説    教  出エジプト記16章31〜36節 ヨハネ福音書6章30〜33節

「生命のパンを食す」

2008・07・06(説教08271226)  「わたしちたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。 どんなことをして下さいますか」。群集はこのように主イエスに訊ねました。これは今 朝の御言葉の1節前の6章29節に「神がつかわされた者を信じることが、神のわざ である」と主イエスが言われたことに対する、群集の(私たちの)反応です。私たち は御言葉を聴いていながら、それを素直に信じることができないのです。かえって主 イエスに自分たちの要求を突きつけるのです。  しかも、この要求は「わたしたちが見てあなたを信じるために」とあるように、主 イエスを信じる信仰を求める“信仰への要求”のように見えるのです。「信仰」という 錦の御旗を自分のために振りかざしているのです。人々は「自分たちはどうにかして あなたを信じる者になりたいのだ」と、主イエスに言っているように見えるのです。 ここに、既にひとつの危険が(というよりも、私たちの罪の姿が)現われているので はないでしょうか。 なによりも、ここで人々は(私たちは)主イエスに対して、@「どんなしるしを行 って下さいますか」A「どんなことをして下さいますか」と、「しるし」と「わざ」と いう“目に見える証拠”を求めています。あなたが神から遣わされたキリスト(救い 主)だという証拠をはっきり見せて下さい、そうすれば、私たちはあなたを信じるこ とができるのです、と申しているのです。  これほど傲慢な要求は、ないのではないでしょうか。まことに自分勝手な求めです。 主イエスは既に「しるし」も「わざ」もはっきりと示しておられるのです。人々が(私 たちが)それを信じようとしないだけなのです。キリストが示された「しるし」と「わ ざ」は、御自分が“神の御子キリスト”であるというものでした。しかし群衆が求め ることは、主イエスを自分たちに都合の良い「王」に祭り上げることでした。既にそ こに私たちの本心と主の御心との違いがあります。私たちは自分の安逸と満足を求め ますが、主イエスは御自分を私たちの罪のための贖いの供え物として献げたもうので す。私たちのために十字架への道を歩んで下さるのです。  そこで人々は、今度は聖書の言葉を引用して主イエスを問い詰めようとします。今 朝の31節です。「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパ ンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」と言うのです。これは旧約 聖書・詩篇78篇24節の御言葉であり、出エジプト記16章31節以下に記された“荒 野のマナ”の出来事を現わしています。モーセに率いられてエジプトを脱出した民を、 神がマナ(天からのパン)を与えて養いたもうた出来事です。この出来事を引用しつ つ、人々は主イエスに向かって「あなたもこの、モーセが行ったような奇跡を私たち に見せてくれたら良いのだ。そうしたら信じよう」と言うのです。  この人々の傲慢な求めに、主イエスがお答えになって言われたのが、32節と33節 の御言葉です。「そこでイエスは彼らに言われた、『よく、よく言っておく。天からの パンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたが たに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に 命を与えるものである』」。  ここで、とても大切なことが2つあります。第一に、ここで人々が「天からのパン」 を与えたのはモーセだと言っているのに対して、主イエスは「天からのまことのパン をあなたがたに与えるのは、私の父なのである」と語っておられること。そして第二 に、人々が過去の出来事を語っているのに対して、主イエスはここで「天からのパン をあなたがたに与えたのは」ではなく「与えるのは」というように、過去ではなく現 在の恵みを語っておられることです。  私たちは主の御前に出るとき、自分がさも立派な人間であらねばならないように、 勝手な幻想を抱くのではないでしょうか。私たちは謙遜のふりを装いつつも、実はと んでもなく傲慢な態度で主イエスに接しているのではないでしょうか。主イエスはい つも「信仰」だけを求めておられます。それは言い換えるなら、私たちが主の御前に 出る“ふさわしさ”とは、私たちが罪人であるという現実だけだということです。私 たちは主の御前に何ひとつ“ふさわしさ”を持っていません。それだけで良いのです。 そのままに、主の御手に私たちを委ねるのです。私たちが主の御前に差し出す真実は、 ただみずからの虚しさのみなのです。 ところが、私たちは愚かにも、自分が主の前に出るとき、なにか立派なものを携え て行かねばならないと思いこむのです。それができる自分だと自惚れるのです。そし て「できない」と思えば絶望し「できる」と思えばとめどなく増長するのです。自分 をも他人をも審くのです。しかし、主はあるがままの私たちを御許に招いていて下さ います。私たちが何ひとつ立派なものを持ちえなくても、主は測り知れない愛をもっ て私たちを主の民として下さいます。主は、私たちが差し出しえた何事かの報酬とし て私たちに祝福を満たして下さるのではありません。私たちが差し出しうる真実は、 自分が神の前に罪人にすぎず、死すべき人間に過ぎないという事実のみです。その私 たちを、主はあるがままに「天からのまことのパン」をもって、いま養って下さるの であります。  改めて問いたいのです。私たちが完全な人間にならなければ、神は恵みを満たして 下さらないのでしょうか?。私たちが善き行ないを積まなければ、私たちを救って下 さらないかたなのでしょうか?。私たちが努力しなければ、神は存在できないかたな のでしょうか?。私たちの神への熱心さ(信仰生活)は時として、神の欠乏を前提と する誤った神理解と紙一重のところにありはしないでしょうか。神にとって私たちが 必要なのではなく、私たちにとって神が必要なのです。神は報酬として私たちに祝福 を満たして下さるのではありません。ただ限りない憐れみのゆえに、私たちを恵みで 満ち溢れさせて下さるのです。このことを信じ、主の御手に自分を委ねることこそ、 “永遠の生命”に生きることなのです。神が私たちの「祈り」に答えて下さることも 同じです。私たちが素晴しい祈りを献げたことへの報酬として、神は祈りを聴きたも うのではありません。ただ十字架の故に、主イエスの御功により、聖霊による執成し によって、私たちの祈りは、その求めに遥かにまさって適えられるのです。私たちの 謙りはただ、主の御前に静まって主の御言葉に耳を傾け、養われ続けてゆくことにあ らわされるのです。それは真の礼拝者であり続ける生活です。  それならば、なおのこと、私たちは、私たちを救う「しるし」と「行い」が、いま 目の前におられる主イエスに現わされていることを、信ずる者とさせて戴こうではあ りませんか。過ぎ去った過去を問題にするのではなく、いま目の前におられる主イエ スが、私たちに「天からのまことのパン」を与えて下さることを驚きつつ、恐れと喜び をもって主を仰ぎ信ずる者となりたいのです。主ははっきりと言われます「天からの まことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天か ら下ってきて、この世に命を与えるものである」と。  「天からのまことのパン」それは主イエス・キリスト御自身のことなのです。この 「まことの」という言葉は「アーメン」(神の永遠の贖いの真実)だからです。私たち の罪を主は御自身の十字架によって贖い取って下さいました。あの釘付けられ、鞭打 たれ、肉を裂かれ、血を流された主の十字架のお姿にこそ、私たちの罪の恐ろしさが 現れているのです。そしてそこには、私たちの罪の永遠の確かな救いが現れているの です。私たちはやがて死すべき存在です。そのことを真剣に思うとき、私たち人間に とって本当に大切な唯一の問題は、罪の赦しであることがわかるのです。罪の赦し(罪 の贖い)なくして、私たちは本当に生きた者とはならず、その人生は虚しくしかあり えないのです。  主は私たちの“罪の贖い”となって下さいました。呪いの十字架を私たちのために 担われ、ご自身を全く犠牲として下さったのです。いま、私たち一人びとりに、その 十字架のキリストにより、主なる神の御手から「天からのまことのパン」が豊かに与 えられています。私たちはキリスト御自身を戴いているのです。福音の御言葉を聴く 者とされているのです。「その御言葉を聴いた者は生きる」と主は言われました。この 「生きる」とは永遠の生命に満たされることです。罪の塊りのような私たちが、キリ ストの下さる永遠の生命(生ける神との永遠の交わり)の内に生きる者とされている のです。いま、その尊い恵みを戴いている私たちは、続く34節にあるように「主よ、 そのパンをいつもわたしたちに下さい」と、心から求めるほかはないのです。生命の パンを食する僕となるほかはないのです。  テモテ第二の手紙2章13節に、こう記されています。「たとい、わたしたちは不真 実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。私 たちは常に「不真実」な存在にすぎません。しかし、主イエス・キリストは「常に真 実」なお方です。私たちは常に自分を偽りますが、主は御自分を「偽ることが、でき ない」お方です。だからローマ書3章4節にあるように、私たちは「あらゆる人を偽 り者としても、神を真実なものと」して信じることができるのです。 自分をも、他者をも受け容れえず、それゆえ、なにものにも確かさを見出しえない 状態に現代社会は陥っています。現代に生きる私たちは、この世のどこにも確かなも の、永遠なもの、希望を繋ぐべきものを、見出せずにいるのです。仮に確かだと思っ て縋りついたものも、それは時の流れと共に倒れてしまう、かりそめの慰みにすぎま せん。しかし、そのような現代社会の中で、聖書の御言葉は、決して失望に終わるこ とのない、確かな永遠の希望を告げてやまないのです。 たとえ、この世界の全体が「偽り」であるとしても…。まことに大胆に聖書は私た ちに告げています。なおそこに変わらぬ真実が、私たちを生かす「天からのまことの パン」「神のパン」があると…。それこそ、私たちのために人となり、あらゆる御苦し みをお受けになって、十字架にかかられた主イエス・キリストなのです。真に人を活 かすもの、また人生の意味と目的が見えなくなっているこの現代社会のただ中に、聖 書は十字架の主キリストのみが、全ての人を養い、活かしめる「生命のパン」である ことを宣べ伝えてやまないのです。しかも、それは過去の出来事などではない。神は 御子イエス・キリストの御身体であるこの教会を通して、いま、現在、生きた「生命 のパン」を全ての人々に与えようとしておられるのです。  まことに、主がお語りになったように「神のパンは、天から下ってきて、この世に 命を与えるもの」なのです。私たちは主の教会を通して、主ご自身の御手から親しく、 この生命のパンである御言葉を賜わり、キリストに結ばれた者とならせて戴き、キリ ストの義を戴いて、キリストを着た者(キリストに覆われた者)として、養われつつ 生かされてゆくのです。そこに、私たちの全てにまさる慰めがあり、喜びがあり、希 望と勇気の源があるのです。