説     教     イザヤ書32章15節    使徒行伝2章1〜4節

「ペンテコステの喜び」 聖霊降臨日主日礼拝

2008・05・11(説教08191218)  「ペンテコステ」とは「五十日目」という意味のギリシヤ語です。イースター(主 の復活の日)から数えて五十日目という意味ですが、本来はユダヤの暦で、シナイ山 におけるモーセへの十戒の授与、またイスラエルの民が神の民とされたことを記念す る祝日でした。今朝の使徒行伝2章1節には「五旬節の日」と訳されています。  なにより大切なことは、この五旬節の日に「みんなの者が一緒に集まって」いたと あることです。主の弟子たちが、祈り、礼拝を献げるために、一箇所に集まっていた のです。場所はおそらく「最後の晩餐」が行われた、エルサレムのマルコの家であっ たと思われます。主イエスが最初の聖餐式を行われた、その同じ場所が、弟子たちの 最初の集会所となり、そこに初代エルサレム教会が誕生したのです。  主イエスの十字架の死と葬りから、僅かひと月あまりしか経っていなかった時です。 まだ弟子たちには、主イエスの復活の事実が、昨日の夢のように感じられていました。 トマスのように、主の復活を信じることのできない者さえいました。主がいま生きて 働いておられることを、信じえない弟子たちの現実がありました。生きて現臨してお られる主の御姿を見失うほど、彼らの心は、大きな恐れに閉ざされていたのです。  大祭司カヤパの邸宅の中庭での、あの恐ろしい夜の出来事は、なお弟子たちの心に 焼きついていました。主の十字架の判決が下されたあの夜、「たとえ、あなたと一緒に 死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と大見栄 を切ったペテロさえ、その夜のうちに主イエスの御名を三度も拒み、裏切り、残りの 弟子たちもまた、散り散りになって逃げて行ったのです。主を裏切ったのはイスカリ オテのユダだけの罪ではありません。他の弟子たちもみな同じでした。  それは弟子たちにとって、恥ずべき、忌まわしい記憶です。主イエスに対して顔向 けのできない弟子たちです。しかもその弟子たちに、律法学者やローマの支配者によ る迫害の危機が迫っていました。弟子たちは大きな不安と恐れの中にいたのです。エ ルサレムから一刻も早く離れるべきだという声もありました。  しかし、そこでこそ弟子たちは、エルサレムを離れなかったのです。私たちにも「こ のような苦しみや悩みから、一刻も早く逃れたい」という思いが支配することがあり ます。ビデオを巻き戻すように、過去を清算したいという思いに駆られることがあり ます。しかしそれは失敗に終わります。むしろ復活の主は、私たちの大きな恥と、恐 れと、弱さと、破れの中でこそ、私たちと共にいて下さるおかたです。弟子たちは主 の御言葉を信じ、エルサレムにとどまり続けました。「みんなの者が(祈るために)一 緒に集まった」のです。自分たちを取り囲む恐れの現実の中で、主イエスの御言葉を 信じたのです。 それは、同じ使徒行伝1章8節に記された、主イエスの御約束の言葉です。主は言 われました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサ レム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。  この最初の「ただ」という言葉は大切です。「ただ」父なる神のもとから主が遣わし て下さる聖霊のみが、私たちをキリストに堅く結んで下さるのです。ただ聖霊なる神 の恵みによって、弟子たちは弱さと破れのあるがままに、真のキリストの弟子とされ たのです。第一コリント書12章3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主で ある』と言うことはできない」。そのことを、この「ただ」という言葉が示しているの です。私たちの信仰は聖霊によるのです。2000年前の弟子たちの信仰と、同じ喜びを 戴いているのです。  この約束を弟子たちは信じ、大きな恥と、恐れと、弱さと、破れの中で、「ただ」ひ たすらに、主の言葉に信頼したのです。主が測り知れない愛をもって、御自分の肉を 裂き血を流して、全ての人の贖いとなられた、あの最初の聖餐が行われた記念の場所 が、復活の生命の門(教会)となったのです。主の十字架から逃げた弟子たち、主を 見捨ててしまった弟子たちが、今ここに、ペンテコステの日に、新たに十字架と復活 の主のもとに招かれ、立てられて、キリストの主権のもとに生きる者とされたのです。  それこそ、私たちの教会の姿そのものではないでしょうか。私たちもまた、それぞ れ違った人生の歩みから、不思議な仕方で主の招きを受け、聖霊によってこのピスガ 台へと集められているのです。まさしく礼拝者として、聖霊によって一つの群れとさ れているのです。パウロが語るように、私たちは数多くあっても、ともに一つなるキ リストの御身体にあずかる者とされています。キリストに結ばれてひとつの身体とな り、かしらなるキリストに仕える僕とされているのです。  私たちの知恵や力ではなく、ただ聖霊なる神の御業が教会を建てるのです。だから 私たちが戴いている救いは永遠に確かなのです。今ここに聖霊によって教会が建てら れ、私たちは主の復活の生命に連なる者とされています。聖霊が与えられていること は、教会に連なる全ての者に、キリストの復活の生命(祝福と平和)が豊かに与えら れていることです。そこでは、私たち一人びとりが「聖霊の宮」とさえ呼ばれます。 「宮」とは礼拝の場所です。私たちの人生は、聖霊によってキリストに結ばれること により、神を崇め、讃美し、神に栄光を帰するものへと変えられてゆくのです。  宗教改革者カルヴァンは「聖霊は、私たちをキリストへと、永遠に結ぶ絆である」 と語りました。私たち一人びとりが、聖霊によってキリストに結ばれ、祝福の人生を 歩む者とされます。今日、私たちは一人の姉妹の洗礼の喜びを与えられました。聖霊 は救われる者を日々、信仰の仲間に加えて下さいます。この姉妹もまた、本当に不思 議な仕方で、今日までの人生を、主の導きのもとに歩み、今日ここに、聖霊なる神の 導きのもと、信仰を告白して洗礼を受け、聖なる公同教会の一員に加えられました。 聖霊による教会の誕生を記念し、讃美と感謝を献げるこの礼拝において、信仰の仲間 を迎える喜びを与えられました。それは全てにまさる幸いです。  その幸いを覚えつつ、今朝の2節以下の御言葉を見ましょう。そこに「突然、激し い風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響 きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上 にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの 他国の言葉で語り出した」と記されています。  「激しい風が吹いてきたような音」とは、サムエル記下5章24節にもありますが、 神の現臨のしるしです。「家いっぱいに響きわたった」とは、教会全体にその「しるし」 が現れたことです。そして「舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりび とりの上にとどまった」とは、神の御言葉が聖霊によって、私たち一人びとりに与え られたことです。「舌」というギリシヤ語は「言葉」とも訳されます。それが「炎のよ うに分かれて現れた」とは、聖霊による神の言葉の主権が、私たちの罪を焼き尽くし、 新たにする恵みとして、いま一人びとりに与えられていることを意味します。 主は「助け主なる聖霊が、あなたがたにくだるとき、聖霊は、わたしが語った全て の言葉を、思い起こさせて下さるであろう」と言われました。私たちは自分の知恵や 知識や経験によってではなく、ただ聖霊によってはじめて「イエスは主なり」と告白 するのです。使徒行伝16章にルデヤの物語が記されていますが、川のほとりでパウ ロが福音を語ったとき、「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」 と記されています。主はただ聖霊によってルデヤの心を開いて下さり、キリストを信 ずる者として下さったのです。そこにヨーロッパ最初の教会が生まれたのです。 創世記の第11章には有名な「バベルの塔」の物語があります。そこでは、自分を 際限なく伸し上げる自己神格化の姿こそ、私たちの罪であることが明らかにされてい ます。だから塔の建設が進むにつれ、互いの言葉が通じなくなりました。私たちの罪 が、言葉を祝福の器から、自己主張の符号へと変え、世界を分裂させたのです。「言葉 の無意味化」による分裂こそ、今日の世界を覆う最も深刻な出来事なのです。だから 「バベル」という字は「混乱」という意味です。世界は今もなお至るところに「混乱」 というバベルの塔を建て続けているのです。  そのバベルの塔を打ち崩し、祝福の生命を全ての人に与える教会が、聖霊によって 建てられた出来事こそペンテコステなのです。そして、キリストの生ける御身体に私 たちが連なることによってのみ、本当の言葉が回復されてゆくのです。私たちのバベ ル「混乱」の罪は、ただそこでのみ贖われ、救われるのです。パリサイ人であったパ ウロを虚しい誇りから救い、キリストの祝福の言葉の使徒とした聖霊の恵みが、私た ちにも与えられているからです。私たちが生きるべき真の身体は、主の御身体である 教会の内にあるからです。 私たちはキリストに結ばれてのみ、自分の虚しい義を捨てて、キリストの義(救い の恵み)に生きる僕とされます。キリストが私たちを、御自分の義をもって覆い包ん で下さいました。「ただ」そこでのみ私たちは、互いの交わりを建て、人を活かしうる、 慰めと祝福の言葉を持ちうるのです。それは「キリストが、あなたと共におられる」 という福音の出来事です。神の測り知れない愛を伝える言葉です。あなたのために、 神の御子が十字架に死なれたという福音です。まさしくそれを、私たちは、全ての人 に対する祝福の言葉として持つ者とされているのです。  ハイデルベルク信仰問答の問1に、こうあります。「生きるにも死ぬにも、あなた のただ一つの慰めは何ですか。〔答〕わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、 生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることで す。このかたは御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔の あらゆる力からわたしを解放して下さいました。そしてまた、御自身の聖霊によりわ たしに永遠の命を保障し、今からのち、このかたのために生きることを心から喜び、 それにふさわしくなるように、整えても下さるのです」。  主は、聖霊によってお建てになったこの教会に、全ての人を招いておられます。そ こで私たちの人生に、生きるにも、死ぬにも、決して変わらない真の慰めを、十字架 による贖いと祝福の生命を、与えて下さるのです。聖霊みずから、私たちに与えられ た永遠の生命を保証して下さり、今からのち、私たちが、主の御栄えを現す者となる ように、全ての歩みを、御言葉によって整え、導き、支えて下さるのです。  この、言い尽くせぬ大いなる恵みの内に、私たち一人びとりの信仰の歩みが整えら れていることを感謝し、心を高く上げて、教会に仕え、キリストに従ってゆく私たち でありたいと思います。