説    教   創世記22章9〜14節  ヨハネ福音書5章45〜47節

「キリストを証するモーセ」

2008・05・18(説教08201219)  「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない」と主イエスは言わ れます。与えられたヨハネ福音書5章45節の御言葉です。主イエスがこうした否定的 な言いかたをなさることは珍しいことです。「訴え」の問題は真理の問題に絡んでいます。 訴えを起こす側と起こされる側の、どちらが正しいのか、どちらの側に真理があるのか、 それを問い糺すことが「訴え」の性質なのです。  ところが主イエスは、私があなたがたを「訴える」などと考えてはならないと、厳し くパリサイ人たちに言われます。それは、パリサイ人たちがまず、主イエスに論争を挑 んでいたからです。このヨハネ福音書第5章の最初に記されていたことですが、38年間 も病気で寝たきりであった人を、主イエスが安息日に癒されたことを巡って、パリサイ 人たちは主イエスを訴えたのでした。安息日の律法に反することをしたと言って、主イ エスに対して訴えを起こしたのです。  そればかりでなく、パリサイ人たちは、主イエスが、神を御自分の「父」とお呼びに なったことを捕らえて、同じ5章の18節にあるように「ますますイエスを殺そうと計 るようになった」のです。18節に「イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自 分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである」と記されているとおりで す。パリサイ人たちにしてみれば全面勝訴の勢いだったのです。よもや自分たちがこの 訴訟に負けるなどとは夢にも考えていないのです。今度こそ主イエスを亡きものにでき ると考えていたのです。  しかし主イエスは、訴え、訴えられる関係として、パリサイ人たちと相対してはおら れません。主イエスにとって、それはどうでもよいことでした。御自分が負けてもそれ で良いのです。大切なことはただ一つ、彼らが“神を信じているかどうか”ということ だけなのです。神の主権が現れるかどうかということだけです。パリサイ人たちの救い だけが、主イエスの関心事なのです。御自分の身の危険など少しも主イエスの眼中には ありません。御自分の危険を全く顧みられないのです。むしろ、パリサイ人たちの救い のためにお働きになるのです。  だからこそ、主イエスは「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけ ない」と言われました。「わたしは、あなたがたを審かない」と言われました。訴えを起 こす自由は何人にもあります。しかし、いったい誰が、本当に人を審くことができるで しょう。また、いったい誰が、神を審くことができるでしょう。神のみが、永遠に正し い唯一のおかたです。人間は誤りと弱さに満ちた存在です。にもかかわらず、私たちは 人間を(隣人を)平気で審こうとします。神さえも審こうとするのです。自分が神に成 り代わろうとするのです。  パリサイ人たちが主イエスにしようとした審きは、まさにそのような罪によるもので した。彼らは「互に誉を受ける」ことには熱心でしたが「ただひとりの神からの誉」を 求めることを知らぬ者たちでした。そこで主イエスは、そのようなあなたがたは「どう して(神を)信じることができようか」と言われます。これは「(あなたがたは)どうし て(生命を得られようか)」という意味です。これは“あなたは本当に神を信じて生きて いるか否か”という問いです。逆に言うなら、神を信じていないからこそ、どちらの訴 えが正しいかという、人間の問題だけが中心になるのです。そこに審きが生れるのです。  そこでこそ、主イエスは言われます「あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みと しているモーセその人である」と。この場合「モーセ」というのは「モーセ五書」つま り、旧約聖書の最初に出てくる、@創世記、A出エジプト記、Bレビ記、C民数記、D 申命記の「五書」をさしています。これをユダヤの伝統においては「律法(の書)」と呼 びました。今でもイスラエルでは「律法」と言うと、それはまず「モーセ五書」のこと です。ですから主イエスが言われる「モーセその人」とは「律法」(しいては旧約聖書全 体)のことなのです。  パリサイ人たちは、それこそ、モーセ五書(律法)を盾に、主イエスを「訴え」てい たのです。律法によれば、安息日には何の「わざ」もしてはならないとある。それなの に、あなたは病気の人を癒したではないか。ここで彼らは、38年間も病気で寝たきりで あった人の、苦しみも、悲しみも、何も見ておりません。ただ、律法の条文だけを見て います。そして主イエスを審くのです。病気から癒され、罪から解放されて、喜びに躍 り上がる人を尻目に、ただ律法に叛いたというだけの理由で、審こうとするのです。自 分たちの側にのみ、絶対の正義があると主張するのです。人間の思いで、神の御業を否 定するのです。  まさにこのパリサイ人たちに、主イエスは言われます。「あなたがたを訴える者は、あ なたがたが頼みとしているモーセその人である」。あなたがたが自分の正義を振りかざす 根拠とする律法の言葉そのものが、あなたがたを「訴え」ているではないか。大切なこ とは、主イエスはここで、律法の言葉があなたがたの「誤りを指摘している」とは言わ れず、あなたがたを「訴え」ていると言われたことです。この「訴え」という字は「信 仰を求める」という意味です。モーセの律法があなたがたに「信仰を求めて」いる。そ のことが見えないのかと、主イエスは問われるのです。  ここで思い起こすのは、カール・バルトという人の言葉です。人類の歴史上最も悲惨 な第二次世界大戦の経験の中で、バルトは「教会教義学」という本を著しました。そこ でバルトが語る最も重要なひとつのことは、神の言葉(福音)は、私たち人間に迫る救 いの力そのものだということです。私たちは迫り来る神の言葉の前に、決して傍観者で あることはできないのです。それにもかかわらず傍観者(つまり審く者)の立場を取る とすれば、それは、神の言葉を神の言葉としてではなく、自分の言葉として聞いている にすぎないのです。  神の言葉は、私たちに迫り来る“神の救いの出来事”そのものです。単なる上辺の言 葉ではなく、私たちの人生を根本的に変革する「福音」なのです。それを本当に聴くと いうことは、私たちがキリストに結ばれることです。キリストが私たちのために成し遂 げて下さった、あの十字架の出来事に結ばれることです。そこでのみ、私たちは変えら れてゆくのです。神の言葉が「この私に迫りたもう十字架のキリスト」として聴かれる とき、そこに真の教会が建てられてゆくのです。キリストは全ての人に対する神の言葉 として、私たちの罪と死という限界線を打ち破り、世界のあらゆる悲惨と混乱と暗黒の 中に入って来て下さったかたです。私たちの罪と滅びを徹底的に担い取って下さったか たです。だから私たちは、この十字架のキリストの前に傍観者ではありえないのです。  それならば、パリサイ人たちは、まさにこの神の言葉であるキリストを聴いてはいな かったのです。主イエスは「神の国は、言葉ではなく、力である」と言われました。こ の「力」とはデュナミスという字です。ダイナマイトの語源になった言葉です。私たち の罪の支配という堅い殻を打ち破り、私たちに真の自由を与える救いの力が、キリスト によって私たちのただ中に現れたのです。この十字架の出来事の前に、私たちはキリス トを「わが主、わが救い主」と信じ告白するのみです。  それゆえに、主イエスは言われます「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わ たしをも信じたであろう」と。主は「モーセは(旧約聖書は)わたしを証しするもので ある」と言われるのです。だから47節には「モーセの書いたものを信じないならば、 どうして、わたしの言葉を信じるだろうか」と言われます。つまり、モーセ五書を正し く読むなら、そこにキリストのみが証されていることがわかるということです。モーセ の律法もまたキリストを証しする福音なのです。旧約聖書の全体が、ただキリストのみ を証しているのです。  具体的に、ひとつの事例を挙げてみましょう。創世記22章9節以下に、アブラハム がわが子イサクを犠牲として献げようとした場面があります。私たちにとって不思議に 思われる御言葉です。親にとってわが子にまさる宝はありません。子供の生命こそ親の 生命以上の宝です。その愛する子イサクの生命を犠牲として献げるようにと、神はアブ ラハムに命じたもうのです。あまりにも不条理な、そして残酷な命令です。パスカルは 「この日アブラハムは老人になった」と記しています。まさにこれは存在の臨死体験そ のものでした。人間にとって最も耐えがたい苦しみ、それがアブラハムのイサク奉献の 出来事なのです。  では、この出来事はいったいなにを証しているのでしょうか。なにを語っているので しょうか。それは、このアブラハムの最も耐えがたい苦しみを通して、私たちに対する 神の愛が、いかに熾烈な真実なものであるかが示されているのです。主イエス・キリス トがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき、父なる神の御声が響きました。「こ れは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と。まさにその「愛しむ子、悦びである御子イエ ス」を父なる神は、私たちの罪のために、世にお与えになったのです。 福音の中心は、父なる神の限りない愛と喜びの対象であった独子イエスを、その神が 十字架において遺棄せられたという出来事にあります。主イエスは十字架において「わ が神、わが神、なにぞ我を見棄て給ひし」と叫ばれました。父なる神は実に最愛の独り 子を、私たちを救うためにお献げになったのです。永遠の神が、十字架に死に、墓に葬 られる者となったのです。このゆえにこそ、神のこの行為は文字どおりの「犠牲」であ りました。  犠牲とは、自分にとってどうでも良いものを棄てることではありません。どうでもよ いもの「かけがえのあるもの」(スペアがあるもの)を棄てることは「犠牲」とは呼びま せん。犠牲とは、自分にとってどうしても棄てられないもの(「かけがえのないもの」) を棄てることです。それが「犠牲」なのです。しかも、神のこの犠牲は、神に叛く罪人 なる私たちを救うためでした。相応しい者のためにではなく、相応しくない者のために、 神は最愛の御子を(御自身を)犠牲として下さったのです。  だから、同じヨハネ伝の3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世 を愛して下さった」と告げられています。ルターによれば、これこそ「聖書の中の聖書」 「福音の中の福音」です。「この世」とはローマ書5章によれば、神に叛いた罪の世で あり、私たち全ての者をさしています。それなら神が「この世を愛された」とは、罪に 支配された棘だらけの私たちを、その棘だらけのままに、相応しくないままに、極みま でも愛して下さったということです。最愛の独り子をお与えになったほど、熾烈な愛を もって愛して下さったのです。  アブラハムが神に命じられて、わが子イサクを献げようとした出来事は、まさにこの、 私たちに対する神の熾烈な愛をさし示しているのです。最愛の宝であるイサクを献げる ように求められたアブラハムが、わが子に手をかけようとしたその瞬間、神はアブラハ ムをお止めになります。「決してわらべに手をかけてはならない」と言われます。そして、 アブラハムの手に、イサクを返して下さったのです。しかし、神はどうであったかと申 しますと、主なる神は、私たちを罪から救うために、その最愛の独り子イエスを、真に 犠牲にして下さったのです。 神の外に出てしまった私たちを救うために、神が神の外に出て下さった。神が神でな いものになって下さった。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。この神の愛 を知った私たちは、この福音の出来事を聴いた者は、本当にその人生を変えられてゆく のです。「傍観者」であることはできなくなるのです。創世記22章9節以下だけでさえ も、私たちは御子イエスを「わが主、救い主」と告白せざるをえないのです。「傍観者」 ではありえないのです。  それならば、今朝の御言葉のパリサイ人たちにも、主は信仰のみを求めておられるの です。彼らが真に神を信じ、救われることのみを求めておられるのです。それゆえに「あ なたがたが頼みとしているモーセその人」が、今あなたがたを「訴え」ているではない かと言われるのです。モーセ五書が、否、旧約聖書の全体が、いま確かな「福音」を告 げているではないか。救いへの招きを告げているではないか。人生の確かな祝福を告げ ているではないか。平安と勇気と希望を告げているではないか。いま、あなたがたはそ の御言葉を聴いているではないか。いま、あなたがたは私と共にいるではないか。その ように主は告げておられるのです。  私たちの罪の唯一の贖い主として、十字架への道をまっすぐに歩まれた主イエスと共 に、私たちの歩みがいま、ここに確かに形造られていることを、心からの感謝をもって、 主にのみ栄光を帰して参りたい。ただ主のみを見上げて従う信仰の歩みを、ともどもに 造って参りたいと思います。