げられているのは、単なる標識や看板ではありませ ん。私たちは、私たちの最大の誇りとし喜びとするものを、教会の屋上に掲げている のです。主の十字架によって、私たちの罪に「正しい審き」が行われたからです。私 たちはもはや、罪と死の支配のもとにはいないからです。罪と死は私たちの人生の「主」 とはなりえない。十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの唯一永遠の「主」で あられるからです。その喜びの事実を、慰めの真実を、十字架の福音を高く掲げるこ とによって世に現わすのが私たちの教会です。 この十字架の主の来臨の恵みを知る私たちは、この主の御身体なる教会において、 いつも御言葉と聖霊の支配を賜わっている者として、自分自身も、また隣人も、他の どのような人をも、キリストの恵みの下に新たに見出してゆくのです。「私のために主 が死んで下さったように、彼のためにも、彼女のためにも、主は死んで下さった」。こ の福音の出来事の前に、私たちは自分の人生を、また他者の人生を、新しく見出して ゆくのです。そこに、私たちの大きな幸いがあり、喜びがあり、感謝があることを覚 えます。  どうか私たちは、この新しい一週間の歩みをも「正しき審判者」なるキリストの主 権のもとに、心を一つにして歩んで参りたいのです。主が私たちの罪を担って下さっ た救い主であられることを、全ての人々に宣べ伝え、証しする群れとして、御言葉に よって堅く立てられて参りたい。世々の聖徒らと共に「アァメン、主イエスよ、来た りませ」との祈りに、また信仰の姿勢に、生きてゆく者でありたいと思います。