説     教   詩篇79篇9節   ヨハネ福音書6章28〜29節

「神のまなざし」

2008・06・22(説教08251224)  私たちがキリストによって救われることは、キリストの十字架による罪の贖いを通 して「永遠の生命」を戴くことです。この「永遠の生命」とは「不老長寿」のことな どではなく「神との正しい、生きた関係」であります。このことがなくして、私たち 人間は本当に生きた者とはなりえないのです。 主イエスから“生命のパン”を戴いた人々は、主イエスにお訊ねせずにおれません でした。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。この問 いは不思議なものです。というのは、ここで人々は「何をしたらよいか」と、なすべ き「わざ」を問うています。しかしそれは「神のわざを行う」ことです。それならば、 それは「永遠の生命」を求めることと一つです。そこに、私たち人間の本当の飢え渇 きがあるのです。誰もが求めて止まぬ“生命のパン”があるのです。「神のわざを行う」 ことと「永遠の生命を得ること」は、切り離しえない一つのことなのです。  主イエスはこの問いへと“活ける神の言葉”すなわち“生命のパン”をもって群集 を(私たちを)導いて下さいます。そして、ただ主イエスのみが、私たちの魂に潜む 本当の飢え渇きにまなざしを注がれ、それを御言葉によって満たし、新しいまことの 生命へと導いて下さるのです。 だからこそ、このヨハネ伝6章28節の人々の問いは大切です。「神のわざを行うた めに、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。そしてこの大切な問いに、主ははっ きりと「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」とお答えになられる のです。 もし私たちなら、この問いにどう答えるでしょうか。「神のわざを行う」とはどうい うことなのでしょうか。人それぞれ、いろいろな答えが出てくるでしょう。「良い行い をすることだ」と言う人もあれば「隣人の友になることだ」と言う人もいるでしょう。 「敵を赦すことだ」という人もあれば「人の嫌がる仕事を進んで引き受けることだ」 と言う人もいるでしょう。その他「孤独な人を訪問すること」。「困っている人を助け ること」。「悲しんでいる人を慰めること」「悩んでいる人を支えること」。「人の見て いない所で奉仕をすること」。さまざまな答えがあるに違いありません。  そうしたことを、主イエスは少しも否定なさっておられません。それどころか主は 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と仰せ になりました。それこそ主イエスの「新しいいましめ」です。私たちがなすべき「神 のわざ」は毎日たくさん備えられています。私たちがそれに気がつかないだけなので す。あるいは気がついていても、行わないだけなのです。私たちは「神のわざ」に不 忠実なのです。素直に答えを出せずにいるのです。単純な一線に立てずにいるのです。 いずれにせよ、これは私たちには重い問いです。できれば、言葉を曖昧にして避けて しまいたい問いなのです。  その重さは、実は一つのことに由来しています。それは、いま挙げた答えのすべて が、人間どうしの関係(人間関係)にかかわることだということです。いわゆる「倫 理の問題」です。そしてこの「倫理」ということは、突き詰めるならば(和辻哲郎と いう哲学者が語っていることですが)「人間関係の問題」なのです。つまり、私たちに とって「人間関係の問題」ほど重いものはないのです。逆に言うなら、私たちは人間 関係がいちばん大切だと思っているのです。だから私たちは「神のわざを行う」こと も、「人間関係の問題」なのだと思いこむのです。それは間違いではありません。しか し、もっと遥かに大切なことがあります。それが29節の主イエスの御言葉です。  29節「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神 のわざである』」。これこそ「人間関係の問題」を超えた、本当の人間関係の基礎とな る事柄なのです。これを聴いたユダヤの人々は驚いたのではないでしょうか。ここで 主イエスは倫理の問題を踏み越えておられる。「行い」ではないと言われるのです。主 が求めておられることは、ただ一つのことだけです。「神がつかわされた者を信じるこ と」であります。この「神がつかわされた者」とは、十字架の主イエス・キリストを さしています。十字架の主を信じ、そこにこの私の、また全世界のまことの救い(永 遠の生命)があると信ずることこそ、「神のわざを行う」ことなのです。 もし「行い」を問われるなら、それは人間としての功績を問うことになるのです。 すると、私たちは絶望するしかありません。自分には、神の前に誇りうるどのような 功績も無いと言うほかないからです。もし完全な人だけが救われるのだとすれば、私 たちには救いは無いと言わざるをえないからです。しかし、主イエスはただ「信仰」 のみをお求めになるのです。「わたしに繋がっていなさい」と主は語って下さり、そし て「わたしはいつも、永遠までも、あなたと共にいる」と約束して下さるのです。こ れが、今朝の御言葉の本当の深みです。  同じ新約聖書のマルコ福音書14章3節以下に、ひとつの出来事が記されています。 ベタニヤという町のある家で、主イエスが食事をしておられた時でした。その食事の 席に突然、一人の女性(主イエスから罪の赦しを戴いた女性)が入って参りまして「非 常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼ」を壊し、中身の香油を全部、 主イエスの御頭に注ぎかけたのでした。それは彼女の神への感謝と献身の現れでした。 ところが、見ていた人々は彼女のその行為を一様に非難したのです。「なんのために香 油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人た ちに施すことができたのに」と言ったのです。そして「女をきびしくとがめた」と記 されているのです。  そのとき、主イエスは人々を窘めてこう言われました。「するままにさせておきなさ い。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつ もあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。し かし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの 事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をし てくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所 では、この女のした事も記念として語られるであろう」。  主は「行い」(倫理)を軽んじておられるのではありません。「貧しい人たちはいつ もあなたがたと一緒にいる」という言葉が、それを明確に現わしています。しかし、 この女性が主イエスにした精一杯の行為を「もったいない」と言ってなじり、彼女を 審いた人々は、不思議なことに「いつも一緒にいる」はずの「貧しい人たち」の存在 を忘れ、あるいは無視していました。しかしこの名もなき女性は、主イエスに自分の いちばん尊い持物を献げることによって、主イエスを救い主(キリスト)と告白し、 主イエスの十字架のために「葬りの備え」をしたのです。彼女は倫理を大上段に振り かざす人々によって審かれました。しかしその審きの視線の中で、キリストのまなざ しの前に自分の全てを委ねました。自分にこそ正義があると誇る人々の軽蔑の視線の 中で、彼女はただひたすら十字架の主のみを見つめ、十字架の主の恵みのまなざしに 立ち続けたのです。彼女の持物を金額によってしか評価しなかった人々の前で、彼女 はそれを全部ささげて、なお足りぬ感謝を主に献げたのです。 主は言われるのです。この、倫理を云々する“正しい人々”についてではなく、ま さにこの、人々に審かれ、蔑まれ、罪の汚名を負わされた、名もなきこの女性のこと を、「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念と して語られるであろう」と言われたのです。私の十字架の贖いと共に、その贖いの恵 みの中でこそ、この女性のなした「わざ」が、全世界に記念されるであろうと宣言さ れたのです。  私たちは、人間関係のことだけに心を向け、いかにもそれを重んじているふりをし て、実はその人間関係において、自己中心であり、罪をおかし続ける者なのではない でしょうか。私たちは、ただ「人間関係」だけを重んじていては、決して「神のわざ を行う」ことはできないのです。むしろ倫理を声高に叫べば叫ぶほど「神のわざを行 う」生活から離れてゆくのが人間なのです。それは愛国心を声高に叫ぶ国には、実は 本当の愛国心がないのと同じ理屈であります。総選挙で当選者が奮わなかった政党、 業績が低迷している企業、成績が伸び悩んでいる職場において、必ずと言ってよいほ ど私たちがすることは、責任を追求することです。過去を振り返り、責任者を追及し、 粛清を求めます。そこでは人間関係のみが絶対視され、正義の御旗ともなり、それに 適合しない者は容赦なく排除されます。それが当然のようにまかり通っている社会を、 私たちは造って平然としています。私たちもそのような価値観でしか生きていないか らです。  しかし、主イエスははっきりと言われます。「神がつかわされた者を信じることが、 神のわざである」と。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょう か」と問う人々に対して、主はこの世の価値観や倫理ではなく、ただ信仰だけをお求 めになるのです。それは「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以 外」の何者をも「主」とはしない信仰であります。  私たちの教会では主日ごとに「中高生礼拝」を行っていますが、そこで作られてい る小さな週報に、あるとき、こういうことが書いてありました。プロのカーレーサー の中島悟さんという方が、「安全運転の秘訣」と題して、こういうことを語っているの です。安全運転の秘訣は、自分が車のフロントガラスから見ている風景と同時に、い つももう一人の自分を、自分の車の上空に意識していることなのだそうです。つまり、 いつも空の上から自分の車がどう見えるか、それを意識しながら運転することが、安 全運転の秘訣なのだそうです。  私はそれを何気なく読んで、そこには非常に深いことが示されていると思いました。 私たちの人生にも、その、もう一人のナビゲーターが必要なのです。私たちは、いつ も地上の人間関係という単一の視線だけではいけないのです。それだけでは、決して 本当の人間の生活にはならないのです。それこそ「神のまなざし」の中でこそ、私た ちははじめて生きた者になるのです。「神のまなざし」をいつも意識しているのでなけ れば、人生の安全運転は決してできないのです。まさにその「神のまなざし」を意識 することこそ、今朝の御言葉で主イエスが言われる「神がつかわされた者を信じるこ と」なのです。それこそが「神のわざを行う」生活を生み出すのです。そして、そこ にこそ、本当の意味での「倫理」も形作られてゆくのです。  ドストエフスキーの小説が、神の問題ばかりを扱っているように見えて、実は最も 深く鋭く真実に人間を描いているのと同じように、私たちの生活もまた、神がお遣わ しになった御子イエス・キリストを「わが主」と告白する信仰において、はじめて人 間関係をも、正しく形作られてゆくのです。本当に健やかな人間関係は、なによりも まず、神の御子イエス・キリストを信ずる信仰に健やかに生きることによるのです。 いっけん人間関係からは遠回りに見え、無関係にさえ見えるキリスト信仰こそ、すべ ての人間関係と、その「わざ」の唯一の土台なのです。  それは、なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストのみが、私たち人間を骨の 髄まで虜にしている罪と死の支配に対して、御自身の十字架の死と、御復活とをもっ て、完全かつ永遠に勝利して下さった唯一の救い主だからです。私たちの心に使徒行 伝4章12節のペテロの言葉が鳴り響きます。「この人による以外に救はない。わたし たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」。 ただ主イエス・キリストの御名のみが、私たちの究極的かつ永遠の救いなのです。こ の「御名」とはキリストの御人格そのものです。キリストそのものです。私たちは他 の何物によってでもなく、ただキリストそのお方の恵みによってのみ、救われるもの であります。  詩篇79篇9節「われらの救の神よ、み名の栄光のためにわれらを助け、み名のた めにわれらを救い、われらの罪をおゆるしください」。ここに「み名のため」「み名の ために」と繰り返し祈られます。これは「あなたの御名に鑑みて」あるいは「御名に 免じて」という意味ではありません。文語では「御名のゆえに」であります。この「ゆ えに」とは、唯一の御名に固着することです。それこそイエス・キリストの御名です。 私たちはただキリストに固着して救われるのです。他の何のいさおしも求められては いないのです。何の条件や資格もいらないのです。ただひたすらに、キリストの御名 に固着し、キリストに自分を明け渡すのです。キリストを信じ、キリストを「わが主」 と告白するのみであります。それが「神のわざを行う」ことなのです。  もう一度、今朝の御言葉を心にとめたいと想います。「そこで、彼らはイエスに言っ た、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼 らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」。