説    教     詩篇62篇1〜7節   ヨハネ福音書5章19〜24節

「キリストの御生涯とわれらの救い」

2008・04・06(説教08141213)  今朝のヨハネ福音書5章19節の御言葉は、主イエス・キリストの御生涯をもっと もよく現している御言葉のひとつです。「さて、イエスは彼らに答えて言われた、『よ く、よくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分から は何もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする のである』」。  ここに主は「よく、よく、あなたがたに言っておく」と言われます。この「よく、 よく」とはもともとの言葉では(ギリシヤ語では)「アーメン、アーメン」です。主は 私たちを救う福音をお告げになるとき、よく最初にこの表現をお用いになりました。 24節と25節にも同じ言葉が出て参ります。しかも、ここで主はこれを弟子たちにで はなく、パリサイ人たちに語っておられるのです。  もともと「よく」と訳された「アーメン」という言葉は、神の真実に対する応答を あらわすものでした。だから文語訳の聖書では「まことに、まことに」と訳されてい ます。私たちが祈りの最後に「アーメン」と唱えるのも、神の恵みの真実に対する感 謝の応答です。それならば、ここで主イエスは、まさに神の真実に対する感謝の応答 が湧き起こらざるをえない福音を、弟子たちと同じように、パリサイ人たちに対して も、同じように語っておられるのです。  それは実は、主イエスの地上での全生涯、そして全ての御言葉ついて言えることで す。主はただの一度も、誰に対しても、福音(救いの喜びの音信)ではない言葉を語 られたことはありません。福音そのものである主イエスの前に、全ての人が招かれて いるのです。何よりもこの19節において、主イエスは父なる神との関係を明らかに しておられます。同じヨハネ伝の5章17節においても、主は「わたしの父は今に至 るまで働いておられる。わたしも働くのである」と仰せになりました。同様に、今朝 の19節の御言葉では「父のなさることを、子も(私も)そのとおりにする(あなた がたに現わす)のだ」と言われるのです。  主がベテスダの池で、38年間も寝たきりであった病人を癒されたとき、その日が安 息日であったことから、パリサイ人たちは、モーセの律法に違反することだと主イエ スを非難しました。18節には「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そう と計るようになった」と記されています。その理由づけとして「それは、イエスが安 息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとさ れたからである」とも記されています。ここに、主イエスの十字架への道は確定した と言ってよいでしょう。神に仕え、民衆に御言葉を伝える務めにあったパリサイ人た ちが、主イエスが神の御子(キリスト)であることを見抜けなかったのです。ここに、 私たち人間の罪の深さとしぶとさが現れています。  主イエスがなさった癒しの御業は、罪の支配のもとにある私たちを、神の恵みの支 配のもとに移して、新しい祝福の、喜びの生命を与えて下さったことです。譬えて言 うなら、干上がった池でもがき苦しんでいた魚を、水の豊かな新しい池に移すように、 主イエスは私たちを、御自身の十字架によって罪の泥沼から引き上げ、恵みの支配の もとに移して下さったのです。私たちの罪を贖い、復活の生命を与え、神の民として 下さったのです。しかも、そのことを、主イエスは少しも御自分の功績とはなさらな かった。自分がしたわざだとさえ仰せにならなかったのです。御自分の栄光を少しも お求めにならないのです。  主イエスは、その全ては、ただ父なる神の御業を行っただけだと仰せになるのです。 だから20節には「父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しにな る」とさえ言われました。そして24節には「よく、よく、あなたがたに言っておく。 わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、 またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と言われたのです。こ れは来たるべき十字架の出来事による完了形です。主は既に、私たちのために罪の贖 いとなって下さったのです。だからいま、主に結ばれて生きる私たちは主が言われる ように「死から命に移されている」のです。 まさにその救いの出来事が、父なる神みずからのお働きであると主は言われるので す。主がベテスダの池で寝たきりの人を癒されたことは、たちまちエルサレム中に伝 わりました。もし主イエスがただひと言、これは「私が行った、私のわざである」と 言えば、たちまち主イエスは有名人となり、絶大な人気を博し、王の地位につくこと ができたでしょう。しかし主イエスは、これは少しも自分がしたことではない。ただ 父なる神が、自分を通して現わしたもうた救いの御業であると言われるのです。これ は主イエスの全生涯を貫いていることです。  主イエスはどのような時にも、まことの神の御子(キリスト)として、父なる神の 御心と御業と完全に一心同体であられました。ですから、主イエスがなさる御業の全 て、また語られる御言葉の一つ一つが、ただ神の栄光のみを現すものになったのです。 主イエスを見つめた人々は、主イエスを通して働いておられる父なる神の救いの御業 を見る者とされました。主イエスの御言葉を聴いた人々は、主イエスによって神の福 音を聴く者とされました。そして、父なる神に讃美と栄光を(真の礼拝を)帰する者 とされたのです。  それに対して、私たちはどうでしょうか。私たちはもちろん、主イエスのような神 の御子ではなく、罪ある、死すべき人間にすぎません。それなのに、私たちはとかく 何をなすにしても、それは自分の力でしたことだ、この私がしたことだ、この私の功 績だと、主張するのではないでしょうか。言い換えるなら私たちは、すぐに自分の力 に拠り頼んでしまうのです。それは、私たちが何をするにしても、自分の才能や知識 や過去の経験などから、これは「できる」とか「できない」などと値踏みをすること です。そして、もしその仕事が自分の手に負えないとわかれば「自分は値打ちのない ダメな人間だ」と落ちこみ、反対に、その仕事が楽にこなせると思うと「自分は何て 有能な賢い人間なのだろう」と自惚れるのです。それはそのまま、他人への評価にも 繋がります。自分より上手に仕事をしている人を見れば、妬ましく思い、足を引っ張 ろうとします。逆に、失敗している人、自分ほど仕事ができない人を見れば、自分が 偉くなったような優越感を味わうのです。ようするにどちらにしても、私たちは愚か な、自分のことだけしか見えない存在なのです。  思えば、私たち人間ほど、身のほど知らずの存在はないのではないでしょうか。人 間以外のどんな生物も、謙虚に精一杯生きています。神の祝福をそのままに現わして います。それなのに、私たち人間だけは、罪の支配の内にありながら、自分を神にま でのさばらせようとするのです。誇大妄想に取り憑かれ、罪の内にありながら、罪の 赦しを求めず、神に敵対したままで、しかも、自分を神に祭り上げようとさえするの です。あの創世記11章の「バベルの塔」の物語のように、自分の業績を積み上げて、 天にまで至らせようとするのです。そこに、私たちの罪の本質があるのです。  あるとき、主イエスの十二弟子が、自分たちの中で誰がいちばん「偉い」だろうか と論争していました。その晩、主は弟子たちに「あなたがたは道々、何を論じ合って いたのか」とお問いになりました。弟子たちは黙っていました。恥じていたというよ り、結論が出なかったからです。そのような弟子たちに主は、一人の幼な子を膝の上 に取り上げられて「よく、聴きなさい。誰でも、心を入れ替えて、この幼な子のよう にならなければ、神の国にはいることはできない」とお教えになったのです。  人間的な価値基準で言うなら「幼な子」ほど仕事のできない、すなわち価値の低い 存在はないことになります。だから弟子たちは驚きました。この弟子たちに主ははっ きりと言われるのです。「幼な子」とは神の御前に、あるがままの自分を委ね、安心し きっている存在です。あなたがたも同じように、神の恵みの御手に自分を委ね(明け 渡し)、神がなさる救いの御業を、丸ごと信じる人になりなさい。そうでなければ、決 して神の国に入ることはできないと。すなわち「幼な子」となることはキリストを信 じてキリストに連なることです。その人は例外なく神の国の民とされるのです。天国 に入る者とされるのです。だから「心を入れ替えて」とは、反省するという意味では ありません。キリストを信じて、教会に連なり、礼拝者たる歩みをすることです。社 会的・道徳的な「正しさ」ではなく「キリストの義」を着ることです。 私たちは、イエス・キリストを信じ、教会に連なることによって、例外なく神の救 いを(キリストの生命を)受け、キリストの生命に生かされる、喜びの生命に生きる 者とされるのです。私たちの罪は、いかなる人間の功績や知識や力も、まったく追い つかないほど深刻なものです。罪に対処しうるいかなる人間の「正しさ」もありませ ん。それに対処しうるのはキリストのみです。譬えて言うなら、身体の内部が冒され た重病の患者に絆創膏を貼っても、病気を治すことはできません。主イエスは私たち に偽りの治療などなさらない。私たちの「罪」という本質的な病を徹底的に治療する ために、御自分の生命を十字架上に献げて下さったのです。御自分の御苦しみと死と 復活の恵みをもって、私たちを根本治療して下さったのです。その恵みの事実を、キ リストの十字架の極みなき救いの出来事を、「幼な子」のようにそのまま、丸ごと「ア ーメン」と受け入れること、それだけで良いのだ。そこにこそあなたの「救い」があ るのだと、主は断言して下さるのです。  突き詰めて考えるなら、私たちはたとえば、たった一人の身近な人間でさえ、自分 の力で、自分の能力で、本当に真実に、完全な愛をもって、愛し貫くことができるで しょうか。あるいは、自分の子供を、自分の力で、自分の能力で、少しの誤りもなく、 一つの失敗もなく、完全に育て上げることができるでしょうか。もし「それができる」 と答えるとすれば、それこそ傲慢なことだと言わねばなりません。 あるいは、私たちは、自分の力で、一人の人を本当に信仰へと導くことができるで しょうか。私たちが誰かに声をかけて、その人を教会に誘ったとします。その人がや がて洗礼にまで導かれたとして、もし私たちがそこで「この私がこの人を救ってやっ たのだ」などと考えるなら、それこそ傲慢の極致でありましょう。改めて考えるなら、 私たちはこの世界のあらゆる人間関係の中で、本当に何ひとつとして自分を誇ること はできないのです。ただひたすらに神の赦しと憐れみを求めるほかはない存在なので す。その仕事が、わざが、本質的な、大切なものであればあるほど、それは、私たち の手に余るのです。私たちの力を超えているのです。そこでこそ問われるものは、私 たちが自分の力や能力に拠り頼むことなく、キリストの恵みに自分を明け渡している かどうかなのです。 その意味で、主イエスの御生涯そのものが私たちの救いなのです。言い換えるなら、 私たちの人生は私たちの「主」とはなりえず、私たちの人生がまことの「主」を必要 としているのです。主イエスの御生涯は十字架と復活に集約されます。それならば、 私たちの全存在を受け止め、贖って下さるまことの「主」こそ、十字架と復活のキリ ストなのです。その恵みの事実を、私たちは改めて福音として、今朝の御言葉によっ て受ける者とされています。ここに、完全に「この私のために」存在して下さるおか たがおられる。「この私のために」十字架にかかられ、死んで葬られ、復活して下さっ た「主」が、私たちの変わらぬ救い主なのです。  今朝、このあとの聖餐の中で、私たちは西暦381年制定のニカイア信条を共に告白 します。そのには主イエスが「まことの神のまことの御子」であり「御父と本質を同 じくされる」かたであると告白されています。それは何より、今朝の御言葉によって 明らかにされるのです。それは、主イエスと父なる神とは、完全な一体関係であられ たということです。御父の御心は主イエスの御心であり、主イエスの御思いは御父の 御心と一心同体であられた。そこには些かの齟齬もありませんでした。これは驚くべ きことです。そこに私たちの完全な救いが約束されているのです。 理由は、とても単純なことです。私たちは主イエスによらずして、まことの神にお 目にかかることはできないからです。逆に言えば、主イエスにお目にかかっているな らば、私たちはたしかにまことの神にお会いしているのです。それならば、まず主イ エスご自身が私たちのもとに訪ねて来て下さったのですから、私たちはいまここにお いて“神と共にある者たち”なのです。「わたしたちに父を示してください」と願うピ リポに「わたしを見た者は、父を見たのである」と仰せになった主は、同じように、 ご自身によって私たちをまことの神の永遠の民として下さるのです。主イエスを見る 者は父なる神を見るからです。主イエスに贖われた私たちは、父なる神のいっさいの 救いに与っているのです。主イエスに結ばれている私たちは、父なる神に結ばれて朽 ちぬ永遠の生命を与えられ、天の御国の民とされているのです。 何よりも、どこよりも、いまここにおいて、この礼拝において、御言葉と聖霊によ って主は私たちと共にいて下さる。私たちはこの礼拝において、いま主イエスにお目 にかかり、父なる神にお会いしているのです。神の救いに与る者たちとされているの です。 同じ新約聖書のピリピ書2章8節に、キリストは「(御自分を空しくされ)おのれ を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」とありま す。あのゲツセマネの祈りにおいても、主は「わが意にあらず、御心のままになした まえ」と祈られました。主イエスの内には、父なる神の御心ではないものは何ひとつ なかった。譬えて言うならば、コップにジュースを満たそうとすれば、まずコップを 空にしなくてはなりません。主イエスは、ご自分というコップの中身を空にされて、 それを「空しく」されて、父なる神の御心によって完全に満たされることを願われた のです。  私たちの人生も、それと同じでありましょう。私たちもまた、まずおのれの力を空 しくし、主イエスの恵みの御手に、おのれを明け渡すことによって、はじめて、神の 御力に満たされた人生を歩むものとされるのです。弱さの中にさえ、否、弱さの中で こそ、神が私たちを確かな恵みの御手をもって支え、力強く導いて下さいます。その ようにして私たちは、使徒パウロと共に、また私たちの信仰の友らと共に、「わたしは 弱い時にこそ、キリストにあって強い」と、感謝と讃美をもって歌うことを許されて いるのです。